安積遊歩の朝からUFO

わたしの大切な仲間たちへ/安積 遊歩

わたしの大切な仲間たちへ/安積 遊歩

ムーンパンツをご存知ですか?ムーンパンツにすると、紙ナプキンの使用が極端に減るわけで、その分環境に優しい点に着目してほしいです。紙ナプキン1枚を作るのに、コンビニのビニール袋4〜6枚を作るエネルギーや資源が使われているという報告もあるし、何より使い捨てにしなければならないわけだから、とんでもなくアンチエコ!その点、ムーンパンツは洗い方さえ間違わなければ、丈夫で長持ち、未来の子供たちにも優しいはず。
ただ、布ナプキンで十分うまくいっているというひとは、それも良いことであると思います。常に何か新しいものを買わなければならないということではなく、よれよれのTシャツを切って布ナプキンを作ったり、肌触りのいい布でそれを楽しむのも素敵ですよね。
また、自分の身体と対話し続けると、月経血をコントロールすることもできるようになるそうです。つまり、生理を排尿と同じような感覚で行えるようになるということ。その情報へのアクセスは、月経血コントロールで検索してください。
生理の時のさまざまな葛藤をどう乗り越えていくかを、一人一人がいろんな選択をためしてみるなかの一つとして、ぜひムーンパンツもよろしくです。(https://www.moonpants.jp/)
ムーンパンツはお店やネットでも買えるのですが、わたしに注文してもらえれば1枚につき1000円前後、FGM(女性性器切除)の廃絶を求める女たちの会やDPI女性障害者ネットワークの会に寄付できます。どうぞ生理の日々を快適に過ごしながら、世界の様々な女性たちへの差別を止める賢いコンシュマーライフにご参加ください。
わたし自身は、環境や食べ物に注意深くいるけれど、それは何より今の若い人たちと未来の子供たちになるべく今のままの美しい地球を残し、全ての命が生き生きと生きられる世界を作りたいから。とはいっても、わたしが生まれた昭和から見れば、すでに多くの命が絶滅し、優生思想の台頭もコロナ禍で少しづつ深くなっています。そして、あまりに残念なことに、日本の政治や教育は未来を担う若者の育ちや命を大事にしていません。
そんな中でわたしは命の始まりである生理のことを話す中で、皆さんに繋がっていきたいと願ってやみません。ムーンパンツを選択することはあまりに小さな一歩に思えるけど、それでも確実な一歩であると思います。ぜひ、皆さんのご家族、お友達にも紹介していただけますよう、心からお願いいたします。

 

