赤國幼年記⑮ / 古本聡

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アーニャについて

先にも書いたが、アーニャは朝鮮系ウズベク人で、同じ黄色人種だからということで私の世話係を命じられた看護実習生だった。

通常、ロシアでは自分より目上、年上の人を呼ぶとき、名前に父称を付けるのが礼儀だ。ロシア人の氏名は、「名前+父称+姓」の3つの部分から成るが、姓で呼ぶのは軍隊か、またはタワーリッシ(同志)を前に付けて公式な場面でだけだった。

だから、私はアーニャにまず尋ねた。

「あなたの父称は?」

「アーニャだけでいいわ。」

アーニャは普通、アンナの愛称なのだが、彼女の本名はアン(杏)だった。日本語の名前だったのだ。アンはロシア語では子音で終わるので、女性名には合わない。だから、ア段で終わる語尾を付けて、ロシア人にも違和感なく呼べるようにした、ということだった。

「でも、それ以上ロシア人に阿ることは嫌なの。あなたにも父称はないでしょう。」

とアーニャは微笑みながら言った。

確かにそうだった。私のサトシという名前もロシア人からすると「イ」の音で終わる、中性的で、いかにも外来語というような奇妙な響きだった。だから、サトーシャになったり、終いにはサーシャ(アレクサンドルの愛称)と、まったくロシア風に呼ばれるようになっていた。ただ、父称は、無理矢理作れなくもなかったが、そこまでして却って発音しにくい名前を欲しくはないと、子供ながらに思っていた。

何だか同志に出会ったようで、とても嬉しかったのを憶えている。

アーニャには年が離れたお兄さんとお姉さんがいて、彼らは、小学校(終戦前の日本の国民学校)の途中まで樺太にいたので日本語ができるようだった。今、考えてみれば、アーニャ自身も日本語をかなり理解していたのかもしれない。そう思えなくもない。

旧ソ連でも、今のロシアでも、アーニャのような非白人系、非ロシア人系、特に東洋系の人たちの運命は過酷だ。正に国と国との力関係、戦乱、そして支配・被支配の関係に振り回され、翻弄され、愚弄され、そして何度も何度も踏み潰されてきた歴史が彼らにはある。踏み潰されても立ち上がってきた歴史が。

アーニャは、ギブスに巻き固められて隠したくても、自分ではどうにも隠しようがなかった私の下半身にシーツをふんどしの様に巻き付けて覆ってくれた人だった。それまで何週間も、顔から炎が噴き出しそうになるくらいの羞恥の念からやっと私を解放し、救ってくれたのだった。

これがアジア人の優しさではないか、きめ細かな心の襞というものではないか、と私は思う。私はこの時初めて、それまで自分が看護婦たちや世話係のおばさんたちに侮辱され、愚弄されてきたことを悟った。そして思い出した、この収容施設に連れてこられて初めて迎えた朝に、あの年長の男子に言われた言葉を ― 「黄肌サル」。

話を少しアーニャのルーツに移してみたいと思う。

朝鮮系ロシア住民のルーツは19世紀半ばの帝政ロシアに遡る。当時ロシアは、極貧状態にあった朝鮮半島北部の農民たちの移住を、住む人のほとんどいない極東の沿海地方(日本海に面した地域)を入植地に定めて、積極的に受け入れた。

その後、日本が朝鮮半島に進行し、1910年にはこれを併合する中で、朝鮮からの移住者たちは、ひっそりながらも繁栄を果たしていた。しかし1937年、日本とソ連の国境紛争が悪化すると、スターリン独裁政権は、朝鮮人が日本のスパイとなることを恐れて、彼らを極東からソ連領内奥地のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンなどの中央アジア諸国へと強制的に移住させた。

そして、そこで朝鮮系移住者に集団農場を営ませることを決めた。数万人もの朝鮮人が、ある日突然、荷物をまとめるよう命じられ、窓のない家畜輸送列車に押し込められた状態での、厳しいシベリアの冬に7000キロに及ぶ距離を移動する旅は過酷そのものだっただろう。

移住先で土地を追われた人々はやがて、ソ連政府が彼らに約束した資材提供や経済援助も、決してやってこないことを悟らざるを得なくなったのだ。

昔からずっと米を作って暮らしてきた朝鮮系の農民たちにとって、中央アジアの乾燥した土地や遊牧の文化に順応することも容易ではなかったようだ。

そして次は、アーニャの家族が歴史と戦争、そして政治に翻弄されることとなったのだ。

つづく

 

◆プロフィール
古本 聡(こもと さとし)
1957年生まれ

脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。

早稲田大学商学部卒。
18~24歳の間、障害者運動に加わり、障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。

2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

 

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