土屋の挑戦 インクルーシブな社会を求めて⑱-2 / 高浜敏之

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18 私の前史 貧しさと共に②

いびつな自我が形成されていった。自覚はまるでなかった。孤独を感じるようになっていった。独りの道を歩いていくようになった。他者との交流を忌避するようになった。

高校に入学してすぐ、集団暴行を受けた。リンチされた。10名くらいの輩に、四方八方から殴る蹴るの暴力を受けた。フラストレーションが絶頂に達した校内において、絶好の見世物だったようだ。私の被害が進行する状況を見物する観客たちから、笑い声がさざめいた。殴る蹴るの暴力も痛かったが、その笑いはもっと痛かった。

「やめろ、これ以上やると死ぬぞ!」。そんな声が聞こえ、サクリファイスは終焉を迎えた。口から血が流れ、しばらく立ち上がれなかった。体が壊れたというより、心が完全にやられた。しばらくして立ち上がり、ふらふらしながら鞄を手に取って、教室を出ようとした。眩暈がした。

「だいじょうぶかい?」誰もいない森閑とした廊下で、声をかけてくれる人がいた。その人の顔を見た。知らない人だったが、悲しげな困惑した表情をしていた。「だいじょうぶ。」といって、本当は大丈夫ではなかったが、うつむきながら一人校舎を後にして、帰り道を歩いた。

喉と心がカラカラに乾いているのを感じた。飲み込んだ唾液で窒息するのではないかと思った。電車の中で、私に声をかけてくれた人の表情と声音が思い出された。泣くことを忘れてしまった自分からは一滴も涙は流れなかったが、忘れがたい記憶にはなった。

暗澹たる日々を送るようになった。他者の目線や声が怖くなった。耳に入る笑い声が、自分を嘲笑しているように妄想されてしまうこともあった。生きること自体への不安や恐れが強まっていった。自分自身がまともに生き続けることなんかできないという思いが強まっていった。

10台後半からアルコールを覚えた。酒を飲むと、ほっとした。束の間の安楽がやってきた。19歳で家を出た。勉強をしてみた。ほっとした。参考書のなかには自分を傷つける存在は見当たらなかった。

文学にも傾倒し始めた。父は若いころ文学青年でもあり、酔っぱらうと、かつてストリートファイターだったころの武勇伝を語った。飽きると私たちを布団の上に呼んで椎名鱗三の「深夜の酒宴」や、アルベール・カミュの「異邦人」を朗読し始めた。幼い頃は全く分からなかったが、大切な意味が隠されているようには思えた。

そんな父の趣味を模倣した。文学テクストの中に、心の内にある不安や焦燥や怒りや悲しみを名づける言葉を発見した。酒を飲みながら貪るように小説やエッセイを読んだ。安全地帯を発見した。

芥川龍之介、太宰治、坂口安吾、三島由紀夫、遠藤周作、中上健二、ドストエフスキー、ニーチェ、ジイド、ヘミングウェイ、などなど近現代文学にはまっていった。

モダンジャズやクラシックやヒップホップやハウスやソウル・ファンクなどの音楽にもはまっていった。六本木や池袋の知る人ぞ知るクラブを渡り歩いた。

酒と文学と音楽を通して、心の歯ぎしりから束の間だが解き放たれた。

クラブではミュージシャンやストリートファイターやバングラのエリートやジャマイカの遊び人など、様々なエッジを生きる仲間たちと出会った。普通に生きることのできない、普通に生きたくもない人たちばかりだった。

暗闇の中での交流のなかで、交わされる会話は表面的だったが、友情や親近感を感じた。友人も、束の間の恋人も、できた。やっと自分の居場所を見つけた、そう思えた。

バイトをしながらも、毎晩のようにクラブを渡り歩いた。酒や音楽に酔い、酔生夢死に憧れた。モラルハザードも深まった。当時はなんとも思わなかった。社会的逸脱があって他者に迷惑をかけることも重なったが、罪悪感はほとんどなかった。未来への希望が失われ、刹那主義に陥っていた。モラルハザードの正当化に、文学を悪用した。

朝、自宅につく。布団に潜り込む。楽しかったはずだが、なぜか空しかった。何かが違うと思った。享楽のあと、心の渇きを感じた。小説を読みながら寝入った。

早朝のストリートにおかれたごみを、カラスが食い散らかしていた。アスファルトを照らす朝の光が鋭い刃のように私の心に刺さった。優しい言葉に触れたかった。チェーホフやヘッセなんかを読みながら、バッハの無伴奏チェロやフォーレのレクイエムを聞きながら、眠りに入った。

