私が介護の仕事を始めた理由 / 小島寛也(ホームケア土屋 東海)

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私、小島寛也は、昭和51年の七夕にこの地に生を受けました。
幼少期から中学までは野球に明け暮れ、高校からラグビーを始めるという、どこにでもいるスポーツ好きの少年でした。
これといった成績を挙げることもなく、ただ好きな事をやっているだけの学生時代を過ごしてきました。

その先の就職のことなど何も考えずにきてしまい、大学4年生…さぁどうしましょう、となったときは20年後に、自分が介護の仕事に就くことになるとは到底想像出来ません。
何がしたいという考えもなく、当時思ったことは、どうせ働くなら先の長い職種を…と思い、20数年前に走り始めたリユース業に的を絞り、数社の面接を受けました。
まだまだリユース業の認知が世間に浸透しきっていない当時は全て採用でした。
その中でも服飾や楽器、オーディオ・コンピューターなどを中心に扱う、とある企業に勤める事を決心ました。

もともと人と話すことが好きなのと、服やパソコンも好きでしたので、仕事も楽しく長く続けてきましたが、転機はそこから20年後…、右肩上がりの業績も、メルカリやヤフオクなどの個人間での売買が主流になってきたときに少し翳りが見えてきたのを感じていました。

当時の私の勤めていた会社は、あくまでも対人での商売を!と方針を示していたのですが、ついにインターネットを駆使して…と方針転換したころにはずいぶん遅れをとってしまい、閉鎖する店舗も増えてきておりました。

リストラ対象になる前に退職を願い出て、その後マッサージの資格を取りました。
個人事業主として届を出した時に、私の祖母の介護をしていた母が、もうさすかにしんどい!と訴え、介護の右も左もわからない私が手伝うことになりました。

祖母にこんなことを言われました。
これから老人が増えていくから、あんたみたいな手伝ってくれる人がいないと困る人がたくさん出てくる。と。

もちろん高齢化が進み、介護が必要な人が増えていくのは私もわかっていました。
どちらかというと私には関係ないと目を背けていた所でもありました。
1ヶ月程の介護のお手伝いの後、祖母は施設に行きました。

ほんの1ヶ月の経験ですが、祖母の「ありがとう」という言葉や、ニコニコしてくれる表情を見ていると、仕事としていけるんじゃない?
自分の好きな人とコミュニケーションを取りながら、喜んでもらえる!
先もずっとある業種!
これしかないと思い、この業種に乗り込んできました。

高齢者と障害者の違いはあれど、「ありがとう」という言葉を聞くのは嬉しい事であり、やりがいにもなります。
仕事となると、緊張感もあり、責任も出てきます。
今でもキツい事や、逃げ出したくなるときもあります。
それでも「ありがとう」という言葉を頂けるのであれば、身体が持つ限り続けていくべき仕事と思い、今この文章を書いております。

未熟で弱い私ですが、必要とされる限り、たくさんの人の「ありがとう」を貰いながら努めていこうと思います。

 

小島寛也(こじま ひろなり)
ホームケア土屋 東海

 

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