こもちゃんTV 放送20回を振り返る PartⅡ / 原 香織

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鞆の浦のイベントから帰り、1週間後くらい経ったころ・・・

CMOマーケティング最高責任者である宮本武尊さんからお電話があり、
「原さん、今度、土屋の古本聡さんと番組をやってみませんか?」と。

宮本さんとは、福山・鞆の浦のイベントの前から、MTGや“みらクルTV”でお会いしていたのでお電話があることに関しては何の驚きもなかったのですが、それまではそういう話は全くなかったので、

「えーーっ?!あ、はいっ!!でも、私で、大丈夫ですかね( ゚Д゚)」

というような感じで、この新たな “どきどきワクワク” な、チャレンジへのお誘いに乗らせていただくことにいたしました。

それからは、とんとん拍子で、番組名や放送開始日などが決まっていったような気がします。

こもちゃんTVのMTGがあり、番組関係者で集まり、
★古本聡さんのことを”こもちゃん”
と呼ばせていただくことになり、他のメンバーもみんなあだ名で呼び合おうという事を決め(笑)、
★宮本武尊さんはプロデューサーなので“宮P”、
★川久保さんは監督ですが、くまモンぽい優しい人柄から“かわモン”
という名前になりました。
★わたしは何だろ?? みなさん、好きな感じに呼んでくださっていますねw かおりん、かおりちゃんと。あっ、宮本さんは言い出しっぺなのに、わたしの事を、原さんって呼んでるかも~。

番組開始の11月20日に向けて何度もMTGを重ね、その間に、古本聡さんご自身のことやお考え等をどんどん学ばせていただきました。なんだろ、とっても贅沢な時間ですよね…、授業料払わないといけないくらいのイメージだと思いますが、ある意味、障害者運動の歴史や優生思想についての話などのプライベートレッスンを受けることが出来ていた、という感じですものね。
こんな機会をくださいました高浜さん、土屋の皆さんに、深く感謝しております。

最初の頃、こもちゃんとお話している中で、たまに言葉が不明瞭で聞き取れない部分があったりもしました。でも、その時に、分かったフリもできないしどうしようかなぁ?と、少し戸惑ったりもしたのですが、こもちゃんはとても優しくて、わたしが「すみません、もぅ一度お聞きしてもいいですか?」と、聞き直しても嫌な顔せずにしっかり対応してくださるので、安心して、内容を理解していくことが出来ました。

さてさて、11月20日(金)、第一回目の放送、ついに本番の日がやってきました!!

そんなに緊張する予定ではなかったのですが、今まで、ほぼアドリブで人生を過ごしてきた私には、入念に何度もMTGをして迎えた、この本番の日は、逆にとても緊張する場面となりました(笑)

第一回の放送は、「はじめてのこもちゃん」という事で、出生の秘密から旧ソ連での障害児収容施設での生活の辺りを、こもちゃんからのお話を中心に進めていきました。
こもちゃんがお母さんのお腹の中から出てくる時、脳への酸素が不足した事が原因となり、脳性麻痺という障害と共に生きていくことになったこと。それから、お父さんの転勤で、ほぼお家暮らしだった5歳までの大阪の家から東京への引っ越し。そこには刺激にあふれた都会での生活が待っていて、お母さんとたくさんお出掛けをされたことなどが話されました。

そして、6歳になった時、お父さんの転勤で旧ソ連モスクワ、こもちゃんにとって転機となる旅のはじまり。モスクワでのこもちゃんの生活は、私には想像もできないほどの大変屈辱的な思いをされたのだと思います。障害児収容施設という名の、人体実験研究施設の中で、周りのお友達がどんどん命を落とし消えていくことが普通になってしまっていた話なんかは、今の日本の日常生活の中では、全く有り得ないようなものであり、今のこのこもちゃんの優しさと強さは、そのような壮絶な体験を乗り越えてきたからこその、精神的な強さと絶対的な運の強さから来る自信があるからなのだろうなぁ、と思うのでした。

つづく

原 香織(はら かおり)
本社

 

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