安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた

私の身長/安積 遊歩

私の身長/安積 遊歩

この世界はどんどん子供が自分の好奇心や冒険心を想いのままに発揮して生きることを許さなくなっている。許さないどころか、子供のままの、私ぐらいの身長で生きることは障害と呼ばれ、良くないこととされ、少しでも背が高くなるように、大きくなるようにと云う眼差しに晒され続ける。
私の身長は、小学校4年生の頃の記憶では113センチ位。そのあとは殆ど記憶に無いが、娘を産んだ時に109センチと言われたから、身長が縮んでしまったことになる。私は敢然と優生思想に対峙して生きている。
優生思想とは何かと考えた時に、それぞれの今の体の状態のままでは「いけない」とする考え方、つまり、常に自分ではない何者かを目指さなければならない。だから障害を持って生まれると、その障害が徹底的に良くないものとされ、医療の介入を受ける。ところが大方の子供たちはそれぞれの今を体現しつつも、成長という変化の中で身長が伸びていく。その中で自分が子供時代に感じていた不合理や命の対等性や悲しみをどんどん忘却するよう仕向けられる。それどころか周りの大人たちから比較や競争などの生き辛い価値を大量に注入させられていく。
私はお陰様で子供と同じような身長で世界を見てきた。だからこの優生思想をはじめとする私たちの体を「そのままであってはならない」とする社会の有り様にホトホト碧碧してきた。全ての人は子供で生まれるが、子供の時の生きるパワーの強さでその過酷な時代をなんとか生き抜く。だが大人になった頃には子供時代に徹底的に「子供であることは良くない」という理不尽さに囲まれて育ったので、その疲労感・無力感に支配され、大人である自分も中々受け入れられない。
子供という言葉にさえ既に子供を尊重するという概念の欠如がある。子供みたいな、子供のくせに、子供なんだから、子供っぽい、などなどその言葉には一人前の人格ではないという差別心が全て張り付いている。その上、その子が障害を持っていると更に手がかかり、社会に有用な大人になるにはとんでもない特別な助けが必要と思われる。子供たちを囲い込む学校の名前がそれを象徴している。障害を持つ子だけを特別に集めて特別支援学級と呼んでいる。特別な場所で、特別な助けの中で過ごすことになったら、行き着く所、その特別なものが無ければ生きられなくなるということだ。だから、子供でなくなった障害を持った大人たちの多くは特別な場所、施設や病院に追い込まれる。あるいは「社会参加」を実現したとしても最賃法からも排除されての「労働者」だったりする。
私は十代の頃に自分の将来は施設しかないのかと、滅茶苦茶苦しんだ。養護学校の先輩たちは(当時、特別支援学校をそう呼んだ)、障害が重いとみなされた人は施設へ、障害が重くても最下層の労働者として役に立ちそうな者は何らかの技術を身につけて過酷な労働をしていた。障害を持って生きるということは、この社会から徹底的に排除されて生きるということなのだと、骨折を繰り返す低身長の私が見た世界はその2つだけだった。だからそうならないための選択に何があるのかを私は徹底的に探した。行き着いた先に「青い芝の会」があった。
彼らは「この体で何が悪い」と叫んでいた。その体を路上に晒して、皆んなに見てみろと開き直っていた。どんなに障害が重くても母親たちに、子供を殺すなと叫びまくっていた。
後から良く見れば叫びまくった脳性麻痺者の殆どは男性で、女性は一般の健常者社会と同じく男性の脳性麻痺者の後ろに隠れざるをえなかったようだ。つまり男性の脳性麻痺者に育児や家事を、障害者差別よりも大きいジェンダーゆえに全く期待できなかったために。ただ当時の私にはまだジェンダーの違いがそれほど顕在化していなかったので、その開き直りの思想はそれだけでも新鮮だった。しかしその後、脳性麻痺者の1人とパートナーシップを組んで一緒に暮らすことになった。彼は子供を欲しがったが、私は日々の暮らしの中で介助されることに、あまりにも興味のない彼との違いを感じ続けていたから、彼との子供はあり得ないと思い決めていた。私のこの骨の脆い体、その上低身長の体でいわゆる子育ては全くできると思えなかったのだ。
この世の中の様々な差別の酷さは娘を迎えるまでにその後20年以上の戦いの日々が必要だった。介助料制度を作り、大きな家を借り、20代の人たちと共同生活をする中で大勢の人々に囲まれて、娘は自分の体を嫌悪するのではなく、大切にすることをよくよく学んでくれた。
障害を持つ女性がこの社会で子育てをするには、ジェンダーと障害者差別、そして自分の体ではあってはならないという圧倒的な子供への差別、眼差しに賢明で懸命なチャレンジが必要だ。

 

