再び「怒り」について考える、私は正しい!は本当か? / 青山純二(本社・新規エリア開発部門 シニアディレクター)

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生まれながらに私達は喜怒哀楽という感情が備えられている。人間だけでなくその他のあらゆる生物も同様である。植物については感情の有無が定かではないため、ここで言う生物とは人間や動物に対して位置付けをしたい。なぜ人は怒るのかと言えば、そもそも備えられているからであり、それ以上でもそれ以下でもないと言うことが結論である。
しかしながら備えられていることを前提に、生物がどのような時に怒りを覚えるのかについて考えていきたい。

精神的・身体的に傷つけられた時が一般的な事例かと思うが、精神的に傷つけられることの一例として言葉の暴力、無視、言動を制限する発言等が挙げられ、身体的に傷つけられることの一例として、殴ったり蹴ったり又は何らかの有形物で危害を加えることが挙げられる。

その他にもまだまだ類例はあるが、一部を列挙するとこのような事例が挙げられるのではないか。人間はこの精神的・身体的苦痛を被ると怒りが湧いてきたり、それと並行して悲しみも湧いてくるのだと思う。動物も一部は当てはまらないが概ね同様ではある。これらについて、人を傷つける怒りはあってはならないし、このような怒りは存在してはならない。

ただ、それらを排した生産的な怒りであるならば、むしろそのほうが望ましい。
では、生産的な怒りとは仕事をする上での怒りについては、複数人が関わっている以上、意見の相違や手段が千差万別であり、それらが纏まらなければ、次第に怒りが湧いてくるのではないだろうか。

人間や動物は皆、感情的生物であり理性だけを有している生物は存在しない。

仮に存在しているとしたらそれは生物ではない。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、いわゆる喜怒哀楽と言う感情表現が出来るからこそ人間であるし、そのようなことが人間であってほしいし動物であってほしい。

「私のほうが正しいから怒る」、もしくは「私のほうが間違いだから怒られる」ことは生産的な怒りでなおかつ過度にならない怒りをお互いぶつけ合うことは特段、問題はないのかと思っている。

その生産的な怒りや過度にならない怒りは、既に怒りではなく意見と言う類型に属しているのかもしれない。

意見や手段は違えど目標は同じであることは不変であるし、単に過程がそれぞれ違うことに結局は怒りが湧いてきたりすることもあるかと思うが、精神的、身体的暴力以外の怒りや、生産的な怒りや過度にならない怒りであっても少なくとも仕事上においては理性を持って同じ目標に向かっていければ、それに越したことはない。

ただ、理性だけを保てないことも、人間でありそれこそが人間である。

冒頭、記述した喜怒哀楽は当然、感情的な喜怒哀楽であるため、怒り等の感情を抱くことは否定しない。喜怒哀楽という感情を仮にも抑制することは人間が元々備わっている特典から逸脱してしまう恐れがある。

ここで言う抑制とは、際限なく抑制してはいけないというものではないことを強く言っておきたい。

精神的暴力、身体的暴力以外において怒ること自体は当たり前の言動であるが、怒りは自分の予期していない事象が起こった時にその感情が湧いてくるのだろう。怒りは感情的な言動で、怒ることは当然の表現である。ただ、前述した通り人を傷つける怒りは言語道断である。

怒りについて、そもそも生物が喜怒哀楽を有していると言う観点から、怒ること自体については否定はしないし、生まれながらに備わっている人間の特典ではある以上、今回のテーマである怒りに付随した「私は正しい」は正しいものであると言えると思う。

 

青山純二(あおやま じゅんじ)
本社・新規エリア開発部門 シニアディレクター

 

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