赤國幼年記⑧ / 古本聡

ぼくも同じ、カタワやったんや・・・

障害児収容施設での初めての朝、私を取り囲んできた収容児たちが皆、それぞれ違った瞳と頭髪の色をしていたことにも随分と驚愕したが、もう一つ私が、鳥肌が立つほど戦慄を覚えた光景があった。それは、私のベッドから離れていくときの彼らの姿だった。全員、身体のどこかが異様というか奇怪で、それまで私が認識していた“普通の人間”とは違っていたのだ。

背中に大きなコブがあり、腰をほぼ直角に曲げて歩く子、腰から首までギブスが嵌められロボットのような動きの子、片足だけがやけに短く、松葉杖で器用にピョンピョン跳ね歩く子、両腕が付け根からまるで無い子、逆に脚が全く無く、両腕だけでいざっていた子、頭部の中心線が胴体のそれと大きくズレた子、膝が通常とは反対側に曲がった子、常にビクンッ、ビクンッと、まるで周期的に感電しているかのように身体が痙攣し、その度に顔が恐ろしく歪む子、頭頂部から額の眉の辺りまで長く太い手術痕のある子・・・。

ある子は、片手がカギ十字のように曲がったまま上を向き、首も脚も付け根から90度の角度に捻じれて、まるで横に歩いているかのように見えた。また、ある子は、足にギブスが巻かれていたのだが、その上から、数本の針金で繋げられた幾つかの金属製の輪っかがボルト止めされ、ギブスに開けられたボルト穴からは茶褐色に変色した血が滲み出ていた。しかも、私を含めて皆、色落ちでくすんだ紫と灰色の縞模様の、囚人服のような同じパジャマを着せられていたのだ。

ここに述べることは、言わば私の懺悔であり、言い訳でもあるのだが、実を言うと、私は、あれほど大勢の障害者、障害児を、しかもそういう人たちが動いている姿を目の当たりにしたのが、あの時、生まれて初めてだったのだ。いや、正確に言えば、同い年くらいの障害児には、日本でも遭っていた。しかし、それは1人、2人の単位でのこと。

例えば、私が3歳か4歳の時、家族と大阪伊丹空港傍の蛍池というところに住んでいたが、近所の小さな借家に同い年の脳性麻痺で寝たきりの女の子が、お母さんと二人きりで居て、その母娘と交流があったと、母から聞かされていた。また、東京に引っ越した後は、水道橋にあった蕎麦店で週1回、リハビリ教室が開かれていたのだが、そこに集っていたのも私を入れて3人だけ。自力で動けるのは私だけだった。

では、自分自身の姿については、どういう風に認識していたのか、と問われるならば、私はあの時まで、どの幼児期の子供でも同じだと思うが、自分を客観視していなかった、と答えるしかない。あの時が正に「お前も奴らと同じ醜いカタワなのだ!」、と自分の中の誰かにはっきりと言われて、自分もその事実を認めざるを得なくなった瞬間だったのだろう。

だからこそ、あの人たちの容姿から受けた心理的な衝撃があれほどまでに強烈だったのだろう。今、私は、当時を振り返ってそう思っている。

> 赤國幼年記9につづく

 

◆プロフィール
古本聡(こもとさとし)
1957年生まれ。

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。