安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた

長生き/安積 遊歩

長生き/安積 遊歩

人間は長く生きたいと医療を発展させてきた。ところがその医療が命の価値をジャッジし、長生きを願うことは人の迷惑になることなのだと思う人々の群れを作り出しつつある。お年寄りたちである。
医療の発展は戦争の中で作られたと言える。ナイチンゲールが登場し、敵味方を超え傷ついた命を助けることが医療の原点になった。しかし傷ついた命を回復させる目的は戦争の継続だったわけで、戦争に使えない身体は医療から、助けてもらえない時代もあった。
しかし、一般的には戦時下以外では医療はお金持ちのものでしかなかった。(ヨーロッパに魔女と言われた人々がいたが、彼らは民間で薬草や様々な施術に長けた人たちだった。彼女らの存在によって医療の発展が妨害されると考えた人たちによって、彼女らは魔女と言われ、死にも追い詰められたらしい。)特に西洋近代医学は、お金のない人には情報さえも与えない。私は以前フィリピンの貧しい家庭の子供達を支援するグループを主宰していたが、驚くべきことに貧しい人々にとっての病気は死への一本道だった。
その中でも特に、先天的に人と違った体を持って生まれた私には、医療は命を助けるどころか、日々の平和や安らぎを剥奪するものであった。貧しい家庭で育った母は私の長生きを激しく望んだにもかかわらず、彼らが幼い私にしてきたことは残酷を極めた。それでも母は直感と愛情、そして涙と笑いによって私を守ってくれたが。
私は医療が障害を持つ人の長生きを望んでないことを幼い頃に強烈に自覚したので医療からなるべく遠ざかっていようと考えてきた。同じ身体の個性を持つ娘は15回の骨折を繰り返した。しかし、ギプスも手術も一度もさせたことがなく、通院さえも片手に余るほどだ。
ところで冒頭に書いたお年寄りたちにも昨今の医療はどんどん厳しいものになりつつある。だからこそ「長生き=迷惑をかけたくないから望まない」という方程式になっていく。
経済至上主義の中では生産性こそが最も大きな価値だから、「お年寄りや障がいを持つひとを長生きさせるのはいかがなものか」というわけだ。戦後75年が経って、そのどん底の暮らしから這い上がり生き延びて周りを見渡せば, 命に価値付けがきっちりとなされ、医療もまたそのシステムに完璧なまでに組み込まれつつある。それ以上に医療こそがそのシステムの総本山とさえ言えるかもしれない。
オランダでは75歳以上のお年寄りになれば安楽死を選択できる権利があると聞いた。選択できると言うと聞こえはいいが、動けなくなったら死んでくださいと言う風に言われているとも言える。75歳というのは日本でも後期高齢者と言われ、今はまだ働いている人も多い。
驚くべきことに、生きるためには食べ物があることが原点であるにも関わらず、その作物を育てる農業のメインの労働人口は70歳以上とも言われている。農業、繰り返すが、生きるための食べ物づくりをお年寄りたちに頼りながら、ちょっとでも動けなくなったら、今度は安楽死の選択を考えさせていく世界。
父の祖父母は戦争の中で早く亡くなった。私は2人の顔を知らない。母方の祖父母は私が障害を持って生まれたことになんら臆することはなかった。それどころか「この子は早く死ぬ」と医療に予言されたことに抗ってか、あるいはそれを信じてか、とにかく私をどこにでも連れて歩くよう、母を励ましてくれた。2人とも72と77歳まで生きたが、彼らにはもっともっと長生きして欲しかった。彼らの臨終を看取った母をはじめとする叔父叔母たちが共有したその願いが、私にはとても自然で心地よく思えたものだった。
私は毎朝布団の脇に立てかけてある鏡で顔を見ている。人から私の顔がどう見られるかについては興味はないが、自分の体のゆっくりで時に急激な変化、その顔への表れには関心が尽きない。特に顔のシワには、元々なかったものが一本二本と増えていくので興味深い。20代の頃にはネイティブ・アメリカンのシワがいっぱい入った知恵深い、長老と言われたお年寄りの顔が好きだった。だからできたら私も長生きをして、あんな顔になりたいものだと思っていた。
それが現実として最近は鏡の前に現れてきつつある。
鏡の中の私が、鏡を見ている私にささやく。「お母ちゃんの強烈な願いだった長生きを叶えつつあるね。どんなに私に長生きしてほしいと望んでいた母だったか。あなたの娘は、その願いを叶えて長生きしつつあるよ、大成功だよと伝えていいよ」と。
安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた

