小さな自分を抱きしめて ~~ 母と妹そして学校教育 (1) ~~ / 安積遊歩

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母と妹の子育てを考える時、最も影響の大きかったことは「学校」だ。ただ2人の学校に対するアプローチはまったく違ったものであったのだが。彼女らの学校に対する時代と思いの違いが彼女らの子育てにどのように影響し、私の子育てにもどんなふうに関わってきたかを今回は見ていく。

母は今で言えば、小学校卒の学歴しかなかった。12歳で高等尋常小学校を卒業し、福島から東京に働きに出された。今で言う「児童労働」だが、その時代の貧しい家々の子供たちにはそれが当たり前だった。ただ貧しい家々とはいっても、中学校に進学できなかったのは、60人学級中、母ともう1人のたった2人だけだったという。

母は学ぶことが好きだったから、学校の話をするのは嬉しそうで同時にちょっと悔しそうでもあった。ずっと副級長(副学級委員長)を務め、子守が忙しい時には、妹や弟を背負って学校に行った。母は小柄だったから、赤ん坊を背負って学校に行くのはどんなに大変だったろう。

授業の休み時間に背中で泣く子のおしめを変えながら、それでも字を書いたり計算をしたりするのが嬉しく得意だった。その後東京で働く中で、学校での学びが非常に役に立った。だから彼女にとっての学校はとても大切な場所であったのだ。

彼女は学校への切望感を持って私たちを育てた。つまり自分の子供たち3人、どの子にも学校に行ってほしいと激しく願った。

私が学齢期に達すると、地域の学校まで往復3キロの道のりをおんぶして通ってくれた。当時は車椅子を使うことはとてもよくないという医療で、障害を持つ子を生んだ親が悪いという差別が露骨だった。だから彼女は、私が地域の小学校に通わせてもらえるだけありがたいと思っていたに違いない。

小学校5年の時に私は親元を離れて、養護学校つきの「療育園」に手術のために1年間行くことにした。母はその時にも私を手放すのが辛すぎて、泣いて反対してくれた。しかし好奇心満載で1年間手術をしながらも学校は休まなくても良いと医者から勧められた私は、そこに行くことを決断。

ところが入院した当日には、私の好奇心は一瞬にして砕け散った。それまで母親から私の自己決定権と選択権は徹底的に保証されていたのに、集団生活の中では全てに管理が先行し、私たちは従順と服従を強いられた。

職員や障害の軽い子は障害の重い子を見下していたが、私は身体の障害は重い方であっても知的にはそうではないということで、「わがままで生意気な子」と言うレッテルを貼られた。

社会は障害を持たない子に対しては「学校教育」こそ大事と言ってくる。しかし「療育園」の障害を持つ子に対しては、その身体を改変して少しでも障害のない体に近づけとばかりに医療が押し付けられていた。

時代は高度経済成長の真っ只中だった。戦前戦後は天皇制の奴隷となりアジアへの凄まじい侵略をした日本の軍隊、男たちは今度は経済の奴隷となって社会をつくっていった。障害のない子たちには受験戦争をかいくぐって、企業戦士になることを目標とさせ、障害を持つ私たちにはその前線に少しでも立てるよう、身体への介入が異様に試みられた時代だった。

療育園は養護学校と対の施設でありながら、学びよりも医療が徹底的に優先していた。だから私との1年間という約束はすぐに反故にされ、予定になかった手術が繰り返された。見回せば1年間で退院できる子はほとんどいず、長期入園させられている子ばかりだった。

両親は地域の学校に戻りたいという私の願いを全面的に応援してくれた。特に母の応援があって、私は2年半で養護学校を出て地域の学校に戻ろうと頑張った。ところがここで教育からも差別を受けた。小学校では母の介助があればという条件付きではあったが通学が許可されていた。

ところが中学校の校長はそれでもダメだと拒絶してきたのだった。母はパートの仕事に行く前に、毎日のように中学校に通って私の通学を許可してくれるよう頼み続けた。3ヶ月後、その私を拒絶した校長が退職となり、その間母の必死の姿を見続けた教頭等の権限で私はそこに通えることとなった。

ところが憧れた地域の中学校ではあったが、成績のトップから50番までを廊下に張り出すという競争主義の中、体調も悪くなっていった。その上高校は遠いということで高校への進学は諦めざるを得なかった。

私が娘を産んだ時には、地域の学校を希望し学齢期になったら介助の問題から取り掛かるのだと決めていた。地域の学校にまずは通わせるという選択をしたので、入学式の半年前から教育委員会との交渉を始めた。幸いなことにその時私が住んでいた市の教育長や市長は話がわかる人たちだったので、結構すんなりと娘に対する介助者の派遣は認められた。

ところが娘は小学校入学後すぐぐらいから学校が嫌いになっていった。そして一年半後にはついに学校に行かないと宣言。その後はフリースクールに週2回行くくらいで中学までは不登校をした。その娘の選択に大いに影響を与えたのが、今度は私の妹の子供達であり、つまり、妹の子育てであった。その詳述は次回へのお楽しみとする。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ。

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

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