悔恨ーまたは私が重度訪問介護、医療的ケアを実践する会社に参加するわけ Part 2 / 古本 聡

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それから女性の話は、脈絡も時系列も判然としないまま、10分余り続いたのですが、その内容は、記憶を辿って記すと、大体次のようなものでした。

「この施設に入って私が5年、彼が6年になります。それぞれ入所している病棟が違いますが、昼間は共同のリクリエーション室で二人とも過ごしています。もともとK市にある都立〇✕養護学校(今の特別支援学校)で同じクラスでした。

私が小学3年の時、彼が中1の時に転入したんですが、それまでは二人とも普通校に通っていました。私が中1になった時に彼が同じクラスに入ってきて、それから高等部を卒業するまでずっと一緒でした。

養護学校を卒業した後、私は学校のすぐ裏にあった身体障害者職業訓練校に行ったんですが、1年後、就職口が決まらなかったのと、その頃、両親が離婚して戻る場所がなくなってしまったのでここに入所しました。彼のほうは、養護学校を終える頃にはもう歩けなくなっていて、家では面倒を見切れないということになって、卒業後すぐにここに入りました。

ここの生活には慣れました。でも、もう嫌なんです、本当に嫌なんです。高等部の時から、いつか二人で暮らせるといいねって言ってたんですけど、ここじゃ先が見えてこないんです、希望がどんどん無くなっていっちゃうんです!

いろいろと特別な条件が揃わないと、普通の生活は難しいっていうのは、ここの先生たちに毎日言われているし、同室の子たちにも、彼の身体の状態じゃ無理だとか、同棲や結婚なんて障害者が考えても無駄なんだとか、色々言われるから分かってはいるんですよ。でも、やっぱり、普通の人みたいに普通の暮らしがしたいんです。

5、6年前と違って今ならそれができると思うんです。介助してくれる人が何人かいてくれれば、あと、往診してくれるお医者さんとか看護婦さんがいれば、彼だって大丈夫なんです。それに私たち、彼も病人じゃないです。

検温や診察なんて毎日しなくたっていい筈ですし、彼の障害がもっとひどくなっていっても、そういう人たちが家に来てくれるか、病院のすぐ近くに住めば大丈夫だと思うんです。

だって、もっと(障害の)重い人たちでも、アパートで暮らしてるって聞いてます。介助の人が来てくれてるって。私たち二人とも、養護学校に行く前は、普通の生活をしてたんですから、初めてじゃないんです。

私なんか、両親が分かれるまでは家の事を手伝ったりしてました。できるんです。だから大丈夫なんです。二人で暮らすの大丈夫だと思うんです・・・・・」

女性が一気にここまで話し終えるころ、その目からは涙が一筋流れ出て、日に当たってキラッと一瞬光るのが見て取れました。

「わ、分かりました。今、今回の希望者の方たちとお話をしてから、その後でまたあなた方お二人のお話を聞かせてもらえますか。1時間くらい後でもここにいますか?今日、お話をお伺いして、それを支部の人に伝えますから。それから色々、暮らし方なんかを決めていくことになると思いますよ」、

と私は我に返って言いました。

そう伝えると、お二人は少し安堵したような表情を浮かべて、「じゃぁ、また後で来ます」という言葉を残して施設建物内に入っていきました。

ちょうどそのお二人と入れ違いくらいに、あの日にもともと会うことになっていた男性たちが出てきました。不随意運動と発語障害がややきつめだったものの、ゆっくり、揺らぎながらでも歩ける、30歳くらいの方たちでした。

その方たちから、何処に住みたいのか、生活の中でどんな介助が必要なのかなど、一通りの聞き取りをした後で、あのカップルについて尋ねてみました。

すると、返ってきた答えはこうでした。

「ああ、あの恋人同士のR君とYちゃんのことね。あの人たちは、在所生(入所者)の会合にはめったに出てこないけど、ここを二人で出るんだとかよく言ってるんですよ。

でもね、Yちゃんは大丈夫だとしても、たぶんR君のほうは、ここを出るのは難しいと思うんだよね。だって、あの子、障害が大分進行しちゃってるから。声も出てなかったでしょう、彼。看護婦さんたちも、もうすぐ寝たきりになって、酸素入れることになるんじゃないかって話してましたよ。肺炎、起こし易いし重病人だ、てね。医者も親も絶対ウンって言わないと思うなぁ・・・」