平和を求めて

平和を求めて/安積 遊歩

平和は福祉の具体化、そして日常化。私は平和学会のメンバーだ。平和学会は全国で多数の会員、地区ごとに研究会も開催され、その運営を通しても平和とは何かが学べる場であると考 えている。互いの企画を尊重しお互いにサポートし合って様々なそれぞれの平和についての研 究を深める場。その取り組みがある場所である。
障害を持っていると、障害学会とか、社会福祉学会とか福祉関係の学会に入った方がいいのか なと思った時期もあったが、私が心から一番欲しいと思っているのはまず平和だった。だか ら、5年前から平和学会に入り、最近、障害学会に入った。
ところで学会というのは研究者や大学の教員などの集まりで、自分には関係ないと思っている 人が多いかもしれない。私も、学問としての平和を追求するより、実践的に平和が欲しいと障 害を持つ立場から、様々な活動をしてきた。懸命に活動をしているときには、平和学会という のがあると知っていても、そこのメンバーになりたいとはあまり思っていなかった。
しかし、自分の身体が人々の感性に平和でない存在と見えていると知れば知るほど、平和を求 めそれに恋焦がれてきた。そして、障害者福祉とか子供の福祉とか女性の福祉とか、分類して 研究していったとしても、そこに平和というキーワードがなければ本当の福祉はないと思うよ うになった。十代の早い時期の頃に読んだトルストイの『戦争と平和』という本や、様々な戦 争の記録本を読んで、平和は戦争がなければ平和なのだと狭い狭い枠に呪縛されていると思う に至った。
特に2011年に私の大事なふるさとで、原発が爆発してからは戦争がなければ平和なのだという まやかしがいっぺんに吹っ飛んだ。そして2016年やまゆり園事件が起きたときには、施設の暮 らしに平和は無かったのだということをはっきりと思い出した。私は子供時代、2年半施設にい たが、11歳ぐらいであったにもかかわらず、施設の天井裏にはガスパイプが通っていて、何か あったら私たちは簡単に殺されるのだと空想していた。施設を出てからは高校進学の希望も障 害ゆえに絶たれ、もちろん大学は諦め、障害を持つ者にとって幸せとか平和は無いのだなと思いながら障害を持つ人の解放運動に邁進した。
2014年に原発避難の日々を過ごしたニュージーランドから日本に戻ってからは、いよいよ平和 を考えた。凄まじい環境破壊をしてきた人間たち、特に大人たちは、未来に向けて戦争を仕掛 けているのだ。もう少し丁寧に言えば、大人たちは言葉の無い生命たちに対して、あるいは言 葉を持っていても徹底的に支配関係にある生命たちから平和を奪いまくっている。その気付き が原動力になって、私の身体になんらかの違和感を感じている人々の中に飛び込むことにした。
平和学会のメンバーになるには2人の推薦人が必要と聞いて、友人である北大の教員の2人に頼 んだ。私にとって平和とはどんな世界、どんな場で生きていようとも、穏やかで安全な日常が 必要であることを感じ、それを共有すること。そのためには互いに耳を傾け合い、対話をし続 けることを諦めないこと。わたしはまだまだ平和学会では新しい会員ではあるが、平和は人々 の日常に中にこそ気付き、築かれるべきものであることをを伝えたい。平和を生きることの素 晴らしさ、大切さ。私たちの人間関係が様々な場での良きロールモデルになれるよう、ベスト を尽くしていこう。
安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた

