職業について / 浅野史郎

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職業について書いてみる。人はどうやって職業を選ぶのか。そして私の場合どうだったのか。

小学校一年生の時に「あなたの将来」といった作文を書かされた。私は東北大学工学部に入って工学博士になり、動く家を作るんだといったことを書いた。先生に褒められたが、それにしても「東北大学工学部」なんてよく知ってたなと感心している。これ以降、工学系に進もうと思うことはなかった。

高校生の時、親に「史郎は将来何になりたいの?」と訊かれた。「サラリーマン」と答える私を、あきれた顔で見つめる親がいた。父親が医者だったので、「医者ほどいい職業はないよ」と母によく言われていた。それに反発するかのように、医者にはならないと決めていた。医者は何百人の命しか救えない、俺は何百万人の命を救う人になるんだと心の中でつぶやいたりして。

大学は医学部でなく法学部を選んだ。法学部の授業では、大蔵省(現財務省)を目指す学生が教室の最前列に並んでいるのをぼんやりと眺めていた。「あいつら真面目だな、俺とは違うな」とつぶやきながら。

大学四年生になり、就職先を決めなければならない。周りを見回したら銀行を志望するのが多い。私も深い考えもないままに某銀行に志願して内定をもらったが、就職には至らなかった。何故銀行への就職を辞めたか。小坂明子が歌う「あなた」の情景が頭に浮かんだのである。♫もしも私が家を建てたなら小さな家を建てたでしょう ♫大きな窓と 小さなドアーと部屋には古い暖炉があるのよ ♫真赤なバラと白いパンジー子犬のよこにはあなた あなた あなたがいてほしい ♫それが私の夢だったのよ・・・

銀行に就職したら、こんな夢の様な生活が得られる。いや違う。俺はそんな人生を送りたいのではない。「世のため、人のため」という言葉が頭に浮かんだ。国家公務員になろう。ものすごい発想の飛躍である。私が銀行を辞めて、国家公務員を目指したのには、こんなわけがある。

国家公務員になりたいといっても、そう簡単にはいかない。国家公務員試験に合格しなければならない。大学では遊んでばかりでまともな勉強もしていない。友人たちも「浅野が公務員試験受けるんだって?!」と、目をまるくしている。「どうせ受かりっこないのにな、ご苦労さん」ということなんだろう。

その国家公務員試験、結構良い順位で合格。それで公務員になれるかといえば、そうはいかない。各省の面接を突破しなければならない。実は、その前にアドバイスを求めて人事院を訪れていた。「あんたの大学の成績ではどこの省も採用してくれないよ。人事院なら採用してやる」と言われた。納得がいかない。人事院の勧誘を振りきって厚生省(現厚労省)に向かった。

厚生省では人事課の事務官二人の面接を受けた。冒頭「なんで来るのがこんなに遅いんだ。もう15人に内定出しているんだぞ」と叱られた。例年10人前後しか採用していない。16人目になるのは無理だろうなと覚悟したが、その場で「採用する」と言われた。大学の成績も良くない、面接に来るのも遅かった、なのに「採用」。面接した二人の気まぐれというか遊びゴコロなのだろうか。でもその気まぐれで厚生省に入れた。今の私があるのは厚生省入省のおかげ。この二人には感謝しなければならない。

厚生省での最初の仕事は公衆衛生局防疫課。伝染病予防法を所管する。在任中、予防接種事故の頻発が問題になり、被害者への給付金制度ができた。制度導入にあたっては大学で学んだ「無過失責任」について議論された。

入省三年目に、人事院在外研修制度による官費留学生としてアメリカのイリノイ大学大学院に派遣された。日本での大学時代の不勉強に悔いが残っていたので、敗者復活戦のつもりで、ひたすら勉学に励んだ。行政学修士を取得したが、そこで学んだ組織論は後の知事時代に役に立った。

続きは次回で。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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