職業について③ / 浅野史郎

  • sns

役所の人事異動の際に、人事課長に「私はどこどこのポストに就きたい」なんてことを申告する役人はいない。そもそもそんな希望なんて訊かれもしない。それなのに当時の厚生省渡辺修人事課長は私を障害福祉課長にしてくれた。多分、ほんの気まぐれでやったことだろう。でもその気まぐれのおかげで、念願のポストにつくことができた。この日この時、障害福祉課長になっていなければ、今の私はここにいない。まったく違った、愉快でない人生を送っていただろう。これを運命といわずしてなんというのか。

1987年(昭和62年)9月28日、浅野史郎(39歳)は厚生省児童家庭局障害福祉課長に就任した。就任したその日から意欲満々、グループホームの事業を絶対実現するぞと走りだした。

毎日毎日が楽しくて仕方がない。日曜日の夜には「明日から仕事ができるぞ」と胸が躍った。こんな経験は、後にも先にもこの時だけ。障害福祉の現場を求めて全国を駆け巡り、志のある多くの人との出会いがあった。こんな毎日が楽しくないはずがない。

こうやってできた仲間を母体に「障害者の人権問題懇談会」を設置した。障害福祉課の隣の物置部屋で月に一回、障害者の人権問題について話し合う。後から加わった日本てんかん協会の松友了常務理事は「役所がこんな過激な議論をしているのに驚かされた」との感想を残している。

毎日毎日新しい施策について考えて、会いたい人に会って話を聞き、どんどん思いが膨らんでいく。障害福祉については課長が全権を握っている。上司である局長は、個別の分野に直接は関わらない。一番仕事がやれるのは課長ポストである。

長尾立子児童家庭局長は有能な役人である。下手な説明でもすぐ全体を理解してくれる。一を聞いて十を知る方。ちなみに、私は一を知って十を語る奴と言われていた。長尾局長は飲み込みが早いので、こちらはとてもやりやすい。課長さん方は好きなようにおやりなさい、責任は私が取りますからとも仰っていた。長尾さんは社会保険庁長官で退官し、のちに参議院議員、法務大臣をお務めになった。

障害福祉課長として仕事をしているうちに、公務員としての役割認識が違ってきた。それまでは、自己紹介をするときには「厚生省の年金局で年金の仕事をしています」としていたのが、「障害福祉の仕事をしています。持ち場は霞が関の役人です」といった具合である。

障害福祉の仕事は「障害者の人権を守るために戦う」ということである。敵は世の中の無理解、無関心である。その敵に対してスクラムを組んで戦っている。スクラムを構築しているのは、障害当事者、その家族、施設職員、学者、マスコミ、障害者団体等々である。その中に役人である私が加わっている。障害福祉課長時代は、そんな感覚で仕事をしていた。

こんな幸せな日々にも終わりがある。1989年(平成元年)6月27日、私は人事異動で障害福祉課長から社会局生活課長に異動させられた。在職期間は1年9ヶ月。覚悟はしていたが、無念であった。関係者に異動を知らせる挨拶状の全文をあえて再録する。

「人の命に限りがあるように、役人の任期にも終りがあります。まして平均寿命一年数ヶ月の障害福祉課長の職です。就任の瞬間からこの日を覚悟していたつもりです。ー中略ーいずれ別れが来ることを知るがゆえになおのこと燃える逢瀬の如く、一日一日をいつくしむよう過ごしました。“いいな、いいな。いつまでも障害福祉の仕事を続けられる人はいいな”とうらやみ、役人の宿命を嘆くのです。ー後略ー」

離任49日目に四十九日の法要(お別れパーティ)を営み、追悼文集を出した。追悼文集は108頁、70人が原稿を寄せてくれた。いずれの企画も浅野史郎本人の発案である。

未練たっぷりで障害福祉課長を辞め、次の職である社会局生活課長の仕事に臨む。

続きは次回。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

  • sns