私が介護を始めた理由 / 曽根田拓史(ホームケア土屋 広島)

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介護職に興味を持ったのは確か高校生の頃だったかと。
中学・高校と全くと言っていいほど勉強をしてこず、当時バンド活動に没頭しており、家にいる時間は風呂に入る時間と食事の時間以外は部屋へ引きこもりギターを弾いていた。

毎晩夜中まで爆音でギターを弾きまくる私に対して両親は心配したのだろう。
ある日当然、家庭教師と名乗る人が家に来て、「お前に勉強を教えるよう親父から頼まれた」と言い放ち、強制的に勉強会がスタートしていった。

その家庭教師が長年、福祉関係の仕事をしていたことから、仕事の話を聞くたび将来は福祉の業界に進もうかと考えるようになった事を今でも覚えている。

よく、介護職をされている方の志望動機は「人の役に立ちたいと思ったから」「高齢者や障害者が好きだから」「やりがいがある仕事だと感じているから」等の理由が多いように感じているが、正直なところ、私の場合ただなんとなく福祉の業界へ進もうという感じでもあった。

高校卒業後、福祉関係の学校へ入学して4年間福祉について勉強をして、卒業後には障害者の就労支援の施設に就職するようになった。

大学卒業後の私はすぐには社会人になりきれず、学校で学んできたことと現場での理想と現実の大きなギャップを感じたり、嫌気がさす職員間の派閥争い。派閥争いを早々に戦線離脱した私は、挙句の果てに「曽根田はバツイチ」等々、根も葉もない噂を流されたりとさんざんだった。

「そもそも大学卒業したばかりで自分の事で精一杯なのに、人様の為に低賃金で働くってどうなのよ?」

「俺はもっと楽しい仕事がしたい!!」

等々考えているうちに、知人の経営しているまったく畑違いのアパレル業へ転職をするようになる。

靴屋で店長まで任せてもらえるようになり、仕事も順調で楽しく、気の合う仲間と働き、喫煙所に行けば毎日が合コン状態で「すげー楽しいじゃん!!」と中二病の私は当時有頂天に達していたような気がする。

だが、そんな状態も長くは続かず、広島に大型商業施設が3店舗でき、来客数が途端に消えはじめ、しのぎの削りあい状態に陥ることとなる。
ひどい日には売上の為、心を鬼にしてスニーカー1足に対してソックス10足セット売りなんていう狂った接客もせざるを得ない状態であった。
やがて広島だけでなく、東京をはじめ全国的にブランドの経営不振が続き、私の働いていたブランドは倒産することとなる。

20代半ばで無職になり、色々と次の仕事について考えているうち貯金も底をつきそうになり、このままではやばいと感じ、派遣スタッフとして再び介護の業界へ復帰することを決意する。

ただ、なんとなくでこの業界に進もうかという思いではあったが、本気で仕事をしていくうちに徐々に介護の仕事の魅力に取りつかれていった。言葉ではなかなか表現するのが難しいところもあるが、人様に必要とされている事をうれしく感じ、また自分がクライアントの生活を支えているという使命感みたいなものもあった。少しずつ自分が成長していっている感じがしており、とにかく充実している日々を送っていた。

派遣で2年間高齢者介護を行い、その後、前職で正社員に、そしてこの土屋で現在に至る。
このコロナ禍で飲食店をはじめ、様々な業界が苦しい境地に立たされている中、仕事が無くなることはなく不況に強いという点も介護職の魅力だと改めて考えさせられた。

私が障害者介護に就いて1年半が経った。介護業界に進もうと決めた理由は決して覚悟があるものとは言えないが、現在は介護の仕事をしていることをとても誇りに思う。

 

曽根田 拓史(そねだ たくし)
ホームケア土屋 広島

 

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