親愛なる人、阿部薫 / 牧之瀬雄亮

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知的財産権は詐欺的価値観である。
という考えがある。

私もどちらかと言えばその考えに近い。
その考えに力を持たせるのは、ある強欲男と目される人物が、HIVの新薬の権利を買収し、目ん玉が飛び出て帰ってこないような金額で販売していることに顕著なように、本当に人類に必要な知識・見識が、金銭の支払い能力によって得られる得られないということがあっていいはずは無いと考えるからである。

また、カラオケを発明した人物は、特許申請をしていなかったために、カラオケ大繁盛の金銭的な恩恵に預かることができなかったということがある。なんだかねえ。

資本主義という価値観、時代は、笠置シヅ子が歌う前から「買い物」の時代であり、それは無限にあるように見えた、しかしながらその実、一定の選択肢の幅しかない領域からの選択を私たち人間に迫り、さもそれが幸せなのだと大っぴらに言って、価値観を暗に押し付けられる時代とも言える。

さらに言えば、
あなたが車を買うとして、取ることができる選択肢は無数ではない。
中古や新車に関わらず現在販売されている車に限って購入することができる。
そして何台買うかに関係なく、例えばトヨタの車を持っている人、スポーツカーを持っている人、ファミリーカーを持っている人、高級な車を持っている人、など、それぞれその手に入れた車に対するイメージや所有しているという感覚(満足感や不満足感)、維持にかかる楽しみや苦労を引き受けることになる。

購入した車が日常使用に問題がない車だとして、どんな車でも、徒歩や自転車よりも気軽に遠くへ行ける。
屋根がある車なら雨風についての懸念はほとんどないと言っていい。

しかし徒歩や自転車よりも安全には気を配ることが必要であるし、義務である。

そして何よりも面白いことは、自動車だろうと馬に乗ろうとスペースシャトルだろうと、どこに行くか決めないと、出発しようと決意しないとどこへも行けないということだ。

私の子供は最近、お勝手が面白いらしく、たどたどしく卵焼きを焼いたり、食器を洗ったりする。
私は危なっかしさが目につき、小言を飲み込んだり、思わず口に出したりしながら、子供の意欲が輝くのを嬉しく味わっているのだ。出来上がる卵焼きや目玉焼き、そしてホットケーキは、実に味以上の味がしてくる。

私は主義主張や好みで言えば、卵焼きもホットケーキも特に好きではない。卵焼きももう少し塩が効いていた方が好きである。

しかし子供が意思を持って、何かを為して、私如きに与えようとするという気持ちが既に「旨い」のである。

また時折、散歩の最中に、やおらしゃがみこんだ我が子が、地面に手を伸ばし、拾った小石や砂利を私にくれることがある。
私にとってこれが何より嬉しい。
石という世間的価値では計測もしない正体不明の何か、それもいくつもいくつもある中から、私にあげたくなるひとつを子供の朗かなエネルギーで選び取り、それを惜しげもなく私に差し出してくれる。
自分がショッピングモールで選んだ新しい服などと比べ物にならない、圧倒的真実味が、差し出された小石にはある。
これ以上の贈り物を私は望むことはないと思う。

さて、タイトルは「阿部薫」という夭折したアルトサックス奏者についてである。

阿部薫は、端的に言えば、社会的記号と堕してしまった「音楽」を、生き返らせた人である。

世間一般のこととして、楽器の習得をしようとして、特に西洋音楽ではリズム音色ということを習わせる。
スピード、リズムということについて言えば、遅れただの早まっただの言う。時には叱ったりする。
合奏合唱をしていてそんなことを言うのだが、「遅れる」「早まる」も、「何かに対して」比較してのことである。つまりは相対的なのだ。

たかだか誰かが作った楽譜になんとなくこの辺じゃろうと定められたスピードに、一つの音が遅れたとか早まったとか言うのである。

誰もがそれが黄金比、最高それ以外に認められないというものではない。

断言して良いが、その遅れこそが、「遅れた」奏者の身体にとって自然であったかもしれない。そしてその身体と接続されている環境にとっても理由があるのかも…というイマジネーションは「早い」「遅い」と言ってやり直しをし始めたが最後、永久に問われないものになってしまう。少なくともその場に於いて。

阿部薫の演奏は即興である。
フリーミュージックとも言われるが、なんに対して不自由でないのか、どうだからフリーなのか、そういう定義さえも一演奏家が演奏によって説明責任を果たすという、そういう音楽というより「姿」である。