お母さんのこと

お母さんのこと

今日のUFOは横浜に飛ぶ。横浜に飛んで、何を皆んなに知らせたいかというと、「人は関係性の中でいくらでも変わり得る」ということ。
差別に普遍性はないこと。どんなに非人間的な思考の中に居ようとも、そこから出ようという決断さえあれば変わってゆくということを書いてみたい。
横浜には、私に「お母さんと呼んでいいのよ」と言ってくれた人が住んでいる。始めは、いや時々は今も少し抵抗を感じる時もあるが、呼んでいいと言ってくれたのにそれを拒絶するというのも勿体ないかと思い、ずっと「お母さん」と呼ばせてもらっている。彼女と私は年齢で言えば、たった7歳しか違わないのにも関わらず、だ。
孫が生まれるとわかった時、彼女は障害を持つ私と、孫もまた障害を持つかもしれないという可能性に大きな不安を感じ、出産には賛成できないと言いに来た。そして自分の子育てがどんなに大変だったか、子育てが一段落した後にも舅姑の介護が続き、それはそれは大変だった、と話してくれた。
それを言われた私は彼女から見ると、非常に怯え、震えていたらしい。しかし、私としては彼女に分かってもらおうと、「政治家になってでも介助制度を充実させる」とか、「一度私の家を見に来て欲しい。若い友人達と賢く助け合っているから」と、伝えまくった。
彼女は、その頃から既に、近所の障害を持つ人たちのボランティアもしていた。だから私の話に興味を持ってくれたらしく、出産までの間、2、3回は訪ねてくれた。出産の日には私が帝王切開のために手術室に行く瞬間に駆けつけてくれた。
出産のその日、私はNHKの取材陣に囲まれていたので、駆けつけてくれたお母さんはNHKに頼まれてのことか、と一瞬思ってしまった。そのくらいドンピシャリのタイミングで駆けつけてくれた。
娘が生まれた後のビデオに写っている彼女の優しい笑みが、私の脳裏に焼き付いて離れない。
その後、私たちは彼女の家に2ヶ月に1度、時にはもっと行って、1泊か2泊の滞在をさせてもらった。最初は受け容れ難い様子だったお父さんも、娘が生まれてから4、5ヶ月後、会いに来てくれた。そしてお父さんとお母さん2人だけで娘を動物園に連れて行ってくれたこともあった。
彼らとはその後、一緒に軽井沢で夏や冬のホリデーを過ごしたりもした。特にお母さんと私たち家族の4人だけで沖縄に行ったことも、とても良い思い出だ。
お母さんは多彩な人で、自分が若い頃に着ていた着物を仕立て直してくれたり、きちんとしたお節料理を振る舞ってくれたり、絵も描けば、横浜という大都会の家の中で味噌作りもしていた。
そして最近驚いたのは、娘の足に合う靴を作ってくれたこと。カルチャーセンターで靴づくりの講座があることを発見して、「やってみようかしら」と言っていると聞いた半年後には、1足目の靴をニュージーランドに居る娘に送ってくれた。
彼女を見ていると「差別観」というのは、限界なく超えられ、無くなっていくものだと思う。「私は宇宙ちゃんのことを要らない、と言ってしまったから、彼女に嫌われているかもしれない」と悩み、私に謝罪の手紙を送ってもくれた。
また祖母として、私や自分の息子をファーストネームで呼ぶ孫娘を見かねたことがあった。思わず私を「お母さんと呼びなさい」とか、「お父さんはパパでしょ」とか、娘に伝えたらしい。まだ小学校に入ったか入らなかったかの頃だったと思うが、娘は「ばぁばは、婆ばしなくてもいいんだよ」と言った。
その後の彼女の行動がまた素晴らしかった。葉書4枚を使って彼女の顔を4分の1づつ描き、毎日一枚ずつ投函してくれた。そして、4枚が合わさったところに“ばぁばは、婆ばしていてごめんなさい。それを教えてくれて、ありがとう”と書いてあった。
1人1人が役割だけで繋がるのではなく、お互いにかけがえのない人間として繋がり得ることの大切さ、豊かさを、小さい孫娘に教えられたことを感謝と共に表現できる人。
彼女の優しさ、知性の豊かさ、柔軟性、新しいことへのチャレンジ精神と創造力。
それをいっぱい受けながら暮らしているニュージーランドに居る娘。
彼女たちの幸せな関係が心から嬉しく、限りなく感謝している。
この原稿は、あくまで私の主観であって、お母さんの記憶とは違っているところが多々ある。そのことについてはまたいつか、ゆっくりお母さんの話を聞き書いてみたいと思っている。ただ今回は、お母さんに対する敬愛を心から伝えたくて書かせていただいた。記憶違いを寛容に許してくださってありがとう、お母さん。
安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
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見守りとは何か /安積 遊歩

