インフォームド・コンセント(説明と同意)
医療業界でもっぱら使用されている言葉であるが、本来直訳すれば【十分な情報をもとに納得した上での同意】であり、その主体は【説明を受ける側(患者)】であると理解すべきところを、こと日本においては【情報提供をする側(医師等)】に課せられた作業のように誤って伝播されてきた経緯があるようだ。
ちなみに私はこの主従が逆転した訳され方について特に問題視はしていない。
たとえ患者が主体(決定権者)であっても、前提として十分な情報の提供が医師等の側の作業としてあるため、訳や主体を云々することにあまり意義を感じないからだ。
それどころか、十分な情報の提供を医師等の側に努力義務として位置づけられることで、かえってこの日本の誤訳や誤用が怪我の功名となっているのではないかと感じている。
数カ月前、私の父が末期がんであることが判明し、今後の治療方針についての丁寧な説明を医師から受けた。
息子として、現病状や予後の説明に少なからずの動揺を感じながらも、同時に【これが俗にいうインフォームド・コンセントにあたるのだろう】と、冷静な眼差しの私がいた。
有難いことに抗がん剤が功を奏し、予断は許さないものの父は最悪の状態を脱することができている。
当時、父や私の家族は、医師からの十分な情報提供を受けられたお陰で、しっかり考え決断し、安心して医師の方針に命を託すことができた。
治療の過程においても、必要に応じてこの【説明と同意】が繰り返され、我々患者側が納得をして父の病気に対峙することができている。
冒頭で、主体を云々することにあまり意義を感じていないと述べたのはここにある。
どのような定義付けよりも、担当医の誠実な説明や加療がなされている事実に対する信頼、これが全てであると感じているからだ。
父の話題からはここで離れるが、この【インフォームド・コンセント】という言葉や行為が、投薬や手術を受ける患者に留まらず、医療業界にも留まらず、実は広く社会(人々の暮らしや仕事)に存在・機能していて、これを欠いたり不全の状態に陥った場合に不信を生み、結果的に摩擦やトラブル、場合によっては離反や無関心に発展しているのだと考えている。
もちろん、命を賭すシリアスな環境においても【努力義務】の範囲を越えないこの【説明と同意】の行為が、社会のあらゆる営みにおいて【義務】のように取り扱われるのを想像してみればさぞ堅苦しいことだろう。
しかしこれは間違いなく、時に無意識にそこはかとなく存在している行為なのである。
もし堅苦しいのであれば、これを【義務】ではなく【義理】として皆に捉えてもらいたい。
【義理】とは、物事の正しい筋道や人として守るべき正しい道のことである。
健全な社会共同生活の形成維持に資するために私法があり、私法には【信義誠実の原則】がある。そこでは相互に相手方の信頼を裏切らないよう行動することが求められている。
【義務】ではないからそれを行う必要はないと、もし打算でものを判断するのであれば、話は戻るようだが、かの担当医との信頼関係はあり得なかったであろう。
【義理】を辿れば【人を大切に思う心】に行きつく。
自身の思いや考えを誠実かつ十分に伝え、相手の同意が得られるよう努力する行為を義理として捉え、これを皆が大切にして生きている限り、これからも私やあなた、皆との信頼関係が揺らぐことは決してないであろう。
◆プロフィール
佐々木 優(ささき まさる)