歌は世につれ② / 浅野史郎

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歌といえば童謡しか知らない幼児期を過ぎて、小学校時代になると、ラジオから流れてくる流行歌が耳に届いてくる。哀愁列車(三橋美智也)、お富さん(春日八郎)、ここに幸あり(大津美子)、南国土佐を後にして(ペギー葉山)、港町十三番地(美空ひばり)、東京だよおっ母さん(島倉千代子)・・・。

いい歌だなと聴いていたが、特にお気に入りの歌手というのはなかった。歌詞は日本語なので、たいていの歌は自分でも歌えた。その歌手の方々は、大津美子さんを除いて、すべて鬼籍に入られた。時の流れを感じる。

英語の歌に親しむようになったのは、仙台市立第二中学校に入った頃、史郎少年12歳のみぎりである。ラジオから流れてくるポップスは、歌謡曲とは全然違った種類の音楽であり、少年の心を奪うのに十分であった。歌詞は英語だから、ほとんど聴き取れない。むしろ、そういった異国語で歌われる曲だからこそ、ゾクゾクするような興奮とともに聴いたような気がする。

ラジオでは洋楽をよく聴いた。S盤アワーはビクターレコードの歌が流れる。ニール・セダカ、ポール・アンカ、ペギー・マーチの歌声はこの番組で聴いていた。L盤アワーはコロンビアレコードを使った番組。たまに聴いて、アラスカ魂(ジョニー・ホートン)、ミスター・ロンリー(ボビー・ヴィントン)が耳に残った。お気に入りの番組は志摩夕起夫がDJを務める「東芝ヒットパレード」。「この番組は東芝・エンジェル・キャピトル・キャップ・リバティ・ワーナー・ステーツサイドのレコードを使ってお送りしました」という志摩夕起夫の声に魅了された。私がDJを目指したのは志摩夕起夫の影響大である。

洋楽は日本の歌手が歌っちゃダメと思っていた。アルマ・コーガンの「ポケット・トランジスタ」を森山加代子が歌っていたが、オリジナルと比べてしまい、「違う、全然違う、へたくそ」といった具合に聴いていた。イギリスの天才少女ヘレン・シャピロ(当時14歳!)の「子供じゃないの」、「悲しき片思い」は、新人弘田三枝子がカバーしていた。歌唱力は大したものだったが、ポップスを日本語の歌詞に乗せて歌われると、どうしても違和感が残る。

男性歌手では、坂本九ちゃんが、エルヴィス・プレスリーの「G・I・ブルース」を日本語で歌っていた。実力が違い過ぎる。しかも、日本語にして歌うと軽過ぎる。デル・シャノンの「悲しき街角」、「花咲く街角」も九ちゃんはカバーしていたが、オリジナルのデル・シャノンの歌唱力がいまいちなので、なんとか張り合ってはいられた。

今でも心に残る歌は、「恋の片道切符」のニール・セダカ、「ダイアナ」のポール・アンカ、「砂に書いたラブレター」のパット・ブーン、「悲しき少年兵」のジョニー・ディアフィールド、「ビキニスタイルのお嬢さん」のブライアン・ハイランドなどなど。

「英語の歌」の逆の例は、コニー・フランシス。「夢のデイト」、「ボーイ・ハント」、「かわいいベイビー」、「大人になりたい」、「ヴァケイション」など、彼女が日本語で歌う曲は、日本では大ヒット。コニー・フランシスは、アメリカでも実力歌手として人気があったが、日本での人気も相当のものであった。その原因のひとつは、彼女がたどたどしい日本語でポップスを歌ったことである。

時代は1960年代前半。「60年代ポップス」として、今でも一時代を画するものとして、言い伝えられている。「オールディーズ・バット・グッディーズ」、直訳すれば「古いが良きもの」、略して「オールディーズ」と言えば、このころの曲が中核であり、永遠に不滅な輝きを今に残している。

史郎少年が、まだエルヴィス・プレスリーを知らなかった頃の出来事である。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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