見守りとは何か /安積 遊歩

 

重度訪問介護制度の素晴らしい点は、長時間介護の実現と‘見守り’を介助ということで認めさせ た点だ。 身体介助や家事援助、移動支援など、ぶつ切りの介助項目を長時間介助にすれば、そ れを繋ぐためにも「見守り」という項目が必然となる。
ところが、この優生思想に満ち満ちた社会は見守りの重要性に気付かない。気付いたとして も、中々それが命を守るために最重要の介助項目であるとは思えないらしい。だから今日は見 守りのスーパーワンダフルな点を書いてみたいと思う。
まず、「見守り」という言葉で思い浮かぶのは、安らかに眠っている赤ちゃんか、臨終間近な お年寄りというイメージではないだろうか。「見守り」と聞くと、生まれて間もない頃と死に ゆく頃の穏やかな眠りを見守る、というイメージが立ち現れてくる。命を満喫して、そこに穏 やかに寛いでいる人の平和を、全き安らかさの中に共有すること…。
祖母が亡くなった時、私は14歳くらいだった。しっかり者と言われた祖母が死の恐怖に直面し て、周り中の人に文句や愚痴を言いまくった。私には、それもまた人間的に思えて、ある種感 動しながら聞いていた。6人の子供たちとその配偶者たちを次々に呼びつけて、握ってくれる手 が冷たすぎるだの、硬すぎるだのと文句を言っているのは、私には可笑しくも可愛く見えた。6 人兄弟の次女である私の母が辛そうに涙を拭っている姿は、可哀想ではあったが、そんな中で も祖母がお喋りに疲れ、大人しくなり、昼寝をするのを見守るのが1番好きだった。
また私が娘を産んだ時も、安らかな寝息を聞きながら見守っている時間が最高に幸せだった。
何をするわけでもなく、ただただ側にいて、見守り続けること。
それは彼女が昼寝をしなくなって、遊んだり、本を読んだり、時にはテレビを見ている時でさ
え側にいて彼女を見守るのは、至福の時間だった。
そんなふうに思っていた所に、知的障害を持つ人の介助をしていた人から同じような話を聞いた。
知的障害を持つと言われる多くの人々は、体の動きはある程度自由な人が多い。だから具体的 な介助より、とにかく側にいて見ているよ、見守っているよ、という姿勢そのものが介助であ る。そういったサインを送り続け、コミニケーションを取ることが最も大事なのだと言う。彼 らが何かを夢中でしているのを見ながら、感じながら、例えば食事を作ったり、お掃除をした りする。それをしながらも時々はきちんと注目していくこと。それをしないでいると彼らは、 ちゃんと抗議してくれるという。
40年以上前、私も在宅に暮らしていた重い知的障害の仲間たちを週に2、3回は訪ねていた時期 があった。農家の薄暗い部屋にポツンと置かれていた仲間の1人を訪ねた時のこと。私が行くと ても嬉しそうにしてくれるのだが、5分10分を過ぎると、興味が無くなったかのように、私が 話しかけてもあまり反応を返してくれなくなる。それで30分が過ぎる頃には、そろそろ帰ろう かと支度を始める。そうすると、じっと見ていてくれさえすれば良いのだと言うように、私の 服を引っ張った。だからまた腰を落ち着ける。それでも何も起こる訳では無い。
