アラーキーか、典明か、紀信か。 / 佐々木 優

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私が特別養護老人ホームで働いていた頃、たいてい週の半分はコードネーム(作戦名)【入浴】という名の戦場のさなかにいた。

与えられた2時間程度の隙間で、15名前後の入居者さんを特別なお風呂を使って入浴してもらうという限られた時間との戦いで、真冬でも汗だくだった。

認知症を患うと、普段と違う環境(この場合はお風呂場)に不安があったり、日常生活のいろいろなことが億劫になったりする。

毎回といっていいほど脱衣や洗身に抵抗がある入居者さんがいて「かぁちゃーん!」「バカ!!」といった叫び声がお風呂場に響き渡り、それがフロアにまで聞こえてくる。彼、彼女らは介助する職員の腕に渾身の力で爪を立て、職員は奥歯を噛みしめてそれに耐える。
当時の私の両腕も傷まみれだった。

かの写真家、アラーキーや典明や紀信の才能がわずかにでも私にあれば、きっと気持ちよく脱衣してもらえたのだろうけれど。

「そこまでして入浴させなくていいだろう。」と考える人も少なからずいるとは思うが、ぎりぎりの職員配置を強いられるなか、一人が傍にいてのんびり寄り添って会話を重ね、時間をかけて一人の利用者さんをお風呂場へ誘導する余裕などその戦場にはなかった。

もしそれをしてしまうと、その入居者さんは間違いなく月に一度もお風呂に入れなくなるし、過度な個別ケアは他の入居者さんの放置に繋がる。まさに理想と現実とのギャップで葛藤する日々であった。

【入浴】という日常生活の一部を切り取ってお話をしたが、こうして様々な活動が集団生活という呪縛のなかにあった。他にもコードネーム【夜勤】という戦場がある。ひとりで20人の夜間を介護するという背筋の凍る作戦だ。エピソードは山ほどあるが割愛する。

個別ケア、自己決定を標ぼうする【ユニットケア】という我らが理想郷は、もはや陥落寸前であった。

そして現在、私は障がい福祉サービス(訪問介護)を提供するステージで活動している。
まったく違う訳ではないが、やはり在宅介護は施設介護と対極に位置していると言えるだろう。

【自己選択・自己決定・自己責任】

これは、自立生活プログラムを伝道するCILの代表者から教わったキーワードだ。

重度訪問介護とは、長時間に渡って一人の生活に寄り添う介助をその信条としている。
利用者さんの生々しい生活の場に在って、単純であると同時に複雑でもある。

介護保険(訪問介護)と違い、1時間程度のバタバタ作業に追われた後、逃げるように利用者宅を出ることはない。

我々は適切に親密性を高めながら、一人の利用者さんの領域で必死に立ち振る舞うのだ。

そこでは施設介護の環境にあるようなゴマカシは効かない。適当に逃げることができないのだ。一対一の真剣勝負、お互いが吟味して試しあう世界でまさにがっぷり四つ。

利用者さんが、赤の他人である支援者へ向けて包み隠さず生き様をさらす覚悟がそこにあり、それと同時に支援者の人格(タマシイ)を見透かされる。

支援者のこれまでの人生における価値観がまざまざと提供する支援に現れるため、重度訪問介護という制度は、良いも悪いも支援者を丸裸にしてしまい、そこにこのサービスの難しさがあるのだ。

なのでたとえ施設介護の経験が何年何十年あったとしても、このステージが合わないと離脱していく者がいるのは、丸裸にされた己がその己の不格好に耐え切れなくなるからだと私は感じている。施設で働いている限り、裸にされることはなかった(ゴマカせた)からだ。

かつて、老人ホームの入居者さんをなかば強引に裸にしていた私が、今ではこの重度訪問介護という制度(環境)の下に気が付けば丸裸にされていて、いわば私が介助する彼、彼女のひとり一人がアラーキーであり、典明であり、紀信なのだ。

ならば、できることなら「いいね!いいね!」というかけ声を浴びながら、私は気持ちよく丸裸になりたいと考えている。

 

佐々木優(ささきまさる)
ホームケア土屋 四国

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