家に歴史あり① / 浅野史郎

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これまでの人生の中で私が住んだ家について書いてみたい。家には思い出がたくさん詰まっている。

私が生まれたのは、岩手県大船渡市。昭和23年(1948年)2月8日のことである。生まれた時の家はまったく記憶にない。生まれて3ヶ月で宮城県登米郡北方村に移った。父がふるさとの診療所の医師として働くことになったからである。その時の住まいは、診療所と一体となった2階建て。豪壮な邸宅だったような気がする。一家5人が庭で仲良く団欒している写真が残っている。その庭がかなり広かったという記憶があるのだが、大人になってから見たら小さな庭だったことに驚いた。運動会をしていた小学校の校庭が、「こんなに狭かったのか」と驚くのと同じである。

家の近くには建物などない。ご近所さんはいなかった。同年代の友だちなどいないので、もっぱら二人の姉に遊んでもらっていた。家の前は坂になっていた。友だちのいない私は三輪車で坂を登ったり下りたりして遊んでいた。父は医者だったからだろう、我々きょうだいは、父のことを「せんせい」と呼んでいた。

上の姉は北方小学校4年生、下の姉は2年生まで通ったところで、一家は仙台に居を移した。母が「こんな田舎じゃ子どもたちの教育のことが心配だ。仙台に戻りたい」と父に転居と転職を望んだらしい。「仙台に戻りたい」というのは、母の出身地が仙台だから。母にとって、仙台に戻るというのは悲願だったらしい。

移り住んだ家の住所は、仙台市八幡町205番地。狭い路地の奥にある。狭いのは路地だけでなく、家も狭い。一家5人が住むには、とんでもなく狭かった。2年後ぐらいに子供部屋を増築し、そのまた2年後に二階を増築するまではとてもとても狭苦しかった。それでも、「♬狭いながらも楽しい我が家♬」(榎本健一の「私の青空」)ということで、狭いからこそ一家団欒でいい家庭ではあった。

小学校の3年生、4年生の頃は、毎月クラスで誕生会というのがあった。誕生会で私が作並びに演出の寸劇をやるのが恒例になっていた。劇の練習は級友の家でやる。その時に行く級友の家が広くて立派なことに衝撃を受けた。そして我が家での練習の番になって、級友を狭い家に入れるのが恥ずかしかった。こんな家に住んでいるのは貧乏人だからだと、落ち込んだ。その一方で、大きな家に住むことにあこがれるようになった。

そんなこともあったが、仙台での生活は快適だった。なにしろ人口千人そこそこの北方村から人口38万人の大都会にやってきたのである。人がたくさん住んでいる。近くには魚屋さん、八百屋さん、豆腐屋さん、お菓子屋さん、それに一銭店屋なんという、子どもがわくわくする夢のようなお店がすぐ近くにある。

家から30秒のところには市電が走っていた。「八幡町二丁目」の停留所は目の前。その市電に乗って繁華街(東一番丁)に行けば、デパート、映画館、レストランが一杯ある。こういうのに、いちいち驚かないで慣れていくのが都会っ子というのだろうなと、東京での生活をまだ知らないシロー少年は満足していた。

この家から仙台市立木町通小学校に通った。子どもの足では30分かかった。八幡小学校までは15分の距離なのだが、母の母校である小学校に越境入学していた。1年生の時は、6年生と4年生の姉とその30分の道を一緒に歩いて通った。たった1年のことなのだが、今でも強く印象に残っている。

仙台第二中学校、仙台二高には家から自転車で通っていた。通学時間はいずれも10分ほど。地元の仙台放送は、仙台二高3年生(私のこと)をカメラで追って、ドキュメンタリー風の番組に仕立てあげた。家族で夕食をいただいているところも撮られた。出来上がったものを見たら、我が家が広いところのように映っていた。カメラワークのマジックだろうか。

狭くても、古くても、汚くても、仙台のこの家は好きだった。この家を思うとここで過ごした間に会った人、失敗したこと、うまくいったこと、いろいろなことが浮かんで来る。家に歴史あり、その歴史を大切にしたい。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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