求めているものと本当に欲しているものに、微かなズレを感じた。

自分自身で進んで入っていった暗闇と泥沼から脱出したくなった。受験勉強をして大学への進学にチャレンジした。のちに事業に成功した父も惜しみなく経済的に協力してくれた。貧しさのなかで学業を継続することができなかった彼にとって、息子が大学生になるということは、半ばかたき討ちのような側面があったかもしれない。

運よく上智大学に入ることができた。法学部だった。両親も大いに喜んでくれた。本当は文学を学びたかったが、大学で学ぶまでもないかなとも思った。大学合格とともにかねてより憧れていたプロボクサーへの道にも本気でチャレンジしようと思った。

経済的自立への想いも強かったので、ほぼフルタイムでバイトをした。学費だけ親にサポートしてもらった。大学と職場とボクシングジムを往還する日々が始まった。どの場所もとても安全な感じがして、とても気に入った。自分が求めているものが、安全であること、だということに徐々に気づき始めた。

ボクシングジムが安全とは逆説的かもしれないが、本当にそう思えた。ルールに守られたリングは、実に安全な場所に映った。トレーナーに見守られながらのヘッドギアとグローブをしたスパーリングは、安全だった。

かつて有名な世界チャンピオンを複数育てた名伯楽ともいえる方の指南を受けることができた。一定の期待を肌で感じることができ、傷ついた自我が修復されるのを感じた。ハードなジムワークを終えたあとにストリートで感じる風が大好きだった。いびつな自我が溶解するのを感じた。目を閉じて、風に吹かれた。

小さなころから植え付けられた素朴な「らしさ」への信仰が、馬鹿げているということに徐々に気づき始めた。自分自身が囚われていた価値観や常識を、その外側からクリティカルに見ることができるようになった。新しい書物や友人やアートや新しい環境との出会いが大きかった。「らしさ」から解放され、自由への道を発見していった。

学ぶことは自由になるためにあると心から思うようになった。貪るように本を読み、そこで得た新しい言葉で自分自身の思考や感情を名づけるようになっていった。

本気で勉強したくなった。もっと自由になりたかった。同じ方向を見て、本気で語り合える仲間が欲しかった。解放されたかった。当時の私は、法律の学びには、魅惑を感じなかった。学びそして自由になる魅惑を感じさせてもらえる場所にたどり着きたかった。

上智大学法学部を2年で中退して、哲学や文学を学ぶために再度受験勉強をした。クラブなど夜の街に出陣することももはやなくなった。ボクサーとして自分の強さを立証する道も諦めた。プロになる直前で離脱した。残念だったが、新しい自由を選んだ。男らしさの病と強くあるべきという強迫観念が少しずつ緩んでいった。

安全な環境で自分を深める時間が欲しかった。享楽の眩暈の中に死ぬのではなく、平和な環境の中で目覚めながら生きていきたいと思った。人生に対する希望が蘇ってきた。

ウィスキーを片手に猛烈に勉強して、23歳で慶応義塾大学文学部に入学することができた。経済自立へのこだわりを捨てて、事業に成功した父の経済的サポートを受けることにした。喜んで引き受けてくれた。久方ぶりに帰った家には、お風呂がついていた。

戦中戦後の最も貧しい時代に孤児として生き、想像を絶する労苦を背負いながら生きた父にとって、社会的にある程度成功してその成果を子供たちに還元できることには、深い喜びを感じてもらえたようだ。

私個人としても、私のファミリーも、経済的貧困から回復すると共に、心の豊かさやゆとりも取り戻し始めた。これで貧しさから逃れられる、そう思った。希望にあふれた。

 

◆プロフィール
高浜 敏之(たかはま としゆき)
株式会社土屋 代表取締役 兼CEO最高経営責任者

慶応義塾大学文学部哲学科卒 美学美術史学専攻。

大学卒業後、介護福祉社会運動の世界へ。自立障害者の介助者、障害者運動、ホームレス支援活動を経て、介護系ベンチャー企業の立ち上げに参加。デイサービスの管理者、事業統括、新規事業の企画立案、エリア開発などを経験。

2020年8月に株式会社土屋を起業。代表取締役CEOに就任。趣味はボクシング、文学、アート、海辺を散策。

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