「石が回って止まった」/ 牧之瀬 雄亮

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街を歩くと色々な子供がいます。足の速い子供がいます。藤井聡太みたいな顔なのに将棋は差せずただ穏やかな子もいます。おむつがすぐ外れる子。私のように寝小便で布団を腐らせる子。

私の家は、週に一度買い出しに行って大方の食料を買ってきます。

新コロ騒ぎで買い溜めがどうのと報道が出ている頃は、いつもそうなのに周囲の目が変わったことを肌で感じていました。今時分は特にそうは感じませんが、それはほんの半年も経たない頃のことだったのにな、と近所の犬に言ってみますが、「ワン」との返答。泰然自若。国破れて山河在りと。

それで先程その買い物から帰り、えっちら家の中に買ったものをいざ運びいれようとします。

我が家の玄関は大きく開くと開いたまま止まるような洒落た機能はなく、持つ手を離せば勢い良く「ガチャーン!」と閉まります。自動式です。

故に開けっぱなしにしたい場合、開いたドアと、やや傾斜したポーチ(玄関のドアの外にあるコンクリ敷のところ)の間に、その辺にある石を挟み込んでドアを止めておく必要があります。

私もなんだかんだで大人ですから、ドアストッパー(ただの石)でドアを開けっぱなしにしてから、荷物を手に取る。という「段取り」が一連の行動を焦らないで遂行できる「コツ」と知っており、それを実行するという計画性を習得しています。

さて、石を手に取ります。

宅急便の受け取りなど、ドアを止めておかねばならない場面は結構あり、大体候補は二つの石のどちらかです。

レギュラーの石は、恐らく私がこの家に来る前から我が家にあり、ドアストッパーとしての役目を果たしてきている。

一般的なドアストッパーと同じ楔形の上部と、船底様の形状が合わさった形、と言えば伝わるでしょうか。とにかくそういう形です。

他にも二三“ドアを止められる石”も近くに転がっているのですが、この「レギュラーの石」と比べると、重かったり、反対に軽かったり、余計に大きかったり、角があって持つと痛かったりするので大体の場合において「レギュラーの石」がその責務を果たす運びになります。

かくして私もこのとき「レギュラーの石」をいざ手に取り、大きく開いたドアの底辺、大体中央あたりに噛ませようと置きました。

この時点で置き方までうまく行っていれば、ドアから手を離してもドアが動きません。

しかし手にはドアは閉まり始める動きが感じられます。せっかちな私の足は既に車にある荷物を家の中に入れるという次の動作にかかり始めており、ドアから離れようとしていました。

ドアが閉まり出していたのを感じ「あ、ドアが大きな音立てて閉まってしまうぞ」と想像しながら、石の方に目をやると、石が動いています。

石は“ズリ”と音を立てて、動いており、「また置き直しだな」と車に戻る足に「玄関へ行け」と指示を出しかけたそのとき、石は「ズリ」と音を立てながらも大きくその位置は変えずその場で回転し、私が意図を込めずにいた設置角度を修正し、適切な位置で止まりました。

果たして、ドアは閉まらず開いたまま止まりました。

ドアの閉じる力と、ポーチのコンクリの頑とした停止との間で、自らを回転させるうちに、二つの力を均衡させることに成功し、釣り合った形で留まりました。「止まった」と思うのは早合点でしょう。

この機を望んでいた私は粛々と、スーパーで購入した肉野菜カレー粉及び有料レジ袋等を運び入れました。

「ゴリ」と音がしたのは私がドアを閉めるために石を先の均衡状態から外したときで、そのあと彼が重力とポーチの間に均衡を探るべく、少し揺れたようでした。

私の記憶では、祖母の家で寝ても、私の夜尿は無かったか、一度も咎められなかったように思います。膀胱の回転がおさまっていたのだと思います。

さて、石の話、冗長に感じられたかもしれません。私の寝小便に集約できる話でもありません。

私は

「人間=地球の芸術」

と思う節があります。褒めているのではなく、貶しているのでもありません。

人間は地球上の他の生き物、非生命体(と目される)存在と比べても、その不自然さや環境へ介入する在り様も、各々の観点で残酷さを隠すか捨てたがる傾向も、どうも変わっているなあと感じます。なんだかよくわからないけど面白いところがある余剰さ。

福祉に関した話に転用しますと、「ボディメカニクス」というのを初任者研修だとか、各種講座等で習い、教えます。

私はボディメカニクスについて

「支援者非支援者の境界を溶解させる概念かつ人体操作法である」と考えています。

煮詰めて早口で言えば、彼がなければ我はなく、我がなければ彼がなく、物理的接触を起点に時間軸の前後を問わず、無意識を含んだ精神的作用が生じ、2人間の身体意識の相互干渉、相互作用が何かを為す。ということです。

難しい移乗や体位変換のことだけを指しません。一見こともなげに行われる「ストローでお茶を飲んでもらう」ということでもそうです。

早口の部分はそのまま武道に接続できるし、ある種の禅にも通じます。大袈裟に言っているのではないのです。

生殺与奪の権を持つものに、欠かせないのは高い、研がれた道徳心です。

一方的な、地位や数値的ステータス、能力、筋力による位置エネルギーを利用した関わり方は双方にとって消耗を生みます。概念の共有を強要するからでしょう。

しかし、昨今殊更に「自分」「個人」「私」ということが喧伝されますが、その多くが表層的なものです。

今の気分を捨てようとして、捨てきれない部分を憎み、捨てきれない部分をないと思い込もうとして鬱屈を溜める姿を多くみます。

今の気分も捨てきれない部分も、捨てられない部分をないと思い込みたい行為自体も自分である。それは私の「唄」であるというある種の「見捨て」。「見切り」と言ってもいいかもしれません。自己洞察ということもできるでしょう。

なんて、石を見ながら思った。というご報告でした。

 

◆プロフィール
牧之瀬雄亮(まきのせゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

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