ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」

Part 1/古本 聡

  ━ 近々公開予定の私の自伝的コラム・シリーズ「赤國幼年記」の序章に代えて ━ 『役立たずのお前たちは、手術や痛い治療、リハビリ、それに勿論、勉強も健康な子供の倍、三倍頑張らないと、ワラーム島に送ってしまうぞ! 早産の後遺症として脳性麻痺になった私は、50年以上前のことになるが、父のモスクワ赴任を機に、現地到着後間もなく、モスクワ郊外(中心から50㎞程の距離)にあった身体障害児収容施設に入れられた。

 

6歳の時のことだ。それからの約5年の間、年に1週間程度の帰宅が許されたものの、その施設で家族とは離れて生活した。
 
病院を装ったその施設は革命(ソビエト社会主義政権樹立)前から既に医療施設だったらしいのだが、当時、その名称に「身体障害児」といった言葉が含まれず、ただ単にモスクワ州立子供病院(Московская Областная Детская Больница)またはホヴリノ病院(Ховринская больница)と呼ばれていた。
 
が、その実態は、身体障害児を如何に効率的に更生させるかの医療技術を研究・開発するための「人体実験場」だった。
 
入所していたのは6歳~18歳の男女児。常に300人ほどが収容されていた。
 
学校を付属していて、整形外科・小児科・脳神経科の治療とリハビリ、併せて教育が受けられるようになっていた。
 
モスクワ出身者のみならず、遠くは極東のサハリンや、日本海に面した沿海地方から来た児童もいたが、大半は、親に見放されたか、または生まれた時点で、産科の医師の判断で強制的に親から引き離された子供(出生障害児数を減らすために、旧ソ連ではこのような「子供の引き離し」が、不足していた労働力としての国民を、障害児の生育という大きな負荷から救うという名目で、国策として行われていた)だった。
 
なお、入所児の中で外国人は私一人だけだった。
 
身体障害者のリハビリ技術のレベルは、当時の日本よりもこの施設の方が高かった。
 
それもそのはずで、何せこの施設は、先にも述べたが、国家直営の「実験場」的な性格を強く帯びていたので、新しい薬剤や治療法がどんどん試せる場所でもあったのだ。 そのせいもあって、収容児童の死亡率が平均で月に4~6人、最も多い月で16人と、異常に高かった。

 

(約5年間過ごした病院。今は歴史遺産として博物館になっている。)

 

さて、冒頭の文言だが、これはその病院型障害児施設に入っていた子供たちに、しばしばドクターや他の職員が、やる気を起こさせるために使った𠮟咤のフレーズだ。
 
「𠮟咤」と言えば聞こえはいいが、実際は究極の「脅し文句」であった。
 
一方、私は、ロシア語が大分解るようになっても、この『ワラーム送り』という言葉の意味を長い間理解できなかった。
 
子供心に、「きっと今よりもっと厳しいリハビリをする所で、食べ物ももっと少なくて不味いんだろう」(当時ソ連は深刻な食糧難だったので、収容児童は常に空腹だった)、くらいにしか思っていなかった。
 
この『ワラーム』について、その本当の意味を私がはっきりと知ったのは、退院する直前のことだった。
 
職員の一人が話の流れで詳しく教えてくれたのだ。
 
今から考えれば、あの職員は、外国人である私と私の両親を通じて当時のあの国における障害児・者を取り巻く余りにも過酷な実情について、西側世界に伝えたかったのかもしれない、と大人になってから思い至った。
 
その職員の話をまとめると次のようになる。
 
「ワラームと言うのは、ある湖に浮かぶ島で、戦争前に活動を停止した教会と修道院がボロボロになって建っている。そこに戦争で手足を失ったり、働くことができなくなったりした元兵士たちと、治ることの無い病気にかかっている人たちが集められて、その修道院の廃屋で生活している。
 
現地の農民なんかも居るようだけど、元々働けない人達を集めて放置しているだけなのだから、嫌われている。
 
政府から貰えるものはウォッカと最小限の食料だけ。残りの必要なものは村人に物乞いをしたり、盗んだりしないと生きていけない所だ。
 
戦後間もない頃は、そこに送られるのは主に戦争で傷を負った人たちだったけど、今はあなた達のように別の理由で歩けなくなった人達で、リハビリも勉強もしないで過ごしちゃった人達も送りこまれるようになった。
 
面倒を見てくれる親を失って社会の役にも立てない障害者を収容する場所はワラームだけじゃなく、シベリアやウラル山脈の方にもたくさんある。
 
そこに送られてしまうともう最後、二度とモスクワなんかには帰ってこられない。
 
それどころか、生きることも許されなくなる。
 
そういう所に送られないために、頑張らないといけない。」
 
このワラーム島(Valaam island)は、古都サンクトペテルブルグ市の東側、カレリア共和国にあるラドガ湖北部の島で、今はロシア正教の聖地として国立公園・自然保護区にも指定され、観光地として同じラドガ湖のキジ島と並んで人気スポットとなっている。
(ワラーム島の位置)
 
今、このワラーム島について調べて
 
も、昔の「障害者・不治病者集積場」としての歴史に関しては断片的な情報しか残っていない。
 
憶測だが、この島が観光のドル箱になった今、あえて昔の姿を知られないようにしたのではないかと思われる節がある。
 
(現在のワラーム島。画像の、修復されたニキーツキー寺院は昔、収容棟だった。)

 

 
私が、モスクワ郊外にあったあの施設で幼少期を過ごした1960年代に、実際に障害児がワラーム島に送られていたかについては、資料も証言も見つからないのではっきり分からない。
 
が、少なくとも第二次大戦後から1950年代半ばまでは、主に戦争で障害を負った人たち、そして慢性疾患などを患った人たちが収容されていたのは確かである。
 
だからこそ、ワラームの名前は子供たちにさえ広く知られていて、脅し文句としては絶大な効果があったのだろう。
 
さて、これ以降は、ワラーム島をはじめ、ロシア各地にあった障害者隔離施設ができていった歴史的経緯について書いていこうと思う。
 
その大きな要因として、あの国が頻繁に関わってきた「戦争」というものがあるので、先ずは第二次世界大戦から始めよう。
 
第二次世界大戦で旧ソ連は大量の戦死者(2500万人)を出したが、傷痍軍人の数は、当然の結果として、それを大きく上回った。
 
また軍人以外の市民にも空襲、包囲戦、食糧不足、産業事故などで負傷し働けなくなった者が多かった。
 
戦時下、将兵の戦意と士気を高める為に、勲章と褒賞を乱発し、その上大都市に住まう権利を約束したので、戦後、当然のことモスクワ、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)など大都市は、傷ついた帰還兵で溢れ返った。
 
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。