調和する不協和音 / 長尾公子(取締役 社長室室長)

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中学一年の時、老人ホームを訪問し、高齢者と触れ合いましょうという機会がありました。ボランティア活動が盛んな学校でしたので、基本断れない(断らない)という雰囲気の中で、おじいちゃんおばあちゃん大好き人間だった私は、いそいそと参加したのを覚えています。

個室で過ごす方や何かレクリエーションをするための広場にいる高齢者の方々に私はいつも通りの調子で話しかけました。だいたいの方が子供である自分達に目を細め「よく来てくれたね~」「若くて肌がぴちぴちだ!」などと好意的で、時折感極まって涙される方がいらっしゃる、そんなほのぼのとした光景だったかと記憶しております。
そんな中、突如側に居たMちゃんが嘔吐しました。「どうしたの?大丈夫!?」周囲から上がった心配の声に、Mちゃんは泣き出しました。部屋の端っこの方に連れていかれた彼女の様子は女子中学生特有の情報伝達回路で逐一伝わってきました。

「お年寄りが気持ち悪い、匂いも見た目も我慢できないから今すぐ帰りたい」Mちゃんが嘔吐した理由はそういうことだったようです。

人間そうそう予兆なしに嘔吐できる生き物ではないと思いますから、高齢者がいるということだけで、そこまで体調が悪くなるまでの嫌悪感を持つ人がいるという事実には私も驚きました。
生まれた環境に備わったものとして、日常的にごく自然な振る舞いとしてその日も高齢者たちとお喋りしていた自分にとっては、青だと思っていたものが赤だったというくらいの衝撃でしたし、それまでの自分を否定されているかのような錯覚にも陥りました。
当然、それ以降のMちゃんに対する周囲からの風当たりは強かったです。「酷すぎる」「人として終わっている」「しゃべるのやめよう」とか、ありがちで残酷な空気がそこには残りました。

あれから25年が経った今でも当時ことは強烈に覚えています。なぜ福祉の世界にいるのか、たぶんこの出来事が頭をちらつくからかもしれません。彼女を排除しようとする流れが性に合わなかったですし、むしろ何がそうさせたのか背景や理由を知りたい、教えて欲しい、そんな気持ちになりました。

「調和する不協和音」

不協和音が多様性を表現しているとしたら、調和するとは、どのようなことを表しているのでしょうか。認め合うことでしょうか。尊重し合うことでしょうか。
私は、“ひとそれぞれ”とか、“みんな違ってみんないい”の先にある、偶発的でも奇跡的でも構わないのですが、そこに何か温もりを感じる世の中を期待します。
人は、理解できないものが目の前に現れたとき、排除しようとします。排除することは勉強をしたり議論するよりも早く、思い通りに進められるのでそうなるのかもしれません。動物としての本能かもしれませんが、場当たり的であり、根本的な解決は生みません。また、多くの場合は、暴力性を感じます。

どんな暴力なのか。それは「知らない」「分からない」という受け手側自身の変容への固辞、不勉強(現状認識を拒む)、変わることを拒む姿勢なのではないでしょうか。

人間は「社会的動物である」と言いますが、「社会」の維持のために同質性を維持したがる傾向があります。「忖度」などが顕著な例でしょう。変化を恐れるあまり、「不健全な同質性を維持する」なんていう状況に陥り、にっちもさっちもいかなくなっている様子は相当息苦しいものかと思います。社会は常に動きます。変化はあるものです。

こどもと一緒にいると、人間はもともとでたらめな生き物ではないかと思うことがよくあります。「でたらめ」と言えば聞こえは悪いかもしれませんが、大人たちの固まった頭や価値観で見るこども達の「でたらめ」な行動は、こども達にしてみれば「自分で試行錯誤を繰り返して行う学習」にほかなりません。

私たちには感覚と思考という現実をとらえるための道具があり、自分と違う立場・環境について想像をするということができます。場当たり的で生産性のない選択である「排除」とは逆の選択をすることもできるのです。何故そうなったのか、そういう考えなのか、何が足りないのか、今まで面倒だから知らないからと蓋をしてきた現実に向き合うということができるのです。

多様性が叫ばれる中、それは、簡単に生きやすくなるとか軽さが出るということではないでしょう。その「簡単さ」とは、「こうこうこうしたら多様性です、尊重してることになります」という誰かに提示されたものを鵜吞みにするような簡単さです。そういう簡単さは結局新たな軋轢を生じさせるだけで、根本的な価値はないでしょう。
一つ一つの価値観、現実を味わいなおす、つまり再定義することは、一見膨大なエネルギーがいることのように感じるかもしれませんが、むしろそれこそが「活きる」ということなのではないでしょうか。
「誰かの価値観の傘に入る」のではなく、「私がこう感じている」ということを直視する姿勢を持つことで、多くの人がきちんと息をして生活できると思うのです。

それはそれぞれが、“自己覚知”を高めることで多様性に触れると言い換えられるでしょう。自分はいったい何が好きで何が嫌いか、どんな思考をしていて、どんな癖があるのか。何が出来て何が出来ないのかを見つめます。そうすると周りの人たちや周りの配慮にいかに助けられているか身に染みてきます。嫌いでも感謝は可能です。
そして自分の中にも多様性はかなり混在しているはずです。あれもしようこれもしようと決めていた日に結局本を読んで終わったり、猛烈に掃除を始めたり、人混みが異常に苦手だったり、他人の行動に怒りを感じた後、同じことを自分がしていたり。
自分の言動も思い返すと違和感だらけです。

その違和感、いびつさの集大成が私という一人の人間だとすると、それなりに毎日楽しく過ごせているわけで、この社会もひょっとするとこういうことの相似形なのではないでしょうか。

“多様性”と言われる割に、一つの失敗や違いがSNSで拡散され、もうこれ以上生きることすら赦されない、という矛盾の解決の糸口がここにあると感じています。

今思うことは、あの時のMちゃんと自分はあまり違わないということです。そしてもっと言うと、以前私が嫌ったあの人も、そしてあの人も結構似ているということです。そう思うと無関心である状態から解き放たれるような気がします。“調和する不協和音”がどんなことを表すのか、宇宙にも通じる壮大さとイメージしていますが、まずは、関心を持つということが、第一歩のような気がしています。

 

◆プロフィール
長尾 公子(ながお きみこ)
1983年、新潟県生まれ

法政大学経営学部卒。

美術品のオークション会社勤務後、福祉業界へ。通所介護施設の所長や埼玉の訪問介護エリアマネージャーを経験し、2017年、出産を機にバックオフィス部門へ。現在は3歳と0歳の子育て中。

 

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