ひゃくおくまん円 / 佐々木 優

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「お前、ウソやったら【ひゃくおくまん円】くれよ。」

私が子どもの頃、友達との間でこの【ひゃくおくまん】という単位がよく流通していた。
郷ひろみも似たようなフレーズを歌っていたが、僕たちにとってのこの【ひゃくおくまん】も、ものすごくいっぱい!という意味で使われていた。

「えーよ、ひゃくおくまん円を0回はらってやらい。」

ものすごくいっぱいのお金を0回支払う。
当時、算数が苦手な子もこの理屈をわかって言っていたのか否かはさておき、これも僕たちの間でお約束の【返し】であった。

途方もないほどの数であっても、0をかけた途端に【無】になる。
厳密には0が有る、ということかもしれないが―――

「まぁ人一倍(今でいう2倍)働くっていうけどのぉ、正味(しょうみ)な話、せいぜいが1.2倍ぞ。」

これは、私が就職して働き始めた頃、新米社会人の私に父親がくれた言葉だ。
たまにはまともなことを言うもんだなと感心したから、25年経っていても覚えている。
自分は他人より仕事がこなせるんだと自負していても、実質はその程度(2割増し)の差しかない、ということを伝えたかったのだろう。
お前、思いあがるなよ、という造船工だった父親らしい私への戒めだった―――

もうひとつ思い出した。

「お前が自分と同じくらいというなら、相手はお前より上や。」
「お前が自分よりヘタやというなら、相手はお前と一緒や。」

中学のサッカー部でレギュラー争いをしている私に、父親が投げかけたこの言葉。
どうしても人は、無意識で自分を相手より優位に位置づけたくなるような心理が働くもの。
正味の実力に2割り増し気分の私へ、これもまた、お前、思いあがるなよ、という父親のメッセージだったのだろう―――

このように、あらゆるモノに無意識にでもなにかを【かける】ことで、そのモノの実質的な価値や数が変容して(捉えられて)しまうのだ。
だからといって、これらは決して過ちではない。

本当にひゃくおくまん円なんて誰も持っていやしなかったし、スポーツに負けず嫌いは必要な精神であるし、周りの誰かより余計に働こうとすることは悪いことではない。
私や誰かが幸せになる勘違いなら、いくらでもしていいだろう。

そう、私や誰かが幸せに感じている限りは、だ。

少年~青年期を経て、現在の私は福祉サービスを提供する会社で管理職を務めるようになった。
私はいつも【仲間】と表現しているが、一定数の部下がいる。
彼らは現在の大変な環境下にありながらも、山あり谷ありな毎日で、気持ちをふり絞って支援に向かってくれている素敵な仲間達だ。

そんな彼らが100人いるとしよう。
それぞれが時に0.8であったり、時に1.2であったり。
全体で80の日があったり120の日があったり、色々あっていいではないか。
疲れたときは疲れていいし、いつも通り頑張ってくれた日はありがとう。

しかし、管理職の私が、これに0をかけてしまうと、瞬く間に【無】になってしまうのだ。
私は、私のリーダーシップの如何によって、極端な話、仲間たちが0にも200にもなるという緊張感をいつも感じている。
もしかしたら思い上がりかもしれないが、私のせいで、誰かの努力を無にしたくない、不幸にするわけにはいかないという緊張感だ。

どうだろう、私はなんとかぎりぎり1であり続けているだろうか、まれに、いや、時々、いや、けっこう0.8ぐらいの時があるよね。
みんな、いつも迷惑をかけてごめんね。

 

佐々木 優(ささき まさる)
ホームケア土屋 四国

 

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