再び「怒り」について考える、私は正しい!は本当か? / 佐々木 優(ホームケア土屋 四国 ブロックマネージャー)

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私は正しい!は本当か?

世の中(公序良俗)の何かについて問われる【正しさ】について思うこと。
私もあなたも、あの人もこの人もどの人も、正しいかもしれないし正しくないかもしれないし、その間かもしれない。
だから、本当か?と訊かれれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれないとしか答えられない。
そうして【正しさや本当】というものは、いつもふわふわ漂っていて実に流動的なのだ。

だから今の私の文章も、言い切れないからふわふわしていてきっと解りにくいだろう。

例えば―――

私がおやつにクッキーを買うとしよう。

Aは100円、Bは200円、Cは300円

・私がお金をそれほど持っていなければAを選ぶだろう。
・私のお金に余裕があれば、好きなチョコでコーティングされているBを選ぶだろう。
・もし私にアレルギーがあれば、高くてもアレルゲンフリーのCを選ぶだろう。

どのクッキーを選んだとしても、その時々でそれらの選択は全て【正しい】といえる。
私が、正しさはいつも漂っていて流動的だというのはそういうことだ。

では、もし正しさを決定付けるとするならば、その具体的な要素は何なのか。
それは【目的】だ。
【目的】とは、その将来に成し遂げたいと目指している事柄(状態)である。

先ほどのクッキーの話の中の【目的】
・お金がないけど買いたい(経済を優先)
・美味しいものを買いたい(品質を優先)
・身体に良いものを買いたい(安全を優先)

【目的】を明確にすることによって、それにリンクするように【正しさ】は様変わりするのだ―――
(前置きの前置き終わり)

では、【怒り】について考える、私は正しい!は本当か?

この問いは【あなたは許せない何かに怒りを覚え、自分が正しいと信じる事柄を怒りをもって強く主張しているが、そうあなたが主張することは本当に正しいと思っているのか?】
ということなのだろう。

この問いに対し、問いで返すとこうなる。

【あなたは、誰かが怒りを覚えては正しいと信じる事柄を怒りをもって強く主張していることに対して、その人が主張することが本当に正しいと思っているのか?という疑念を抱いているようだが、あなたが疑念を抱くことは本当に正しいと思っているのか?】
(そしてこれが堂々巡り・・・)

クッキーを買うだけのことでも【正しさ】があれだけあるのだから、世の中の諸々を個々が持つ【正しさ】の主張だけをもって論じ合うと、堂々巡りになるのは当然だ。

ここで再び。
【目的】とは、その将来に成し遂げたいと目指している事柄(状態)である。

もし、何かの論争に際して明確な【目的】を具体的に打ち出して共有(理解)できていれば、【正しさ】の無意味な応酬が延々に繰り広げられることを避けられる可能性が高いだろう。というよりは、そもそも怒りを発するような激しい論争にはなり得ない。

「金がないけど買いたい。」と私が初めから【目的】を示していれば、100円のクッキーを買うことに誰も異論を挟まないように。

人は、参加するコミュニティにおいて【目的】が明確に共有されていない場合、個々が【仮想の目的】とそれを達成する為に選んだ【仮の規律】を自らの中に設定し、それらを基にとりあえず活動しようとする。
その活動の上で、自らの【仮想の目的】や【仮の規律】に反する他の参加者のそれに出会うと、反射的にコンフリクト(衝突)が発生する場合がある。

ここでは、そのコミュニティにおいて【明確に共有されなかった目的】の重要度が強く影響してくる。
その【目的】の重要度がさほど高くない場合は、コンフリクトの度合いは低いもしくは起こらないが、重要度が高い場合は激しいコンフリクトを生む恐れが出てくる。

私が100円のクッキーを買うか200円のものにするかのことで、いちいち誰かと怒りを感じてまで衝突したりしないだろう。
しかし、これが誰かの生き死にや、不特定多数の利益(感情や経済)に大きな影響を及ぼすことになれば話は別だ。
今もなお続く中東の国内外の争いを見ていれば分かるはずだ。
同じ中東というコミュニティの中で、それぞれの国の【目的】の違いから毎日のように血を流しあっているのだ。
彼らは怒りにまかせて人を殺すことを決して楽しんでいるのではなく、家族を殺されて平気な訳でもない。
彼らが背負う【仮想の目的】があまりにも重くて絶対的であり、それが生死にも直結しているからなのだ―――
(前置き終わり)

では本題(結論)に入ろう。

【怒り】について考える、私は正しい!は本当か?

私もそうであるが、ほとんどの人は好き好んで怒りを発している訳ではないだろう。
先ほどの中東情勢の話は極端な例かもしれないが、重要度の高い【仮想の目的】いわゆる【個々人が信じるもの】が互いにすれ違うことでコンフリクトは起こり、目的に対する重要度の認識が高ければ高いほど怒りに変化してしまうのだろう。

【怒り】は悪ではなく、すれ違いの悲しみだ。
すれ違う度に怒りを覚えたその人自身を疲弊させていく。

私事ではあるが、先日、自動車免許の更新のために免許センターに出向いた。
所員は受講生に向けて、決して【交通事故は悪】の様には言わなかった。
鉄の塊があのスピードで動いていて事故が起こらない訳はないという。
ただ、できるだけ【悲しい交通事故】を起こさないように、なぜ事故になったのか、防ぐためには皆でどうすればよかったかを熱心に解説していた。

もし、あなたの所属するコミュニティにおいて、怒りをもって強く主張しあうコンフリクトが発生するような状態を避けたいのであれば、あなたのコミュニティにあるべき具体的かつ明確な【目的】が全ての構成員に知らしめ(理解させ)られているか、振り返ることが肝要だろう。
そしてもし【目的】が明確であっても激しいコンフリクトが絶えないというのであれば、それがコミュニティ構成員にとって適切な【目的】であるかどうかを改めて見つめなおす必要もあるかもしれない。

交通局が示す【交通事故での死者数を減らす】というような、明確な【目的】と【規律】があれば、きっと事故=【怒りをともなうコンフリクト】は減ることだろう―――

最後にもう一度考えてみる。

私は正しい!は本当か?

正しいと言う【私】さんも、本当か?という【誰か】さんも、きっとそれぞれが本当(真実)なのだろう。
本当に、本当か?と投げかけなければならない対象は、【私】さんや【誰か】さんではなく、その彼らに課せられた【目的】の所在と適切性なのだろう。

という今までの私の考察も、正しいかもしれないし、正しくないかもしれない―――

 

佐々木 優(ささき まさる)
ホームケア土屋 四国 ブロックマネージャー

 

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