家に歴史あり② / 浅野史郎

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家に歴史あり② / 浅野史郎

仙台第二高校を卒業した昭和41年(1966年)、私はあこがれの東京に出てきた。日本の首都であり、何でもある街、何でもありの街トーキョー。東京大学もあるので、進学のためやってきた。

東京で初めて住んだのは、五城寮という学生寮だった。

五城寮は、東京の大学に通う宮城県出身の男子大学生のために仙台育英会が設立した学生寮で、品川区東大井の仙台藩の品川下屋敷跡に建っていた。

建物は木造二階建て、そこに1年生から4年生まで30人ほどが住んでいた。大学はさまざま、中央大学、早稲田、慶応、上智、日大といったところ。

私の代には東京大学が4人いた。全員が仙台弁を話す。これでは標準語が身につかないと悩んだものである(嘘です)。

部屋は六畳間。そこに二人で住む。私の相棒は早稲田大学理工学部の佐川邦彦君。夜は狭い部屋に布団を二つ敷いて寝る。

二人とも歌謡曲大好き人間で、西郷輝彦のファン。寝ながら「君だけを」、「十七歳のこの胸に」を歌った夜もあった。

食事は賄いのおばさん二人で用意する。食事がついて、寮費が安い。これが学生寮のいい点である。

学生寮での集団生活、いい点と悪い点がある。

いいところは、楽しいこと。近くの公園で野球大会、近くの東京薬科大学女子寮と合ハイ(合同ハイキング)などの楽しい行事がある。

悪い点は、共同生活ならではの規則、規制があり、月に一回舎監からの訓示を拝聴しなければならないこと。

舎監は、宮城県出身の加瀬谷陸男元陸軍大佐。厳しいというか口うるさい人で、寮生のほとんどが寮の運営体制に不満を持っていた。私は(単独で)そういった不満を書いたビラを食堂の壁に貼り付けたりしていた。

集団生活の悪い点は、先輩寮生が私達新入寮生を誘って、近くの居酒屋の飲みにいく時に受けるアルハラ(アルコール・ハラスメント)。

コップに一杯の日本酒を注がれ、「さあ飲め、すぐ飲め」と一気飲みを強要される。一杯飲み干すと、さらにもう一杯「さあ飲め、また飲め」となる。

げーげー吐く奴(私のこと)には、「ひと吐きごとに強くなるんだぞ」と先輩の力強い言葉。のちのち酒に強くなったのだから、これはいい点になるのかもしれない。

部屋の相棒佐川君とは気が合って、いい関係ではあった。それでも六畳の部屋に二人でいると、ついつい相手の無神経なところが気になってしまう。

それが口に出せないので、不満がたまってしまう。耐え切れなくなって、寮を出ることにした。入寮1年を待たずに、引っ越しの日を迎えた。突然の別れに、佐川君は相当気を悪くしていた。私も気まずい思いで五城寮を後にすることになった。

移り住んだのは、川崎市上小田中◯◯番地のアパートの1階。これには理由がある。アパートの家賃ゼロという物件をみつけた。娘の家庭教師をしてくれたら、家賃ゼロにする。

大家としては、家賃収入の税金逃れになる。家賃ゼロに惹かれて住んではみたが、建物は可もなく不可もなしだが、立地がよくない。

最寄りの南武線武蔵新城駅の周りが寂しい。そこからアパートまでの道がとても寂しい。そこで一人暮らしをしていると、寂しさで気が滅入る。

大家さんのおばさんが変な人だった。どんなふうに変だったのかは書かない。それもこれもあって、新しい住まいを探すことにした。

やはり東京都内がいい、ということで山手線の目黒駅から徒歩10分、大鳥神社に近い下宿屋に決めた。川崎のアパートには半年ほど住んだ。

目黒の下宿屋は当時でも珍しい夕食付き。夕食は、家主でもある未亡人っぽい上品な女性が、部屋まで持ってきてくれる。心のこもった美味しい夕食である。

ただ、8時前に帰宅しないと夕食はいただけない。そして門限は9時(10時だったかも)。遊び盛りの私には、ちときつかった。

目黒には1年もいなかったが、人生においてただ一度の下宿暮らし。いつも和服姿のおばさまのことが、今でも目に浮かぶ。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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