赤國幼年記⑭ / 古本聡

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アジアの血

これまで書いてきた事柄と若干時系列が入れ替わるが、私は8歳の春、足の手術を受けた。股間が筋緊張で広げにくくなっていたのを動作しやすいようにする手術だ。具体的には、左右の鼠径部を切開し、そこにある、常に力が入りっぱなしで分厚く、太くなってしまった半腱様筋という筋肉を削って細くする、というものらしい。

私の前に同じ手術が何人かの入所児に実験的に施されていたので、手術を受けること自体にはさほど恐怖を感じていなかった。しかしながら、当時の私が最も不安だったのは麻酔、特に全身麻酔をかけられることだった。

麻酔薬の成分に問題があったのかもしれないが、何らかの手術を受けて居室に返ってきた子たちは、麻酔から覚め始めるころ、必ずと言っていいほど、大声で譫言を喚き散らしながらベッドの上で身体を捩じらせ、もがき苦しむのだった。白目をむき、歯を剥き出して顔を酷く歪ませたその形相は、あたかも悪魔が憑依したかのようだった。直視してはいられない光景だった。

「ああいう姿には絶対になりたくない、人に見られたくない」と、本心では不安に押し潰されそうだった。一方で、その心細さを誰かに打ち明けるのも何か違うという気持ちもあったし、また泣くなんてとんでもない、と思っていた。死んでいった子たちに比べれば、自分が感じている恐怖なんて・・・。さらに、怯えたり泣いたりするのは、男らしくない・・・。まだ8歳にしても、そういう想いがすでに強かった。

手術の日。鎮静剤で朦朧とはしていたものの、私は、周囲の声は聞こえていたし目も閉じてはいなかった。手術台に移された時、男性の執刀医の野太い声が部屋に響いた。

「この子は、局部麻酔でやる。」

一瞬ホッとしたものの、すぐにまた別の種類の恐怖と不安が襲ってきた。凄く痛いんじゃないか・・・。

しかし、その心配はすぐに消えた。麻酔薬の注射が何本か打たれた後、いよいよ切開が始まったが、メスが右側鼠径部に当てられたときにヒヤッとした金属の冷たさと、皮膚がザクザクと徐々に切られていく感覚の後は、何も感じることはなかった。

術後すぐに私は、へその下辺りから両太ももまでをギブスで固められた。両太ももの間には、両端にネジ山が切られた金属棒が挟み込まれていた。そう、つっかえ棒だった。排泄ができるように股だけは、穴があけられていた。

居室に戻されてベッドに寝かされてはじめて私は気が付いた。相撲取りが四股を踏んでいるような格好で固められているので、自分では寝返りも打てないことを。そして、常に仰向けなので、穴は開いてはいても、これではオシッコは上にしか飛ばない・・・。焦った・・・。困った・・・。そして笑えてきた。ギブスの真っ白な面からヒョイと覗いていた自分のおチンチン。見たことのない、奇妙な絵面だった。

そんな恰好で1か月程寝かされていた。当初困惑した排泄方法も、隣ベッドの子に引っ張ってもらい身体ごと横に向けばできることが分かってきた。ただ、慣れなかったのは、白い穴からひょっこり顔を出したままのおチンチンだった。誰もが笑い、からかわれた、それがとても悔しくて恥ずかしかった。

そんな寝たきり状態のある日、突然担当の看護婦さんが来てこう言った。

「今日から、お前専属の世話係が付くことになった。同じアジア人だ。」と。

その世話係の人は30分後くらいに来た。

「こんにちは、私、アーニャです。」

突然、日本語が聞こえてきた。

私は世話係の登場に心底ビックリした。懐かしかった。背丈も、顔の大きさも全て、2年前に私が見慣れていたものだった。それからもちろん、切れ長の目、まっすぐな黒髪。それら全てが、自分が日本人であることを思い出させてくれた。

とても若い女性だった。あとで分かったことだが、この人は、看護学校から派遣された実習生だった。

アーニャがせっかく日本語で話しかけてくれても、私は当時すでに日本語をきれいさっぱり忘れていたのだ。だから、しょうがなく、

「ズドラーストゥイチェ、ヤー サトーシ(こんにちは、ぼく、さとしです)」と、ロシア語で答えるしかなかった。

「ア ヴィ ヤポーンカ?(あなたは日本人ですか?)」

アーニャは日本人ではなかった。出身はウズベキスタンだった。一か月くらい 経った後に、アーニャが突然自分のルーツについて話してくれた。アーニャのご両親は、終戦まで、樺太(現サハリン)に住んでいた朝鮮系の人だった。お父さんは日本の会社で技師だったそうだ。その為、お父さんもお母さんも日本の学校で教育を受けたとのことだった。その後、日本人に協力した朝鮮系住民という事で、ソ連当局から目を付けられ、数千キロも離れた中央アジアのウズベキスタンに強制移住させられた。

おそらくアーニャは、大変な努力家だったに違いない。そんな差別的な制度の中で、首都のモスクワまで出てこられて、しかも、また子供とはいえ、日本人の私と直接話が出来る事になったのは、アーニャが自分で優秀さをもって当局の信頼を勝ち取ったからだ、と言えるだろう。

アーニャが、実習を終える日に、私にこう言い残した。

「私たちには、アジアの血が流れている。だから強いはずよ、あなたもね。」

実を言うと私は、自分がアジア人であるという意識を持っていなかった。日本にいる頃はもちろん、アジア人などという事は考えもしなかったし、モスクワでの施設に入ってから、特にロシア語が分かるようになってからは、自分がどこの人間か分からなくなっていたような気がする。しかも、施設にいた期間、私は一回も鏡を見たことがなかったのだ。

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ。

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

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