今から思うと、あの時に娘を見ていた時のような気持ちで、安らかに穏やかに見守れたらよかったなと思う。
見守りという介助は動きを伴う介助ではなく、静けさに佇み、その静けさ喜び、共有する介助なのだ。
もちろん動きながらそれを楽しんでいる障害を持つ人に危険が及ばないかどうかを注意深く見守るという介助もある。
私は最近、コロナ禍のステイホームで、家の中に居ることに疲れてしまい、子供の遊具の中で 唯一乗りたい、そして乗れるブランコを数分楽しむことにしたのだ。私は骨折しやすい体を持 つから、介助者の殆どははじめは危惧するのだが、私が嬉しそうなのを見ると、安心してくれ る。
小さい頃は妹と2人で、近所の子供公園でよくブランコに乗ったものだ。妹は生まれた時から私 の介助者としての位置を強力に担っていたので、年下でありながらも常に私を見守ってくれて いた。少しでも私が無理をしそうになると、何気なく後ろに立ったり、もう帰ろうと声をかけ てくれた。 自分の楽しみは、私が安全の中で楽しんでいるかどうかを確認し続けることにある、という所 に立っていた妹だ。
だから私は見守られること、見守ることが、本当に好きだ。見守られることが好きというと、 特に男性たちからは驚かれるが、私にとっては人間関係の中で作られる、究極の平和な形、在 り様が、見守り見守られることだと思っている。 それは施設の中にある監視と放置とは対極の関係性で、2人の人間によってもたらされ、成就す るべき平和の在り様だ。
見守る、見守られるという関係性には大抵の場合、逆転も起こる。見守っていたと思う子が、
振り向いて大丈夫かなという様にこちらを見てくれる時、昼寝をしていたと思っていた人が目
をパチっと急に開けて、「あなたも疲れたでしょう、少し休んで」と言ってくれた時。それは逆転というより対等感の共有というような、更なる平和が構築される事態だ。
まだまだ徹底的な男性社会であるこの世界は、「見守りが作る平和」という関係性を、全く評 価してない。見守られることは弱さ、愚かさと同義のように聞こえるらしく、見守られること なく何でも自分でやりなさいということを強要してくる。そしてその強要されて一人で頑張っ た過程をドキュメンタリーにしたり、映画にしたりして観てくれる人を求めている。これは 中々のアイロニーだ。
見守りという言葉にもしネガティブなものを感じるとしたら、そこから徹底的に自由になるために、どうぞ見守るという行為を沢山、自分の日常に取り入れて欲しい。どんな命も見守り、見守られるということの中に、大いなる安らぎを感じることができるのだから。
今私の家の前には、紅葉に染まった山が美しい。黙って見てると、私と山々の関係が対等感の中に豊穣してゆくのを感じる。見守り、見守られるの関係は、介助という小さな枠を宇宙レベルにまで広げられる素晴らしい関係性なのだ。
安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた

