ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」 Part 2

/古本 聡

 

━ 近々公開予定の私の自伝的コラム・シリーズ「赤國幼年記」の序章に代えて ━
働けなくなった人々が糧を得る方法と言えば、日本でも戦後見られたようなアコーデオンやハーモニカを吹きながら駄賃を稼ぐ物乞いと、窃盗、強盗や恐喝といった犯罪に手を染めることだった。
このような状態では、戦勝国としてのメンツが立たない。
また復興のモチベーションが下がってしまう、それに都市の景観が壊される、と考えた当時のスターリン独裁政権は、帝政ロシアの時代からしばしば用いられてきた方策を再度適用することでこの状況の解決に乗り出した。

 

その方策とは、目障りで役に立たない人々の強制収容だったのだが、スターリン政権がお得意としていた、何らかの罪を被せた上での収容所送致もそこに加わった。そうして、障害者収容施設があちらこちらに現れ、その代表格がワラームとなった。

 

少し話がそれるが、400年位前までロシア語には「障害者」をダイレクトに意味する単語はなかった。今も広く使われているインバリッド(Invalid=役に立たないもの)という言葉が現れたのは18世紀初頭のことなのだ。

 

そして、傷痍軍人の強制収容と辺境地での隔離と言う対策が取られ始めたのもまさにその時代なのだ。

 

1700年から1721年までの長きにわたってピョートル大帝(1671~1725)のロシア帝国はスウェーデン、フィンランド、ラトビア、オスマン帝国を相手に大北方戦争を繰り広げた。インバリッドと言う言葉は、その時に出た大量の「軍事的に役に立たなくなった」傷病兵を指す名称としてフランス語から輸入されたのだ。

 

ピョートル大帝は当初、西欧諸国に倣って帰還将兵に恩給や住居を与え、功労をねぎらう政策を採った。が、すぐに財政が逼迫し、その規模を徐々に縮小していった。ピョートル大帝体制の末期からエカテリーナⅡ世(1729~1796)の時代になると、傷痍軍人への対応はロシア正教会に委ねられた。

 

そして傷痍軍人を、シベリアや内陸部の辺境地に数百人単位のグループで分散させて住まわせ、彼らに対する支援金は、各地区管轄の教会に渡すと言う形式を採った。

 

これは、当時から行なわれていた刑罰の一形態である「シベリア流刑」と全く同じだった。つまり、役立たずや犯罪者を都市部からできるだけ遠く離れた地に連れて行き遺棄・放置する。そうして、自力では絶対に帰れないようにしておいて、流刑者が死に絶えるのを待つのである。

 

またその際、西欧に追いつこうと躍起になっていたロシアの貴族階級が闊歩する都市部に居た、傷痍軍人以外の病人や障害者も都市にふさわしくない、美しく荘厳な聖新都サンクトペテルブルグの景観を汚す、として同様に辺境地に追いやられることになった。
話を第二次大戦終結後に戻すと、スターリン政権は、対独戦勝利後、ただちに、ピョートル大帝の時代と同じように傷痍軍人、くる病患者、肺結核患者、身体障害者、知的障害者、精神障害者をひとまとめにしてソ連各地の辺境に連れて行き、自主共同体の形成を建前にしながら事実上放置した。

 

その際、一般市民には、「病人や障害者は、社会主義の理念に基づいて十分な経済支援、手厚い治療、看護を受けられる」、との偽りのプロパガンダが流された。こうした障害者対策はそれまでも幾度も採られてきたので、都市部に住める障害者はエリート層、富裕層、または権力に近い者たちの家族かその当事者のみとなっていった。また、障害者=街中には居てはならないもの、という認識の浸透が促進してしまったのだ。

 

更に、この実に残酷なロシア伝統の障害者対策によって、人々は家族内に障害者・病人が居てもそれを決して表に出さないようになったのではないか、とロシアの社会学者は分析している。

 

このように、戦争というものは、国家による優生主義の広がりと浸透、そして促進の切っ掛けになり得ることがはっきり分かる。

 

勿論、西欧諸国、日本、アメリカ、どの国でも障害者対策と言うのは、歴史を見れば似たり寄ったりのケースが多いのは確かだ。現代世界の中で、福祉やバリアフリーが進んでいる国とそうでない国があるのは、勿論これらに着手した時期が早いか遅いかの違いが大きく影響しているとは思う。

 

が、その他に挙げられる要因としては、第二次大戦あるいはそれ以降の比較的小規模な戦争の後に当事国が、あるいは過去に極端で野蛮な優生保護主義的傾向にあった当事国が目を覚ました時に、思想・信条的および政治的に反省をしたかどうか、それまでのやり方に自ら誤りを見出したかどうか、が挙げられるのでは、と思う。

 

ロシア語にはよく使われる古い言い回しで「Что было, то прошло.」というのがある。「済んだことは、もう過去のこと」(過去をウジウジ悔むな)と言う意味だ。

 

日常の何気ない会話の中でこの言い回しが発せられても、ロシア的で大らか、心が広い、くらいにしか感じないが、この記事のような話題の時に使われると、非常に哀しい気持ちになり、腹が立ち、言葉を失う。思考の平坦さに憐れみさえ覚える。

 

最後に、1945年から1984年まで傷病兵と身体障害者、精神障害者、ハンセン病患者の収容・隔離場所となっていたワラーム島の画像を1枚だけ、所有者の許可を得た上でここに掲載しておこうと思う。

 

1960年代のワラーム島。左側の男性は両足を失い
小さな車輪をつけた板に身体をくくりつけている。)
ロシアにある慈善団体「Miloserdie(慈悲の心)」が運営しているサイト(https://www.miloserdie.ru/article/invalidy-valaama-kogo-na-samom-dele-risoval-avtor-tsikla-avtografy-vojny/)に記述されていることだが、スターリン時代の強制収容時に使われていた用語として、両腕を失くした人を「切り落とし」、両足を失くした人を「トロッコ」、そして両腕両足を失った人を「サモワール」(樽の形をした湯沸かし器)と呼んでいた、とある。

 

これらの言葉は、国の政府レベルから実際の収容作業を行う警察官レベルに至るまで、統一された用語として使われていたそうだ。同サイトにはまた、戦地から帰還してもワラーム島に閉じ込められ一生を終えた傷痍軍人たちの記録スケッチ画が掲載されている。

 

ちなみに、現在ワラーム島で、昔その地に収容所があったことを示すものは高さ20cm程度の慰霊碑2つのみだという。

 

ロシアあるいは旧ソ連について、特にその暗黒の歴史などについて書いたり話したりするとき、私は別段、あの国やそこの人々を陥れよう、卑しめようと意図しているわけではない。ロシア、ロシア人を嫌いではないのだ。私たちの国、日本や日本人を嫌っていないのと同じように。

 

ただ、私の文章を読んでくださっている方たちに想起して欲しいのだ。この日本にも同じように黒い歴史があったこと、そして現在もその負の遺産によって苦しんでいる人が多くいることを。

 

私は、最も多感な時期を過ごしたロシアをいつか再度訪ね、少し長めに逗留したいと思っている。しかし、その時にはもっと車いすやベビーカー、白杖でも動きやすい、また色々な意味で心優しい国、人間的な気持ち溢れる国になっていてもらいたい、と切に願っている。

 

古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。