感情労働とニーバーの祈り / 佐々木 優

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師も走ると言われるこの時期。
偉い人でさえバタバタ慌てるのだから、私なんて足がもつれて転がりまわっている今日この頃。

自分のキャパを鑑みて、何かを省こうと考えた結果、2年前から年賀状を出すのをやめている。

子どもの頃、鉛筆でうすーく書いた宛名の上を、普段は使いもしない筆ペンで緊張しながら手を震わせてなぞる作業。失敗しようものなら親に叱られた嫌な記憶が蘇る。

現代ではパソコンの住所録からササッと作成できるものの、それでさえも億劫に感じるのだから、つくづく自分の無精に磨きがかかっていることを痛感する。

近年ではお節料理でさえネットで販売されていて、お節料理が本来もつ機能性(高い保存性)への認識が薄れ、もっぱらイベントのツールとして扱われるようになった。

それどころか、このコロナ禍にあっては、様々な生活用品の購入手段として、アマゾンやヤフー等のネット注文・ネット決済が活用され、宅配の利用に拍車がかかってきた。

消費者側の立場でいえば、感染症予防の意味もあるとはいえ、今まであった手間が簡略化・省力化・効率化されてきたといえる。

実はこのコラムを書いている少し前に、何件かのZOOM会議を行った。日本中にいる会社の仲間との面談が、移動することもなく目の前にあるパソコンの中で繰り返され、画面に出る上半身だけビジネスモードという【ZOOMあるある】にも慣れてきた。

また、採用面接からはじまり、雇用の様々な手続きでさえもオンラインで完結し、新入社員に実際に会うのが入社後の研修会場であったりすることが当たり前にもなってきた。事務的な手続きについても、簡略化・省力化・効率化されていく圧倒的なスピード感がここにはある。

こうして現代まで、私たちは様々な肉体労働や頭脳労働を変容させてはこれを繰り返してきた。

しかし、私たちの労働にはもうひとつ【感情労働】というものがある。

私が就いている福祉という仕事もこれにあたるが、コロナ禍で過酷な環境下にある医療や接客業、深夜まで職員室に残り、休日には部活動にかり出されている教職もそうだろう。
肉体労働や頭脳労働にも感情労働的な要素は確かにあるが、感情に大きく支配される労働形態の代表的な職業がこれらである。

多くの労働が簡略化・省力化・効率化されていくなかで、感情労働はまるで固い化石のように変化が乏しい。それでいて、もがけばもがくほど身を沈めていく沼のような側面もある。

なぜこうも過酷なのか。

それは、扱う主な対象が【感情】という目に見えないようで見えて、形はないがそこに必ずあるモノだからだ。だからこそ真の機械化や電子化は叶わず、ましてやこちらの都合で消したり無かったことになどできない厄介なモノ。

私が年賀状を書くのをやめたように、会議をするために出かけるのをやめたように、人々が買い物をするためにお店に行くのをやめたように【感情を抱くことをやめる】ことはできないのだ。

私のような感情労働に就く者も、職場から離れればひとりの生活者である。高度経済成長を経た日本で、日々、簡略化・省力化・効率化が図られた、いわゆる暮らしやすい生活様式のなかで、それなりの人生を歩いてきた。
しかし、そこにこそストレスの源があると私は考えている。

それは、日々変わらない、もしくは悪化するやも知れぬこの労働形態とのギャップだ。

そのギャップから生まれるストレスは、日夜一生懸命に働く私や私の仲間を疲弊させていく。私や彼らを疲弊させていくのは仕事の内容そのものではなく、仕事をクリエイト(創造)することにどうしても限界を感じてしまうからだと考えている。

ならば、私が福祉事業を営む会社の管理者として、何ができるのか。

自分の都合でどうしようもできない感情にまみれながらも、日々クライエントに寄り添い続ける仲間にいったい何ができるのかと自問している。

過酷な感情労働で疲弊しようとする仲間のそばにいつもいて、その彼、彼女らの感情を見つめ続けること。声を聴き応え、常に仲間の感情を支え続けること。そして仲間が少しでも働きやすい労働形態に変容させるよう、管理者として職場環境の改善に取り組み続けること。

そんなことを考えながら、ふと【ニーバーの祈り】を思い出した。

 

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

佐々木 優(ささき まさる)
ホームケア土屋 四国

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