『朝からUFO』というタイトルについて

朝からUFO /安積 遊歩

 

私の戸籍上の名前は純子という。妹は愛子で、兄は一郎。一郎という字を道路の路としたら、3人の名前を掛け合わせると純愛一路となる。親が初めから3人子供を生んでそういう名前を付けようと計画したわけでなく、全くの偶然だが。
だから、そこへのこだわりよりも、『純子』とか『純』と呼ばれる度に体の壮絶な痛みや医療や教育の中での差別的な扱いを思い出すようで、いつかは名前を変えようと思っていた。
父がシベリアの捕虜で、1950年代にレッドパージにもあい、教職を追われていたので、天皇制や戸籍についても結構フランクに話せる家族だった。だから、名前を変えても家族からの反発は無く、それは予想通りだった。幼い時から、骨折や手術の度に壮絶な痛みとギブスで全く動けない日々を生きていたので、30歳でアメリカから帰り東京に住むようになって思いついた名前は『遊歩』。
家族も時には、その新しい名前で呼んでもくれた。「私が幸せであるのだからそう呼んでよ」ということに異論は無かったのだろう。
私がどんなに自由に遊び歩きたかったかを、アメリカの障害を持つ仲間に会うことで確信し、純子から遊歩と名前を変えたのだった。
また、22歳から28歳まで約6年一緒に暮らした恋人は、UFO と神様を信じていて、重い障害を持ち、青い芝の会のリーダーで誰に対しても平等で謙虚で、その上楽しい人だった。
でも、その彼との暮らしに別れを告げられたのはまさに、アメリカに行ってUFO のように完全に自由になっていいと思えたからかもしれない。
彼は私より障害が重かったので、私がいなくなるということは、ご飯をきちんと食べることやお掃除や洗濯などが本当に大変になるにも関わらず、私に依存している人ではなかった。
だから、彼と離れてアメリカに行った時に自分の内面化された女性差別の深刻さにも気づけたわけだ。彼は私がいなくても全く大丈夫なのにも関わらず、勝手に彼の面倒を見なければと思い込んでいた自分に驚き、アメリカから帰ってきてすぐに彼との暮らしを終了した。
その遊歩という名前の背景には彼が大好きなUFOを無意識に意識していたということもあるかもしれない。障害を持ち、最前線に行って戦いながら、彼ほど謙虚で平等の極みを生きている人はいないので、そのうち、彼のこともここで紹介できたらと思う。
さて、名前のことであるが、このコラムのタイトルに朝からUFOになったのにも、もう1人私の娘の父である元パートナーの影響がある。彼はITが得意な人で、私にコンピューターの使い方をよく教えようとしてくれた。
その中に口述筆記のアプリがあって、介助者の手をあまり煩わせなくていいからと、それを使うようにと伝えてくれたのだ。
しかし、口述筆記アプリは私の発音を強烈にミスリードして、中々思うように書けない日々が長く続いた。最近でこそ短い文章なら使いこなせるようになったが、やはり言葉を直すために画面を凝視しなければならず、タイピングをしてくれる介助者がいなければ頭痛と眼痛に襲われ続ける。
ましてコロナの時代、ステイホームとオンラインで最近は気を付けていなければ週のうち半分は痛みの中に暮らしそうになる。
それでも、介助者がいない時は口述筆記アプリを使ってしまうこともあり、この「朝からUFO」もこのアプリの提案によるものだ。私が何回も「安積遊歩」と入れているつもりでも、「朝からUFO」と3回も出てきたので、それもいいかと候補に入れてみたわけだ。
私としては、「わがままな哲学」と「自由への飛翔を希求して」という2つを真面目に考えていたのだが、意外なことにこの口述筆記アプリの提案を候補にしたら、それが面白いということになった。
遊歩という名前のことに戻れば、これは戸籍名にはなっていない。だから、パスポートや保険証などはみんな「純子」となっている。そこから変える方法も勿論知っているのだが、親がつけてくれた名前を使うことで自分の歴史を思い出せる。
歴史を忘却し、封殺してしまって生きることの残酷さ、沈黙の歴史からは平和は作り出せないと知っているので、純子という名前も大事にしていきたいと今は思っている。
最後に、私の娘の名前は宇宙(うみ)だが宇宙を遊歩して出会った娘の命、今はニュージーランドにいてITでしか会えないが、まさに宇宙に暮らし飛び回っている実感もありそれぞれの名前を呼び合うたび幸せになる。では、今後の「朝からUFO」が飛び回る先々を楽しみに読んでほしい。
安積遊歩プロフィール
1956年、福島県福島市に生まれ。骨が弱いという特徴を持って生まれた。
22歳の時に、親元から自立。アメリカのバークレー自立生活センターで研修後、
ピアカウンセリングを日本に紹介する活動を開始。障害者の自立生活運動をはじめ、
現在も様々な分野で当事者として発信を行なっている。 著書には、『癒しのセクシー・トリップーわたしは車イスの私が好き!』(太郎次郎社)、
『車イスからの宣戦布告ー私がしあわせであるために私は政治的になる』(太郎次郎社)、
『共生する身体ーセクシュアリティを肯定すること』(東京大学出版会)、
『いのちに贈る超自立論ーすべてのからだは百点満点』(太郎次郎エディタタス)、
『多様性のレッスン』(ミツイパブリッシング)、
『自分がきらいなあなたへ』(ミツイパブリッシング)等がある。 2019年7月にはNHKハートネットTVに娘である安積宇宙とともに出演。
好評で再放送もされた