職業について② / 浅野史郎

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イリノイ大学大学院での2年間の留学を終えて、戻ってきたのは環境庁(現・環境省)自然保護局。2年後には、厚生省社会局老人福祉課に異動。老人福祉課での仕事は一年だけで、在米日本大使館勤務を命じられた。アメリカでの留学経験があっての人事だろう。

在米大使館には各省からアタッシェとして出向してくる。日本でクーデターが起きたら、ここに臨時政府ができるぞというアタッシェがいた。大使館での仕事は、情報収集と日本から出張でやってくる人たちのお世話焼き。正直言って、やりがいとは程遠い3年間であった。

在米大使館から戻ってきて配属されたのは、厚生省年金局。ここには年金課課長補佐で2年、企画課課長補佐で2年、計4年在籍した。当時は、年金大改正を控えて忙しい部署だったが、ここで初めて尊敬すべき上司に出会った。山口新一郎年金局長と山口剛彦年金課長である。

山口新一郎局長は「年金の神様」と称されるほど年金制度に精通した方で、年金大改正の原案はすべて彼の手によるものである。在任中に肺がんを患い、がんセンターの病床から陣頭指揮を執った。
入院される前のことであるが、課長補佐数人との雑談の中で我々に語りかけた。「君たちは、こんなにやりがいのある仕事をやらせてもらっている。ありがたいことなんだぞ」。「そうか、国家公務員の仕事はそういったものなんだ」と私は心の中でつぶやいた。山口局長は、法案の成立を待たずに亡くなられた。

山口剛彦課長はとにかく仕事ができる。山口局長からの指示を的確にこなし、法案審議での国会答弁は丁寧でわかりやすい。野党議員からも信頼されていた。人間的にも魅力があり、私はとても好きだった。私が女性だったら惚れてしまうといったらわかるだろうか。山口剛彦さんはその後事務次官を務め、退官した。退官してしばらく経った頃、自宅で暴漢に襲われ、命を落とした。なんであんないい人が、こんな理不尽な目に遭わなければならないのか。その怒りもあったが、今これを書いていても涙が出てしまう。

年金局での仕事が山場を越えたところで、北海道庁勤務を命じられた。ポストは民生部福祉課長、障害福祉の仕事をするところである。役人になって15年にして初めて障害福祉の仕事に関わることになった。

北海道では多くの出会いがあった。障害福祉について何も知らない私にとって、出会った人から教えられることがたくさんあった。出会いから得たものは、知識だけではない。障害福祉の仕事の魅力、面白さ、奥深さを教えてもらった。

小山内美智子さんとの出会いがその第1号である。札幌いちご会を拠点にして自立生活運動を進めている小山内さんは、その日、車椅子に乗って福祉課にやってきた。「ケア付き住宅を作ってください」と要望をした。途中経過は省くが、道営ケア付き住宅8戸が出来上がった。障害当事者と役人が共同でやった事業。私にとっては、「役人と障害当事者が結託して事業をやるのはありだ」ということを教えてくれた記念碑的事業である。

北海道で重症心身障害者と再会して、「どんなに重い障害があっても、その人たちが生きていてよかったと思えるような生活ができるようにすることが障害福祉の目的だ」という確信を持つに至った。障害福祉の仕事は可能性の哲学の実践であることにも気づかされた。北海道庁で2年間福祉課長を務めたことで、障害福祉の仕事の面白さを知った。障害福祉の仕事に関わる人たちとのネットワークができた。北海道の美味いもの、旨い酒を堪能した結果増えた体重8キロとともに、東京に帰ってきた。

厚生省に戻った私に人事課長から「浅野君、次は障害福祉課長をやってくれ」との内示があった。私は、神様がいるんじゃないかと思った。

続きは次回。

 

◆プロフィール
浅野 史郎(あさの しろう)
1948年仙台市出身 横浜市にて配偶者と二人暮らし

「明日の障害福祉のために」
大学卒業後厚生省入省、39歳で障害福祉課長に就任。1年9ヶ月の課長時代に多くの志ある実践者と出会い、「障害福祉はライフワーク」と思い定める。役人をやめて故郷宮城県の知事となり3期12年務める。知事退任後、慶応大学SFC、神奈川大学で教授業を15年。

2021年、土屋シンクタンクの特別研究員および土屋ケアカレッジの特別講師に就任。近著のタイトルは「明日の障害福祉のために〜優生思想を乗り越えて」。

 

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