悔恨ーまたは私が重度訪問介護、

医療的ケアを実践する会社に参加するわけ Part 1

/古本 聡

 

「悔恨」という言葉を知っていますか。普段あまり耳にすることのない言葉ですよね。これは「後悔」や「残念」とほぼ同じ意味を持つ言葉ですが、それらよりも更に、過去の自分の行動や言動を深く反省をしているときに使われます。
「自責の念」という意味合いに重きを置き、「悔恨の念を抱く」、「悔恨の情に駆られる」という風に使われ、また、悔恨を無くすことを「悔恨の念を超える」という使い方が正しいそうです。
一方で、この言葉の2つ目の漢字、「恨む」を見るたび私は、一体全体、悔やんだ上に何を恨めばよいのだろうか、と思う時があります。過去に何かをしなかったか、またはし足りなかった自分を、でしょうか、それとも他人を、でしょうか、はたまたその時の状況、社会を、なのでしょうか・・・。
ともあれ、長い人生の中で人は誰しもこの「悔恨」の念を抱くことがあるでしょう。それも一回だけではないはず。私が今日ここに書くのは、これまで私の心の内で生じた悔恨の念の中で、最も強いものと言えるでしょう。何せ、今から働けなくなる年齢に達するまでの年月を、それを「超える」ために使おうとしているのですから。
今から40年余り前、私は大学に通いながら、当時活発化していた障害者解放運動をリードしていた団体に参加して、当面の課題だった障害者の脱施設化と地域での自立生活確立・進展活動のアシストをしていました。
やっていたことの内容は、こうして文字にすると至ってシンプル ━ 自立生活を望む障害者(主に脳性麻痺者)に対し、該当地域でボランティア介助者になってくれる学生さんや、近所に住む善意溢れるおじちゃん・おばちゃんたちに集まってもらい、基本的な介助方法を説明した上でシフトを組んでアテンドしてもらう。
しかしもって実際は、これが人間関係を良好に保って当事者の生活を安定させていく上で「超」が付くほど大変な作業でした。
施設を出て自立生活がしたいといっても、それを望む障害者の殆どが普通の暮らしの初心者。他人に何をしてもらえばいいのか、どういう風に頼めばいいのかさえ、頭の中で整理できていなかったのです。
それまでは、たとえ非人間的な扱われ方ではあったとしても、黙っていても一通りのことはやってもらえていたのですから、他者に対する働きかけ方がわからない、というのも無理もない話だったのです。
同じ障害者である私が言うのも妙な話なのですが、個人的には、そんな障害当事者たちを見て、大いに甘えの気持ちがあるのでは、と思っていました。その一方で、ボランティア介助者さんたちも、報酬と呼べるほどのものなどあるわけもなく、彼らの原動力は善意と私たちの主張や運動への賛同だけでしたので、思いっきり異種な世界にぶち当たって驚愕し、モチベーションが一気に下落してしまうのでした。
もちろん、全部が全部そんなケースばかりでありませんでしたが、私にとっても苦しく辛かったあの時期は、異なった世界観、価値観を持った人たちが互いに結びつき信頼し合えるようになるのに、いかに密で濃いコミュニケーションが重要かを分かるための大切な経験を与えてくれたのだと今は思っています。
さて、そんな障害者自立生活運動のアシスト活動の中に、脱施設・自立生活を希望する方たちとお会いして、実際にどのような生活介助を必要とされているのかについて予め聞き取りをするという仕事も含まれていました。
尤も、私にそういう仕事が回ってきたのは、5~6年間で3度か4度だったと記憶していますが、そんな少ない回数であっても、実に多様なキャラクターを持った方たちにお会いできる貴重な機会でした。
あれは確か、すでに気温がやや高目になった初夏の日のことでした。私は障害者団体の方からの、自立生活希望者の男性2人から話を聞いてくるようにとの指示を受けて、東京の北多摩地区F市にあった療育施設を訪れました。
学校のある新宿区から当時でも車で1時間半かけて目的地に辿り着き、車を施設の駐車場に置き、受付で用件を伝えて当事者の方たちを呼び出してもらいました。高めの気温と運転の緊張が解けてホッとしたと同時に、気が抜けたようになってしまい、10分ほど施設玄関近くに植わっていた高い大きな木の下で休んでいました。
