「他者」という存在を私に教えた猫/牧之瀬 雄亮

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動物の一生を見ていると、人が言う「幸せ」とは何を指すのか分からなくなってきます。

現代、猫を飼うにあたって、

「室内飼いしましょう」

「ワクチンを打ちましょう」

「虚勢、避妊手術をしましょう」

と、「ましょう」と一見「良いことを、正しいことを勧めていますよ!」という様子で、その選択肢を取らない場合、猫の里親サイト、譲渡会等の規約を見ても、これをやや飼い主に迫るというのが実情ではないかとお見受けします。

一般的な概念としての猫ではなく、冠詞のつく猫、いわば「ザ・猫」となった猫は、個別個体の生のみあれば良いと言っている風に聞こえるのは、私だけなのでしょうか。

Twitterなどで、猫に限らず飼っているペットの動画や写真を上げている様子を目にしますが、その中で私が正視できないのは、猫が去勢手術から帰り、自分の睾丸がなくなったことに驚きがっかりする動画です。さらに、それに割と気楽な「かわいい」といったコメントが寄せられていることも、私をシュンとさせます。

雄と男という同胞意識の現れなのでしょう。「お前辛いだろうな」と肩を抱き、一本のチャオチュールを分け合って「社会が悪いんだ!政治もダメだ!」とか言いながら夜を明かし、ついでに一人と一匹で旅にでも出たくなります。

私の生家では猫に対して、

「虚勢などという金のかかることはしない」

「ネズミ食ってる奴が病気するわけない」

「猫は室内5:屋外5ぐらいで好きなとこにいる」

「人間のためもあるが、猫の為に蚤を取ってやる」

という感じで「飼っていた」というより「人生と猫生」がたまたま重なっているといった感じでの付き合いでした。

無論今の世の中でも地方の隣近所気にしないようなところで暮らしている猫達は、私の生家のような飼われ方をしている猫も一部居るだろうとは思いますが、特に都市部街中と言いますと、現代的な飼われ方がもう99%だと思います。

一部地域猫という特殊な立ち居位置を人間に与えられる猫もおりますが、概ね私の生家でしたような飼い方は、「虐待」に近くなっている。というような状況だと思います。

さて、本来的に猫は、どっちが幸せなのでしょうか。

人間は、というより、「ある個人は、」といった方が正確でしょうが、見たもの、知っていること、つまり自分が知っている概念、すでに得た概念でしか物事を判断できません。

例えば、紫式部に飛行機を見せたら「天狗」とか、「妖怪」と言うでしょう。また、40年前の少年にスマートフォンを見せたら「マイコン」とか「ゲームウォッチ」と言うかも知れない。「iPhone12ですね」とはタイムトラベラーでもない限り決して言わないわけです。

今出した例は時代で普通が違うという例ですが、専門領域・趣味・趣向ということでもこれは変わってくると思います。

鍼灸の人は街を行く人の体の使い方を見れば「こことここに負荷がかかっている、それをこうこうこうやれば力が抜ける」と分かるわけですが、本人は無意識にある痛みについて悩みや悲しみと認識していれば、「〇〇さんのせいだ。あの人さえいなければ、あのことさえなければ」と思っているかも知れません。

或いは、腰の曲がった老婆が「私は腰が曲がるまで、曲がるのも厭わず我が家の畑を頑張って世話した」と誇りに思って歩いているかも知れません。

さて、猫はどうでしょうか。

私は自身を指して、「猫に育てられた」とよく人に話しますし、こちらに掲載する自己紹介欄にもそのように書いてあります。

猫が色々のワクチンを打たねばならなくなったのは、外来種の猫が入ってきたか、外国との往来が盛んになってウイルスが持ち込まれたか何かで、猫白血病や猫エイズなどが交配や伝染によって広がってきた経緯があると思います。

「池の水全部抜く」と言って、カミツキガメやブラックバスなどが槍玉に挙げられていますが、なぜ猫や犬などの愛玩動物と言われる種について何も言われないのでしょうか。

ロシアンブルーにスコティッシュフォールド、アメリカンショートヘアーにエジプシャン、「かわいいと思いませんか?」と尋ねられれば、私は真顔で「もちろんかわいいですよ、で、なぜ和猫では、その辺にいる猫ではいけなかったんですか?」「近所の猫に愛情を注げないとしたら、外来種に愛情を注げると思うことに一貫性はないんじゃないですか?」と聞きたい。

外来種の猫としても、気候も植生も最近の分布も違うところにやってきて、動物もね、人間より賢いところありますから、磁場なんかも違和感があったりするだろうと思います。

「病気って言ったって検疫があるじゃないか」と言われるかも知れませんが、何か病原体を知ってるから検知できるわけで、気づいた時には入っているものです。

私の育ての猫は、子を20匹以上産みました。そのほとんどが、次に交尾をしたがる雄猫に食い殺されています。

幼い頃の私も、昨日名付けた子猫に学校から帰ってみたら会えなかったということは数経験して来ました。

それでも母猫は子を産み続け、運良く育った子から孫が産まれたり、巣立つ雄猫を見送ったりして20年以上生きました。きっとどこかに子孫がいるんだろうなあ。

私の祖母は、よく猫に対し、「ま、畜生だから」と言っていました。コウメ太夫みたいなテンションでではないですよ。淡々と。しかしどこか、あれを慈愛と言うのかな、という声色でした。一番可愛がっていたのも祖母でした。

表面取り繕ったところで最内心(芯・深・真の内心。今作った造語です)において、相手に対しどう思っているのか。

「猫を可愛がってる『私』を可愛がって!」ということはよく起こります。

「エゴイズムがあるだろう!」なんて野暮な指弾をしたいわけではないのです。エゴイズムなんて、あるから生きているし、死ぬのもそうです。

ただ他者のエゴイズムが美しく光るのは、そばにいる者のエゴイズムと比べて、それを含んでやや大きいと感じさせるとき、受け手のコンプレックスを美点と評し憚らないとき、受け手が到達できない高みを見せるときなどでしょうか。

一般化して書いてみても、なんだかよくわかりませんね。私が知らないだけで、エゴイズムによる輝き、まだあると思います。

「黒く光る」ということもあるでしょうね。またそれらに弊害というものも必ずあります。「光と捉えてはもらえない」ということもあります。

現代人を現代人が見て、現代人が昔の人を見て、その逆、また、動物から人間という種を見て、それぞれが違った視線になるのだろうと思います。

どういう“エゴ”が良いか、どういう“エゴ”を自分が持っているか、隠しているか。考えるのはなかなか良い修行ではないでしょうか。

育ての猫の子孫、私の義兄弟や義理の甥姪の輝きを願って、今回はこの辺で。

ではまた。

 

◆プロフィール
牧之瀬雄亮(まきのせゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている

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