小さな自分を抱きしめて ~~母がしてくれたことしなかったこと続~~ / 安積遊歩

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母は勉強をしたくても母自身が貧しくてできない状況で育った。だから、学歴というものに対する幻想も憧れもなかったように思う。ただ、勉強は好きだったのでせめて小中学校だけは私に出てほしいと本当に頑張ってくれた。しかし、高校・大学については義務教育でなかったためかすんなりと諦めていた。なぜあんなにも簡単に諦めたのか。その理由が人に迷惑をかけられないからというものでなかったことは確かだ。母は、私たちに「人に迷惑をかけてはいけない」という言葉だけは言わなかった。だから、私は、小学5年で施設に入るまでその言葉を知らなかったと言っても過言ではない。

母の実家は大家族で、行くたび賑やかだった。子どもの喧嘩やそれを注意する祖母やおじやおばの声、その上近所の人や通りすがりの人が立ち寄ってお茶を飲んでいく、と言うような暮らしの様々な声にみちあふれていた。

家には中二階(今で言えば屋根裏部屋のようなものである)があって、「お蚕様」が飼われていた。お蚕様の季節には中二階から「ざわざわ、ざわざわ」と桑の葉を食べるお蚕様の音や屋根裏を駆け回るネズミ、それを追いかける猫の声など人間以外の音や声もあった。

母の実家は温泉街にあったので、私が小学校に上がる前まで母の家の裏にはその温泉の42、3度のお湯がとうとうと流れていた。母たちは貧しかったけれどその温泉のお湯で、煮炊きも洗濯も掃除の雑巾洗いも全部できていた。

今思えばなんと贅沢な生活であったろう。母は私が骨折するたびその実家から祖母や姉妹の応援を得ていた。また、私の兄も妹も私が病院に通わなければならない時は、その実家に何泊も預けられていた。

兄も妹も随分長い間おねしょをしていたが、そのことで誰からも徹底的に責められることはなかったという。母も私のことで忙しかったので兄と妹のおねしょにそれほど気も回らなかったのだろう。とにかく、誰もが子どもであれば多少のおねしょはするものだし、従兄弟同士の子どもたちが喧嘩をするのも、そんなものだという寛容さがそちこちにあった。

そんな中、私がたびたび骨折するのだけは辛いこととしてみなされ、誰からも大事にされた。特に、母の辛さや悲しさは祖父母や彼女の兄弟姉妹にも深く共感されていて、私は誰からも可愛がられていた。母の実家にあった柘榴や柿の実り、また稲刈りや田んぼの田畑の手伝い、そして、飼われていた鶏や豚との関わりなど、自然と命との繋がりや豊かさが確かにそこにはあった。そしてその時々の自然の豊かさの中に、私も母におぶわれながら全て参加できていた。

母は、私の骨折を常に心配しながらも、私に対して完全に過保護になるということもなかった。実家は和式のボットン便所だったので、私はそこに行くのが本当に怖かったのだが、母がいない時がたまにあって、そんな時は妹と二人、あるいは、ごくたまにであったが、一人でハイハイをして辿り着きその和式の暗いトイレを使った記憶もある。ここに落ちたら、一貫の終わりだと思いながら用を足し、大学ノート1枚分くらいの大きさに切られた新聞紙でお尻を拭き、トイレを出たときのあの安堵感。一大事業を達成したかのような充実があった。

20代になって障害を持つ人たちの運動の中で、仲間たちの家を訪ねるようになった時、私はどの家々も障害を持つ人たちの存在を隠そう、隠そうとしていることの差別があまりに辛く、驚愕し続けた。

母は、私を一切隠すことはなかった。それどころかどこにでも私をおんぶして連れて行ってくれたので私の目線は母の目線と同じ高さになった。だからこそ、言葉を喋るようになった時に生意気で気の強い子だとも言われるようになった。

つまり、赤ん坊であることは常に目線で見下げられる立場にいるわけだが私は母の背中から世界を見ていたのだ。乳母車に乗せられたり、あるいは歩けるようになって駆け回れるようになっても障害がなければ、子どもたちの目線はかなり低いわけだから見下げられて馬鹿にされ続ける。そんな子どもたちの間で私は、母の足を自分の足かのように思えていたのはある種幸せだったとさえ言える。

周りの大人たちが歩き走り回る子どもたちに「大人しくしなさい」とか「いい子でなきゃ〇〇はあげられないよ」というのを聞きながら、その非対等性に子どもながらに違和感を感じ続けていた。

そして、その非対等な立場に承服できない私は大人が決める数々のことにしょっちゅう意義の申し立てをしたのである。母は、異議申し立てをする私に一切偉そうな説教をしなかった。

そこには、私を骨の弱い子に産んでしまったという激しい罪悪感ももちろんあっただろう。しかしそれ以上に、私の存在に対する喜びと、私の賢さに対する驚きの両方を感じさせ続けてくれる対応があった。生意気な私の物言いに対する笑顔、医者の暴力的言葉に対抗する私と医者に向けられた数々の涙。

母は言葉を駆使して私に何かを伝えるということはなかった。常に涙か笑顔で私の心に語り続けた。だから、10代から30代半ばまで私は言葉で彼女が語ろうとしなかったことを非難してしまった。特に医療との関わりはあまりにも納得できず、母を許せない思いで見続けた。

しかし、それも母が24歳の時に最愛の妹を結核で亡くしていることに気づいた時には私の命を守りたさに医療に頼ってしまったことに気づき、母を完全に許し愛せるようになった。

母は涙と笑顔で愛情の全てを私に伝えてくれた。それが、今の私とうみとの幸せな日々の背景に燦然と輝いている。

 

◆プロフィール
安積 遊歩(あさか ゆうほ)
1956年、福島県福島市 生まれ

骨が弱いという特徴を持って生まれた。22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。

著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。

2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。好評で再放送もされた。

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