災害と障害② / 田中恵美子

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私が最初に東日本大震災の被災地を訪れたのは、2011年7月のことだった。郡山に住んでいる古くからの友人に白石清春という素晴らしい運動家がいる。私は白石氏のいる福島県郡山の自立生活センターを訪ねた。白石氏といえば、全国青い芝の会の代表をしたこともあり、また1986年の障害基礎年金の導入に際し障害者運動側から研究会に参加し、その設立に貢献した人物でもある。

重度の脳性麻痺があり、手足がアテトーゼで自分の思うとおりになかなか動かせない。特に発語がスムーズにいかない。うまく言葉に表現できない情熱が行動となって表れる、そういう熱い男だ。また白石氏の唯一無二の親友が橋本広芳である。これまた知る人ぞ知る有名な男である。

さて、私がなぜ白石氏を訪問することになったのかというと、私の親友に土屋葉という家族社会学の研究者がいるが、彼女から、白石氏が原発を題材とした絵本作りに取り組んでいて、その口述筆記を土屋が手伝い、さらにその後を私に手伝ってほしいという話があったからであった。白石氏は福島で被災した障害者の支援も行っていた。

到着したのは初夏の暑さがまだ心地よい日だった。バスで事務所に行くと白石氏が迎えてくれた。私と白石氏、橋本氏は2001年に調査で出会って以来関係が続いていた。2010年に還暦を迎えた二人は、祝いの会を開催した(その席で隣り合ったのが、安積遊歩だった。そのことを私もすっかり忘れていたが)。

その時、白石氏と橋本氏はそろそろ運動から引退して余生を楽しく暮らしたいと言っていた。だが、翌年に東日本大震災、そして福島第一原発事故が起こり、それどころではなくなった。二人は地域にいるはずの障害者を探し出すこと、避難させることに尽力した。

私が到着した次の日の夕方、郡山市内で原発反対に関する集会が開かれた。その日は雨が降っていて、会場に向かう頃には雨は上がっていたが、あたりは水たまり、道路がぬれていた。会場に向かう途中、私たちは白石氏が購入していた放射線量測定器をもって街の放射線量を図った。水たまりの放射線量は非常に高く、7~11マイクロシーベルぐらいになった記憶がある。

見えない何かに迫られている感覚…今でも思い出すと恐怖である。集会では原発事故の情報が開示されていないこと、原発の恐ろしさを訴え、これから福島はどうなっていくのかと悲しみに声をあげていた。

私には次の日になれば帰る場所があった。そこは…東京もそのころはまだ放射線量が高いのではないかと噂されていた。飲料水が足りなくなったりしていた。納豆がなくなったことも覚えている。それでも東京に帰ることができる私と、ここに残って暮らしていく人たちとの差を痛いほど感じた。

 

◆プロフィール
田中 恵美子(たなか えみこ)
1968年生まれ

学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。

現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。

研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。

 

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