「確かにFさんの声、聞こえてこなかった・・・」、

と私もついつぶやいてしまいました。

用が終わって男性たちが部屋に戻って行った後、私は30~40分くらい、あのカップルがまた出てくるのを待ったのですが、お二人はついに現れませんでした。

帰り道、私は車を運転しながら、その日に聞いた話を反芻していたのですが、私の頭の中では、あのYさんという女性の口から出た「希望が無くなっていく」、「同棲、結婚なんて障害者は考えても無駄」、「普通の人の普通の暮らし」、「初めてじゃないから大丈夫!」というフレーズと、男性たちが言った「重病人」という言葉がグルグルと回っていました。

ひどく重苦しい、暗い気持ちになって、「あのカップルの二人での生活、何とか実現させてあげたい。たとえその暮らしを続けられるのが1,2年間ほどだとしても。」と、そんなことばかり考えていました。が、具体的な良い方法を思いつくことはありませんでした。そんなケースを任されたことがなかったのです。

帰宅してから私は障害者団体支部の知り合いに電話をかけ、カップルのこと、そして自立生活希望の男性たちから聞き取ったことをすべて報告し、相談してみました。しかしながら、「カップルの件は、残念だけど難しいだろう。でも、本人たちの意思が強ければ、また連絡してくるのではないか。それをまつしかないだろう。」との結論でした。

Fさん・Yさんカップルにお会いするのは、あの日が最初で最後になってしまいました。そして、彼らからの連絡もとうとう来ることはありませんでした。どうしてなのか、何があったのか、私には分からず仕舞いです。

それ以降、私は2年ほど障害者自立生活推進運動に携わりましたが、自身の大学院進学やら、その後ずっと去年まで続けることになる通訳・翻訳会社の運営に没頭せざるを得なくなり、また日本国内の同運動の主体、形態が変化していったことも相まって、徐々にと言おうか自然と障害者関連運動から遠のいていきました。

しかし、運動からは遠のいていったものの、あのカップルのことを忘れることはありませんでした。彼らの力になれなかったこと、いや自分にその力がなかったことへの不甲斐なさ、あのYさんの、人を圧倒する信念とパートナーへの深い愛情に満ちた言葉、我慢しきれずに流した一粒の涙、そしてFさんの命が無残と言えるほど近い限りがあるものだったという事実。これら全てが合わさって私の心の中に大きな、大きな悔恨の念を築き上げました。

私が、Fさんのように障害が進行した状態の人でも、Yさんの言っていた「(病人としてではない、普通の人の普通の暮らし」、それに近い暮らしが可能だということを私が知ったのは、今から12~13年前のことです。

それは、都心の繁華街で、ストレッチャー型の車いすに乗って、喉から直接の酸素吸入を受けながらヘルパーさんたちと散策を楽しんでいる人を見かけたのがきっかけでした。

その時、思わず「あっ、これだ!」と大きな声で叫んでしまうほど嬉しい大きな驚きを覚えたのでした。そして、その後すぐ位に私は初めて「重度訪問介護」と「医療的ケア」というサービスについて知ったのです。

今、私は実に幸運にも、まっとうな志を持った仲間たちと出会い、「重度訪問介護」と「医療的ケア」を実践する会社 ━ 株式会社 土屋に参加させてもらえました。

そして私は確信しています。できる限り多くの、Fさん・Yさんカップルのような人たちが発している「どんなに小さな声」も聞き漏らさず、応えて行けるだろうと。

それは、あの遠い日に出会った、あのカップルの期待に応え、彼らの心を癒すためでもあり、自分自身の中にある「悔恨の念」を超えるためでもあるのです。

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ。

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。

旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。

大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

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