家に歴史あり⑤ / 浅野史郎

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1978年(昭和53年)4月、在米日本大使館勤めのため、ワシントンDCにやってきた。最初の住処は、ワシントンに隣接するメリーランド州ベセスダにあるアパートである。

アパートといっても、日本でいうマンションの高級版で住み心地は極めて良い。大使館までは車で20分。

8月に早産で娘を出産した妻は、娘を実家に預けて9月になってやっと私に合流、ベセスダで新婚生活が再開した。

しばらくここにいて、すぐに新居探しを開始した。住むところは、ヴァージニア州マクリーンとは決めていた。大使館の同僚が多く住んでいるところで、自然環境、治安、便利さで申し分ない住宅地である。

妻と二人でいろいろ見て回り、小さめの住宅に決めた。大使館の参事官や公使の住まいに比べれば「小さめの住宅」ではあるが、日本から出張でやってくる人たちを招待すると、「すごい豪邸ですね」と言われるほどの大きさである。

そこに未熟児で生まれた娘が、妻の母とベビーシッターに連れられてやってきた。ワシントンの私のところに、まず妻ついで長女万里子が合流して、やっと家族らしくなった。やがて娘は、保育園に通うようになり、至るところにある公園で遊び、郊外での生活を両親ともども満喫していた。

大使館での仕事であるが、厚生省関係でアメリカとの外交問題になるような案件はなかったので、仕事は忙しくなかった。日本からやってくる国会議員などのご案内をしたり、観光業のようなこともやっていた。

ワシントンでの勤務は3年。仕事も住まいもゆったり過ぎて、日本に帰ったらギャップに苦しむのではないかと心配しつつ帰国の途に就いた。

1981年(昭和56年)4月、帰国して就いたポストは、厚生省年金局年金課課長補佐。2年後に企画課課長補佐になるが、ここには4年間在籍した。年金制度大改正を目前にして、多忙ながらも充実した日々であった。

帰国して最初の住まいは、新宿区大久保3丁目の公務員宿舎である。初めての公務員宿舎住まい。広くはないが、そこそこ快適なところである。ここで次女聡子が生まれた。
宿舎の近くに広場があり、5歳になった万里子が遊び回るにはいいところだった。父(私のこと)は年金局の仕事が忙しくて帰宅が遅い。

子どもと遊んでやれなかったのが一番の心残りだった。

1985年(昭和60年)4月、年金局での勤務が4年になる頃、北海道庁への出向を命じられた。ポストは民生部福祉課長。

住まいは、札幌市中央区宮の森1条3丁目の公宅。集合住宅ではない一軒家である。地下鉄西28丁目駅まで徒歩2分という交通至便なところ。

この家では、初めてとなることがたくさんあった。部屋の真ん中に大きな石油ストーブが鎮座している。外には、軽油を保留するタンクがある。

10月頃には福祉課の男性職員5、6人が家にやってきて、窓という窓をビニールで覆う作業をしてくれた。これをやらないと寒い冬は越せないという。

ここまでやり、ストーブがんがん焚いても部屋は寒さを防げず、娘二人とも風邪から肺炎になり、入院してしまった。朝の雪搔きは大変だったが楽しくもあった。

今、ここでしかできないことだと自分に言い聞かせながら、朝飯前に40分の雪搔きを楽しんだ。

札幌では、住まいも、仕事も順調。放課後にはすすきのの夜を楽しみ、休日には下手くそなスキーを満喫した。

極寒の夜の帰り道、雪が靴の下できゅっきゆっとなる音がなつかしい。札幌には2年住んで、1987年(昭和62年)4月、5キロ増やした身体とともに東京に帰ってきた。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」

 

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