呼び出してもらった方たちはなかなか出てきませんでした。
一息ついた頃でしょうか、私の斜め後ろに人の気配がしたのでそちらのほうに車いすをターンさせると、いきなり女性の明るい声が聞こえてきました。ホンワカとして色白で、おっとりとしたタイプに見えました。
「〇○○の会の方ですよね、こんにちは!」
目を遣るとそこには、車いすに座った、年の頃は20代前半くらいの男性と、その人の車いすを押す、同年齢くらいの女性がいました。
お二人揃って、指人形のようにペコリと頭を下げられた光景が今でもはっきりと瞼に浮かびます。男性のほうは、当時の私が持っていた障害に関する知識で、あの筋肉が落ちて瘦せた、というよりは「薄く」なってしまった体つきといい、腰から首までをピンと一直線に伸ばした座り方といい、筋ジストロフィーだろうな、しかも結構進行した状態だな、とすぐさま察しがつきました。
また女性のほうは、スカートから下の足には補装具が見えていて、車いすの押し手を握っていた手先部分にも麻痺があるようでした。おそらく、あの人は重目の小児麻痺か軽い脳性麻痺だったのでしょう。発語は、つっかえることもなくはっきりしていました。
さらに、二人を見ていて、女性の男性への接し方、男性に対する顔の近づけ方、優し気な声のかけ方からして、カップルなんだな、とすぐに気付きました。今風の言い方だと「付き合ってる関係性」ということでしょうか。そういう暖かく微笑ましい空気が二人を包んでいたのでした。
「はい、そうです。でも、今日ここに伺ってお会いすることになっているのは、確か、男性お2人のはずなんですが・・・。どこで私のことをお知りに・・・」
と私が言い終わるか終わらないうちに、
「その人たちが話しているのを聞いて、今日いらっしゃることが分かったので、私たちのことも聞いてもらいたくて、午前中からずっとここで待ってたんです」
と女性が答えた。
「はぁ、お話をおうかがいするのは一向に構いませんが、まずは・・・」
と私が言いかけると、女性の口からは、堰を切ったように自分たち二人の生い立ちやら今現在の境遇、ご両親や実家のこと、これからどうしようと考えているのかなどの話が唐突に、しかも次から次へと飛び出してきました。とめどなく、という言葉はまさにああいう状態を形容するのでしょう。
その時の女性の様子、表情は、今でも忘れられません。それまで浮かべていた笑みは顔から消えて強張った無表情、眼は一点を凝視し、まるで急いで紙に書き連ねてやっと暗記できたTo-do-listを、それまでとは全く違ったトーンの大声で、しかも3倍くらいの早口で読み上げているかのようでした。一生懸命を通り越して必死ささえ伝わってきて、一心不乱あるいは鬼気迫ると言ってもいいくらいの様相でした。
私は、「まだお互いに名前も知らないのに…」、と思いながら、呆然とその女性の顔に視線を置いたまましばらく話を聞いていました。いや、聞かざるを得なかったのです。呆気に取られたというよりは、迫力に圧倒されたというのが、私のあの時の心理状態を説明するのには、最も正しい表現だと思います。
「私たち、ここを出て、二人で一緒に暮らしたいんです」
あの女性の話は、こんなフレーズから始まりました。それは、今でもはっきり憶えています。私の耳の奥に残っているのです。
それから女性の話は、脈絡も時系列も判然としないまま、10分余り続いたのですが、その内容は、記憶を辿って記すと、大体次のようなものでした。
「この施設に入って私が5年、彼が6年になります。それぞれ入所している病棟が違いますが、昼間は共同のリクリエーション室で二人とも過ごしています。もともとK市にある都立〇✕養護学校(今の特別支援学校)で同じクラスでした。私が小学3年の時、彼が中1の時に転入したんですが、それまでは二人とも普通校に通っていました。私が中1になった時に彼が同じクラスに入ってきて、それから高等部を卒業するまでずっと一緒でした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
Part 2へつづく
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。