本の出版について① / 浅野史郎

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人生のいつの時点なのかは忘れたが、自分が死んだ後に自分が生きてきた証しが何も残っていないというのはいやだなと思うことがあった。「この世に3つのものを残す」と心に誓った。自分の子、自分の名前と自分の本の3つ。心に誓うといった大げさなものではない。自分の子は残せた。今や孫もいる。自分が死んでも、私のDNAは末代まで伝わっていく。「名前」というのは、有名人になるということ。ネットで「浅野史郎」を検索すると記事が出てくるという程度のもの。宮城県知事を3期務めたことで、これは達成できたようだ。

3番目の「自分の本を残す」、これが今回のテーマ。

私の最初の本の出版は、「ぶどう社」の市毛研一郎社長との出会いから始まった。私が厚生省の障害福祉課長になってすぐの頃、「月刊福祉」で「コラム・霞が関発」の連載を始めた。その第1回に「世をあげて老人問題、老人問題と騒いでいるが、障害者問題の重要性は少しも減ってはいない」と書いた。それを読んだ市毛さんが「我が意を得たり」と膝を打ち、私に関心を持ったらしい。

市毛さんが実物の私に会ったのは、埼玉県嵐山町にある国立の女性教育会館で開催された地域福祉研究会議で、私の講演を聴いた時である。市毛さんは講演を聴いて「これは思っていたよりもずっとマジメで面白そうな人だ」と思ったらしい。「この人の本を絶対に作るぞ」と市毛さんはその場で決心した。

市毛さんは私の本を作るぞと言っているが、ここまでに2本の連載原稿といくつかの講演をまとめた文章しかない私としては、こんなんで本なんて出せるわけないじゃないかと半信半疑であった。半信半疑のまま、その場で本のタイトルだけは決めてしまった。市毛さんの熱意に負けて、その気になってしまったからだろう。その場にいた佐藤進さんも加わった熟議を経て、書名は「豊かな福祉社会への助走」に決まった。「助走」を使ったのは、当時、朝のジョギングを日課としており、「走」の字を入れたかったから。

「豊かな福祉社会への助走」は、1989年4月10日にぶどう社から出版された。時に浅野史郎41歳、私の第一子ともいうべき処女作である。うれしかった、感無量であった。この本で私が書き下ろしたのは、「はじめに」と「あとがき」のところだけ。そのあとがきの一節、「ぶどう社主宰の市毛研一郎さんが、あまりおいしくもない材料からそれなりの見栄えのする料理へとたくみな包丁さばきを見せてくれた」。市毛さんとぶどう社には感謝しかない。ありがとうございました。

出版してすぐに出版パーティを開いた。もともとがパーティ好きの私である。大勢の仲間を集めてワイワイ騒ごうというだけ。出版パーティの企画・制作は佐藤進さんにやってもらう。パーティは、1989年4月28日(金)、東京・日比谷のプレスセンターホールで開催。タイトルは「浅野史郎の出版を記念する会——出会い‥語らい・明日への助走」。300人を超える人たちが全国各地から集まった、全員が障害福祉に関わる人たち。和気藹々、熱気ムンムン。私は大満足、そして大感激である。

この出版パーティで出会ったのが縁で、その後友人関係に発展したという例がいくつもある。出版パーティは同じ志の仲間を増やすことにつながる。障害福祉に関わる人の輪が広がる。出版パーティにはそういった効用があることに気がついた。私のパーティ好き度はもう一段階上がった。それからは、出版パーティをするために本を書くという習性が定着してしまった。

「豊かな福祉社会への助走」の出版の2年半後。またまた市毛研一郎さんと組んで、「豊かな福祉社会への助走part2」を出版した。障害福祉課長を辞めてからのポストである厚生省社会局生活課長、厚生年金基金連合会年金運用部長時代に連載していた原稿を収載している。出版後、出版パーティを開いたことは言うまでもない。障害福祉関係の人たちに加えて、生協、婦人保護、年金資産運用関係の人たちも参加した。

次回に続く。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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