居眠り先生のこんにゃく授業。 / 鶴﨑 彩乃

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私は学生生活で2度、給食を食べていた期間がある。1度目は、小学校。2度目は、高校である。

私が小学校入学前、身体障害を持っている子どもは、有無を言わさずに養護学校(今は特別支援学校という名称です。)という一般の学校とは違う学校に入学する。それが、母のイメージだったようだ。「それは、おもしろくない。」と感じた母は教育委員会や周囲の人達と連携して、私を含めた身体障害児3人が地域の小学校に入学することになった。

そのとき、私は小さかったので母が動き回っているという印象はあったものの、「ママぁ〜。ポテチ食べていい?」ガザゴソ。みたいな極めてのんきな態度だったので、母は、「あんたのためにやってんねんけどぉ!」とイライラしていたらしい。

こう書くと、教育熱心な人なのかと想像されがちだが…母に「勉強しなさい。」と言われたことは、ほぼない。私が記憶しているのは、大学入試を控えた年に「勉強してるのよね?」と薄く確認された数回だけである。

母自身は、勉強が異常に肌に合わなかったらしく、私が宿題をしているだけで、本当に不思議そうに「なぁー。なんでこんなんやる気になんのん。ほんま偉いなぁ。」と言われていた。そのため、よくアニメなどで主人公が親に怒られないように悪い点数のテストを隠すシーンがあると思うのだが、「なんで、あんなことすんねんやろ?スッと見せたらいいのに。」と小学校低学年の頃は本気で思っていた。

それを、少し大きくなってから友人に話すと「それは、あんたが頭いいからやっ!」と総ツッコミをくらうのだがそうではない。中3の通知表で、1が並んでいても母は、「いやぁー。今どき1なんてなかなかないわ。レアやで。」とカラカラ笑っていた人である。

その頃の私は、精神的にもしんどくて自暴自棄になり、何に対しても無欲だったと思う。もちろん、進学に対しても。そんな時期に進路の選択肢として目の前に現れてくれたのが養護学校だった。

正直、最初は今までの学校生活との違いに戸惑った。スクールバスで送迎があったり、家から5分のバス停まで私1人で通うのに先生達が1週間付き添う等、独自のルールがあった。とても驚いた。しかし、私にとっては良いところの方が多かった。

マンツーマンの授業だったし、勉強方法も各教科の先生と相談して決めることができたため、勉強の理解度も上がり、何よりめちゃくちゃ楽しいものになった。

ある日の数学の授業中、私の解答が遅すぎて先生が居眠りをしてしまい、私が必死になって考えているのに、となりから「フゴッォ〜」といびきが聞こえてきた。「先生、起きて。」と爆笑しながら起こしたことも、今ではいい思い出だ。音楽や体育などの授業では、障害の程度に関係なくみんなで楽しく行った。

1度、高等部全員参加の調理実習で「こんにゃくをつくろう。」というものがあった。知ってますか?みなさん!こんにゃくって、「いも」から作るんです!その名もこんにゃくいも。そのままかいっ!しかも、「使い方間違えたら、手が溶けるで。」って脅されるぐらいの薬品にこんにゃくいもをひたすところから調理が始まるのだ。食べ物ができあがる過程じゃないよね?

人類の「食」への執念をみた。めちゃくちゃおもしろかったが、「これ普通校やったら絶対無理やったろうな…」と思っていた。このときの高等部の人数は10人以下だったから、あんな授業が成立したのだと思う。そして、できるだけみんなで楽しんで学べることとして、考え出されたものがあの「こんにゃく授業」だとしたら、いい時期にいい学校にいたなぁー。と今になってしみじみ思う。

養護学校から大学に行ったというと、驚かれることが多い。そのとき、私はこう答える。「中学んときは、全然勉強できひんかったんです。でも、高校のときに私にあった環境に出会えたから、大学進学っていう目標を達成できたんやと思います。」と。

私は、運のいいことに地域の学校の良さも養護学校の良さも知っている。もちろん両方ともに短所も存在する。1番大事なのは、選択肢が多数あって、そのどれを選択したとしても本人が望む場合、適切なサポートが得られることだと思う。誰でも、「楽しそうだなぁ。」と思う道を歩みやすい世の中になりますように。

 

◆プロフィール
鶴﨑 彩乃(つるさき あやの)
1991年7月28日生まれ

脳性麻痺のため、幼少期から電動車いすで生活しており、神戸学院大学総合リハビリテーション学部社会リハビリテーション学科を卒業しています。社会福祉士・精神保健福祉士の資格を持っています。

大学を卒業してから現在まで、ひとり暮らしを継続中です。
趣味は、日本史(戦国~明治初期)・漫画・アニメ。結構なガチオタです。

 

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