私が介護をはじめた理由 / 齊藤恵美(ホームケア土屋 郡山)

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介護をはじめた理由…
最初に頭に浮かぶのは小学校5年生の時に亡くなった曾祖母の存在。
両親は共働き。祖父母も仕事。帰宅後は曾祖母と一緒にいる時間が多かった。
特になにを話すでもするでもない曾祖母との時間がとても好きだったが、両親の都合で祖父母宅から出ることになり、曾祖母とも離れて暮らすようになった。

定期的に曾祖母に会いに行っていたが日に日に認知症症状が強くなり、最後に会いに行ったときには曾祖母は私が誰なのかもわからなくなっていた。

曾祖母の葬儀の時、母親に「おばあちゃんが死んだのは私のせいだ」と言ったことを今でもはっきり覚えている。曾祖母にとって曾孫である、私が唯一の味方だったことを子供ながらに理解していた。その贖罪の意識から中学生のときに施設でボランティアを始めた。

病院に併設されている老人ホーム。
日中はホールでずっとテレビを見せられ、自由に動くこともできない状況に愕然としたのを覚えている。

「ここにいるみんなを笑顔にできる介護士になれたら…」
これが一つ目の理由。
施設でボランティアをしながらも少し?やんちゃな中高時代を過ごし、介護をやりたいと思いながらも母親からの反対もあり、その道に進むことを諦めた。

21才で一人目の子供を出産。その後、3人の子供の母となり、同時にひとり親として生活していくようになる。少し変わっていた長女だったが、あまり重く受け止めてなかった。長男の1歳半検診の時、保健師に言われた一言。

「おねえちゃん、発達障害かもしれない。2次検診を受けてください。」
結果、『広汎性発達障害』の診断。不思議とこの時点でショックを受けることはなく、むしろ安心したのを覚えている。ただ、目に見えてわかる障害ではないということで、ここでは書ききれない程の思いをした。

2011年3月11日 東日本大震災。
この時、私の脳裏に浮かんだこと。
人はこんなに簡単に死んでしまう。このままでいい?やり残したことは?
これが2つ目の理由。

曾祖母のこともあり、認知症対応型グループホームで勤務開始するも現実と理想の違い。
見事に燃え尽き、数年で介護の仕事を離れる。
この数年間の長女の様子はというと…とても大変だった。この一言しか出てこない。
ただこの大変さが、もう一度介護をやろうと私に思わせた。

軽度発達障害。さあ、この子たちはこの先どうすればいい?手帳をもらうことも出来ず、グレーゾーンと言われ、でも学校は支援クラス。社会に出たら?誰がこの子たちを支えるの?私が障害福祉に進んだ理由は、この子たちの居場所・逃げ場を作りたい。
軽度発達障害だけではなく、LGBTQとくくられてしまう人たちもすべてを『個性』として受け止められる社会を作れたら…
これが私が今も福祉を仕事にしている一番の理由。

長くなってしまいましたが、軽度発達障害・LGBTQや不登校・引きこもり…
偏見なく認め合える社会になることを願います。

 

齊藤 恵美(さいとう えみ)
ホームケア土屋 郡山

 

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