阿部薫は気に入らない奏者の演奏を指して
「あいつの音は寄りかかってるんだよ」
と言っていたそうである。

「良い」とか「悪い」とか、「合っている」「合っていない」という場合、参照するべきルールの体系があり、その価値観への収斂を目的とする。
しかし、音楽とは不思議なもので、リズム、音程、その他の表現が楽譜に限りなく沿ったものであったら他人の心を揺さぶるかと言えば、決してそうではない。むしろ逆で、のんべんだらりただ音がなっていますねというぐらいのもので、惣菜のパックに印刷された大葉の絵のような、頼りない存在感しか生じさせないということは、これは多々あるのだ。

肝がないのだ。要(かなめ)がないのだ。
「私は今この瞬間にこの音を鳴らす、そしてその全責任を自分が負う」という全身的、全霊的責任感に欠けているのだ。

阿部薫はそれを徹底的に嫌った。

これを人生に置き換えてみればどうか。
「あいつの言った通りにしたら失敗した」というのも、「誰かうまくやってくれるから俺は旨い汁を吸う」というのも、それは同じことであり、砂上の楼閣に今たまたま腰かけられているだけにすぎない。そして楼閣を誉める風潮が、たまたまあるだけにすぎない。

前者は他者への非難によって為された楼閣、後者は他者の努力によって為された楼閣。後者は座るものへの反逆が起こればすぐ瓦解する。
前者は自分にいよいよ責任が回ってくる頃(実際は一瞬一瞬が責任と自由に満ちているのに)、楼閣はグニャりと曲がって自分を突き刺す。

阿部薫は晩年、
「頼っていたのは俺だった」と言ったという。
通り一遍の音楽への「アンチ」として存在したという意味だろうか。仮にそうだとして、この回顧を元に阿部薫の価値は一切減じない。
それは阿部薫が、音楽的近似者(1970年代、彼が属したとみられるフリーミュージックは全世界的に発生している)たちの賛同を得られたこともなくはなかったろうが、阿部薫の、仮に誰に対してもアンチを貫かんとする姿勢をとってみせることの責を、他の誰でもなく自分一人の身に背負って戦っていたことによる。

阿部薫の即興は、絶命したように黙るというよりも、止まることさえあった。

現在、ネット上や、気の利いたレコード屋を探せば阿部薫の音は耳に入れることができる。
「死の数日前の演奏」なんてものも、盟友芥雅彦氏のYouTubeチャンネルで、その凄絶な眼付きとともに動画で見ることができる。

ただ、彼の演奏に安易な慰撫はない。
自己の甘えを捨て去ろうともがき、依存の誘いを振り払おうとする精神の無宿者、与えられた鍛錬を捨て、誰の求めでもない自らの科した修練に打ち込む者にとっては、煌めく同志のように映り、換えの効かない知古を得たような気分になるだろうと思う。

そして私の中では、一粒万倍、人類の喜怒哀楽を一点に凝縮、量子化した点を、音によって私にねじ込む神々しく、光り輝く力であり、地獄の底なしの暗がりの両方である。

一時、左翼方面の方々のお召しのTシャツやバッジ等で『アベ政治を許さない』という文言をお見受けしたが、私にとってアベといえば薫、薫といえば阿部、あの、居るのに居ないようでいて、誰よりもあり続け、それが彼の肉体をこの世が失った今でも、きっとどこかの暗がりから、あの音色が聞こえてくるようである。

実際そうで、我が子が奔放に叫び声を上げる時、喜びか悲しみか、その音に分別を、他者である私が品なく区別する以前に、既に存在するその音の中に、阿部薫の気配を、私は感じるのである。

私は、いつも阿部薫に生きていることを突きつけられている。

阿部薫は、
「正しいとか間違っているとか、それがお前のやることなのか?お前が奮い立つもので生きてみろよ。お前が見たい光はお前の中にあるぞ。他人じゃないぞ」
と、私に突きつけるのだ。
今もそうして生きている。

 

◆プロフィール
牧之瀬 雄亮(まきのせ ゆうすけ)
1981年、鹿児島生まれ

宇都宮大学八年満期中退 20+?歳まで生きた猫又と、風を呼ぶと言って不思議な声を上げていた祖母に薫陶を受け育つ 綺麗寂、幽玄、自然農、主客合一、活元という感覚に惹かれる。思考漫歩家 福祉は人間の本来的行為であり、「しない」ことは矛盾であると考えている。

 

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