Harmonius cacophony…? / 古本聡(CCO 最高文化責任者)

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去る9月5日に催された東京パラリンピック閉会式のテーマは「Harmonious Cacophony」だった。直訳すると「調和の取れた不協和音 ~違いが輝く世界~」になる・・・と、大会組織委員会は胸を張ってアナウンスした。

確かに、日本語の題名を素直に読み取れば、容姿にも思考にも、そして感じ方にも様々な違いがある「人たちが発する声」を音の集合体として捉えるならば、「不協和音」として見ることもできる。その多様性を認め合えさえすれば、不協和音のままで混ざり合わずに調和できる。そういう想いと願いが込められた題名なのだろう。

が、40年近くもの間、翻訳業・通訳業という、言葉一つ一つの背景にある文化、歴史、価値観、人間観を探らない限り、異国民・異民族同士が真に理解し合えないことを痛感してきた「元言葉屋」の私は、どうしても邦訳する前の題名に含まれる「Cacophony」という英単語に目が行ってしまう。いや、もっとはっきり言ってしまうと大きな違和感を覚えざるを得ないのだ。

「不協和音」は元来音楽用語だが、「Cacophony」は違うからだ。

試しにこの単語を、世界的に有名なWebster、Oxford、Longmanといった英英辞書で調べてみると、概ね第10語義くらいに「mus. Discordance, Dissonance (不協和音)」を発見できる。つまり、Cacophonyと不協和音とは意味的にだいぶ遠い関係にあるということだ。直訳では「不協和音」ではなく「不快音」である。

ちなみに、「Cacophony(Какофония)とは不快な音、カオス的で意味をなさず、人の神経を逆なでする音を意味する用語である。その一方で、音楽で不快な音といえば、一般的には不協和音と理解されがちだが、不協和音とは不快な音ではなく、あくまで濁った、共鳴し合わない和音のことである。不快な音を指すのはこのカコフォニーであり、似て非なるものである。」という記述をロシアの音楽事典で見つけた(筆者訳)。

だとすると、パラリンピック閉会式のテーマは、オリジナルの英語版ではいったいどんな世情を、はたまたどんな人々を指して「不快音」と呼び、それらを調和させようというのだろうか? 邦訳の「不協和音」はオリジナルの意味を耳障り良くするための方策か? はたまた誰と誰とを調和させようというのか?と、私は妙に疑り深くなってしまった。

不協和音という言葉の名誉のために述べておきたいのだが、もとよりそれは、芸術分野における効果的表現の一つの有効な手法だ。音楽に限らず、絵画や造形美術においても、異質さを取り込むことによって、観たり聴いたりして作り手の感覚や意思を受け取る側に今までにない感覚を呼び起こすことができる。クラシック音楽作品の60%、ブルースやジャズ、ロック、ポップスの90%が不協和音で成立していると言われている。不協和音は固定観念を打破し、新しいものを生み出す強烈なインスピレーションにもなると言えるだろう。

元の言葉と、「直訳」だと大会委が主張している邦訳語との間には、矛盾する言葉が並んでいるようで、ずいぶん大きな隔たりがあるのは確かだが、大会委の定義と解釈を当てはめれば、世界は不協和音そのものといえる。それを融和させるのが、違いを認め合う姿勢だということには大いに賛同する。

「テロとの戦い」を掲げアフガニスタンに侵攻した米軍は20年後に撤収。それに伴いアフガンではイスラム主義組織「タリバン」が復権した。米国に、いや私達にも排他的な、価値観を押し付ける心がなかっただろうか。世界の障害者を始めとして様々な弱い立場に追いやられている人々を取り巻く状況も未だもって、そういう面では過酷としか言いようがない。それらの事柄を今一度考えてみる必要はないだろうか。

何やら抽象的な話になってしまったが、Cacophonyと不協和音をどう受け止め、どう対応するかで結果が変わってくるという考え方もできるのではないだろうか。

土屋のバリュー(5)「寛容であれ、肯定的であれ、かつ、批判的であれ。」

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当

 

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