赤國幼年記 1 ~ 旧ソ連の障害児収容施設で ~ /古本 聡

はじめに
Сою́з неруши́мый респу́блик свобо́дных
Сплоти́ла наве́ки вели́кая Ру́сь.
Да здра́вствует со́зданный во́лей наро́дов,
Еди́ный, могу́чий Сове́тский Сою́з! 

[自由なる諸国の揺るがされざる同盟を
永遠(とわ)に結び付けし偉大なるルーシ
諸人民の意志が創造せし
統一されし、全能なるソヴィエト連邦、万歳!…](本稿筆者訳)
これは旧ソ連国歌の導入部分だ。
「ジャーーーン」という単和音で、窓ガラスがビリビリと振動しそうな程の音量のフルオーケストラによるイントロが鳴り響き、その後に、聴く者の心を否が応でも掻き立てる、数百人規模のコーラスによる高揚感溢れる歌声が続く。そして、地から沸いてくるようなその大合唱は、自分たちの謳っていることに微塵の疑念も抱かず、また祖国は真に世界に類なきほど強大だ、という確信に一点の曇りも感じさせない絶大なパワーを放っているように思えた。
私は、朝6時キッカリにラジオから超大音量で流されるこの歌を、起床の合図として聞く生活を約5年間経験した。その日々を送った場所は旧ソヴィエト連邦(現ロシア)である。
早産の後遺症として脳性麻痺になった私は、50年以上前のことになるが、父のモスクワ赴任を機に、現地到着後間もなく、モスクワ郊外(中心から50~60㎞の距離)にあった身体障害児収容施設に入所することになった。私が6歳の時だった。
・・・・・・
さて、かつてソヴィエト連邦あるいは短くソ連、または赤国ロシアとも呼ばれた、「鉄のカーテン」の向こう側にあったあの国で、幼少期に私が経験した事柄に話を進める前に、今の私、そしてソ連に行くまでのことを少し述べておきたいと思う。
現在の自分は・・・、2019年まで本業はロシア語と英語を使っての翻訳業、2016年にユースタイルラボラトリー(ESL)重度障害訪問介護従事者研修統合課程で障害当事者講師を勤め始めた後、同社正社員を経て、現在は、2020年10月に立ち上がった株式会社土屋「ホームケア土屋」の取締役CCO-最高文化責任者。
障害はアテトーゼ型(不随意運動を伴う)脳性麻痺で、等級は1種1級。二次障害(不随意運動と筋肉の過緊張からくる頚椎症)の症状が出始めて久しいが、年齢からして経年劣化もあり得るし、「まだまだイケるぜ!」と案外暢気に構えている。
外出時は車いすを使用し、家の中では膝立ち歩きで移動。家族は妻と娘が一人。5分歩けばもう埼玉県、という東京の端っこに住んでいる。
次に大昔の話をしよう。
私が大阪府の箕面市で、チアノーゼで全身真紫色、仮死状態で生まれたのは1957年のこと。日本が国連に加盟し、ソ連は人類初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、日本初の東海村原子炉に「原子の火」が灯り、コカ・コーラが日本国内で発売された年だ。
1か月半の保育箱加療後に帰宅するも、高熱とチアノーゼを繰り返し、また仰向けに寝るのを、海老のように背を丸め嫌がる私を見て母は、その原因を突き止めようと何人もの医者を訪ね歩いたようだ。そして、数か月後に行き当たった某国立大付属病院の教授級の医師によりやっと脳性麻痺の診断が下された。
尤も、その時の診断では、私が普通の知的能力、運動能力を持つことは絶望的で、5歳まで生存しないだろう(生存例を見たことがない)、とのことだった。また、当時住んでいた大阪では、効果が期待できる治療を受けられる施設も療育制度もなかったようだ。
ところで、私には5歳を過ぎる頃までの思い出というものが殆どない。自分の娘を見ていると、幼稚園年少頃からの記憶がかなりはっきりした形であるようなのだが、私にはその時期の記憶が断片的にしか残っていないのだ。しかも、その断片でさえ色彩のないモノクロ写真のようなのだ。
学生の頃どこかで得た知識なのだが、人間は年齢にかかわらず、精神的刺激を余り受けない暮らしを送ると、記憶が曖昧になるらしい。当時の私にもこれが当てはまるようだ。おそらくあの頃の私は、あまり精神活動を活発にさせるような生活を送っていなかった、つまり、友達と遊んだり、家族で遊園地や旅行に行ったりすることのない、毎日同じ場所(家の中)で同じことを繰り返すだけの生活パターンだったのではないか、ということだ。
今、実家には当時の様子を伝える写真などの資料が何一つ残っていないし、また父が、みっともないから障害児を外に出すな、という前近代的な考えを口に出してはばからない性格だったこと、さらには母も、1歳半違いの兄の育児もあり、決して身体が丈夫とは言えず、活動的ではなかったことを考え合わせると、私の推測も何となく合点がいく。
5歳の夏に父の転勤に伴って東京に家族で引っ越して、生活がやや変化を持つようになった。週に数回マッサージを受けに出掛けたりして、ほかの同じ年頃の障害児との交流が始まった。また、兄が小学校に上がり、その同級生たちが家に遊びに来始めた。そして私の記憶も、そのころから徐々に多くなっていき、カラー映像として残るようになった。
クリーム色の車体に赤い横一本線の都電、建ったばかりの東京タワーの鮮やかなオレンジ色、灰色にくすんだ東京の街並み、初めて見た銀座通りの、眩いばかりのネオン光、魚屋の店先にぶら下げられていたアンコウのグロテスクな色と姿、駄菓子屋の魅惑的な彩り・・・。
やがて、そんな私の記憶にさらなる色彩と、匂いや味、動き、音声、言葉まで付加されるきっかけになった大きな出来事があった。それは、父の海外赴任に家族で帯同、ソ連(現ロシア)のモスクワに渡ったこと、さらには、現地到着後まもなく、私一人だけが家族と離れて、障害児収容施設にある日突然入所させられたことだ。
よっぽどショックが大きかったのか、はたまた施設生活が波乱万丈だったのか、私の記憶力はその時、一気に覚醒したようだ。その施設で私は以後5年余りを過ごすことになるのだが、初日から毎日の出来事をほぼ全て覚えているようになり、そしてその記憶は50年以上経った今でも、少なくとも月単位で、私の頭の中に鮮明に残っているのだ。
赤國幼年記 2につづく

 

古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。
旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、
障害者自立生活のサポート役としてボランティア、
介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。