江戸の敵は長崎で討つな / 牧之瀬雄亮

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「江戸の敵(かたき)を長崎で討つ」ということわざがあります。

私はこれを誤って解釈していて、江戸で父親か何か殺されて、その仇討ちの相手を長崎まで追っかけて見事本懐を遂げた、敵を取ったその執念というか、「根性が大事」という意味に取っていましたが、どうもそうじゃないようですね。

本当の意味は、「江戸で嫌なことをされたから、長崎でその憂さ晴らしをする」

という意味、つまり、八つ当たりということです。

根性を奨励する筋なのであれば、「追う」等つけたり、「江戸の敵は長崎も遠からず」とか、「とるべし」となっていておかしくないと思います。

私の誤用についてご指摘を受けて納得した次第です。ありがとうございます。

「江戸の敵を長崎で討つ」
はい、私には身に覚えがあります。
生来どこかイライラしている私の性質があり、生まれてこの方ずっと周りに対してイライラしっぱなし、中学生の頃はSMAPがテレビに出ていることが嫌でイライラ(思春期のホルモンの嵐で説明がつくか)してました。

これは一種、既に病気だと思います。
自分の歴史を直視しようとしてみても、既に脳は今の自分を正当化するように上手いこと取捨選択をしています。

米良義一さんが、酷いいじめにあった過去のトラウマと正面から向き合おうと当時のいじめの主犯に会いに行くというテレビ企画がありました。

米良さんはいざその相手に会って、
「あのとき穴に落ちた僕の上から落ち葉をドサドサ落として、どんな気分だった?」と涙ながらに尋ねます。

するとキョトンとした彼は慌てて、
「えっ!?あのとき米良くんがどうしても埋めてくれっていったんだよ!」と意外な言葉を返します。

そこから米良さんの中に正確な記憶が怒涛のように蘇り、「愛されていなかったわけではなかった」と悟り、最後は涙涙の大団円(?)となった。

という話です。

人間誰しも何かに依存しているわけで、大人は金銭(物欲も含まれるか)・仕事・名誉・薬物・性のどれかに依存していると言われますが、私としては、依存はあきらかに社会生活に支障をきたすレベルでなければいいじゃないというスタンスです。

ある程度の依存をすることで逆説的に社会生活を円滑に行える個人もよく見ますし、「依存≒頼る」でもあると思います。

大体独立した自我など私はないと思っています。「全く私は独立しています」と言い張る人をたまに見かけますが、そういう人は遅かれ早かれ大体どこかで無理が生じて変な感じになります。自己正当性を強烈に打ち立てるために誰かを仮想敵とすることで、いずれ人間関係にヒビを入れます。

こういう方の大変なところは、ある一人の仮想敵を排除できた場合、それで治るどころか次の標的を探し、また強烈に憎み始めます。そうやって繰り返し溜飲を下げ続けるのみです。

まずもってそういった方が、仮想敵として相手が「いてくれている」ことに依存していることに気付いていないという指摘をここでしておきます。

自分という自我が生じるのに一体どんな流れがあって今そこに自分がいるのか。自分に連なる先人たちの誰か一人欠けていればまずは自分はいないわけで、また、自分が育った家庭の環境を成り立たせた要素は自分の家族家系の面々のみに依るものではないし、そこには農家や土木関係者という存在はすぐに見え隠れし、また、行政または国家というものもまた、地続きであるものです。
そこには一切の飛躍がないことを断言します。

そう考えると、リバタリアン(自由でなく「奔放」主義者)やアナキスト(無政府主義者)というものは存在し得るのか疑問が湧きます。
カウンター、つまり反動の一形態としてしかそれは存在し得ないものではないでしょうか。

大きな話でしょうか。政治的な、あるいは哲学的な話でしょうか。そうではないと思います。
哲学の仕事は、人間の振る舞いの中の傾向に名付けをしていくという作業に他ならず、哲学用語を知らなくても、哲学なんて触ったことがない人の中にも、哲学用語が指し示す現象や振る舞い自体は起こっているのです。
今全く当たり前のことを言ったまでです。

米良さんの例をとるまでもなく、私たちの人生は全くの謎です。落ち葉で埋められた悲しい過去を持っているという設定が、あの悲壮な声を生むために必要だったのかも知れず、それがまたなぜ、幼い米良少年によって他人を巻き込んで決行されなければならなかったか。それは謎なのです。また、米良さんのカウンターテナーの声色と落ち葉との関係もまた、あるかも知れないし、ないかも知れないのです。

長くなりましたが今日、保育園に息子を迎えにいった帰り、家内と三人で飲み屋のつまみをテイクアウトしました。

そのもう3年前に、私は今のように家庭を持つことなど夢にも思わなかったし、体が効かなくなるまでこうやって酒を飲むんだろうと思っていました。

江戸の敵を長崎で討とうとする人に、もう一つ釘を刺さねばなりますまい。
あなたはあなたの楽しさ幸せを追求しなければならないのです。安易な仮想敵をいじめて、溜飲を下げていては、人を呪えば穴二つと言うでしょう。
中島みゆきは言っていました

「私の敵は私です ファイト」と。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

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