朝ドラでドキッとしたこと/田中 恵美子

皆さん、こんにちは。田中恵美子です。
先週の朝ドラは、古山裕一の妻、音と娘の華にクローズアップした内容でした。観ていない人には「何のこと?」と思われてしまうかもしれませんね。簡単に紹介すると、音はかつて初めてのミュージカルでの主役に抜擢されたとき、娘の華を妊娠し、結果として舞台を降板しました。いつか娘が大きくなったら、歌手になる夢にもう一度チャレンジしたい。
そして大きな舞台で夫裕一が作曲した歌を音が歌うというのが、古山夫婦の夢になりました。今週は音が娘も成長したところで、ミュージカルのオーディションに再挑戦するのですが、その中で、私は華の言葉が胸に刺さったんです。
「私が生まれたことでお母さんの人生を狂わせちゃったと思うから、一生懸命頑張って手伝っているのに」。確かこんなセリフだったと思います。自分がお腹に宿ったことで、母親が歌手を諦めたと知ったら…どんなに重い気持ちで華は生きてきたのだろう。そう思うと心が苦しくなりました。
私は小さいころ、母の人生は私(たち・姉がいるので…)がいることで、自分の思い通りにならなかったのだと思っていました。だから華の言葉にドキッとして、あの頃の気持ちが蘇ってきたのでした。
特別な家庭ではなかったと思うし、その当時のどこにでもあるような普通の家庭だったと思います。昭和の、飲んだくれの父と家庭を必死に支える母。毎晩酔っぱらって帰ってくる父と、文句を言う母の、怒鳴り合う喧嘩が聞こえる中、布団をかぶって寝たふりをしていた。
そんな生活でも母が離婚しなかったのは、私たちがいたから。でもよく考えると、離婚はあの頃まだ稀で、多くの女性が文句を言いながらも夫と別れる選択をしなかった。それは女性が働いて生活していくのはとても難しい時代だったから。
一方で私は、音の人生にも共感するところがありました。音は妊娠を知ったとき、喜びと共に不安を抱えました。舞台の共演者たちに、「妊娠しても舞台は続けます」といったけれど、つわりで稽古に出られない日々が続き、結局舞台を降板することを決めました。その時の場面もとてもつらかった。産む性であること、女性であることを変えることはできない。
私の時代でも、25歳までに結婚して(売れ残りのクリスマスケーキといわれる前に)、結婚退職か、あるいは子どもができたら仕事を辞めるという選択肢が当たり前でした。男女雇用機会均等法が施行されて間もないころ、まだまだ性や年齢に生き方が縛られる時代でした。
前回の話に戻りますが、障害のある人たちが旅の終わりに語った、日本で感じていた生きづらさは、確かに障害特有ではあったけれど、私が感じていた生きづらさとどこか似ていました。新しいけれど、決して知らない世界ではなかった。そのことも障害のある人たちの世界に私が引き込まれた理由の一つなのだと思います。
“この生きづらさはやっぱり理不尽で、変えられないこともあるけれど、変えられることもあるんじゃないか。それはいったい何なのだろう。どうやったら変えられるのだろうか…”
田中 恵美子(たなか えみこ)プロフィール
1968年生まれ。学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。