田中恵美子のDiscover Another World

「特別扱い」という「差別」/田中 恵美子

「特別扱い」という「差別」/田中 恵美子

1回目に書いたように、障害のある人たちと旅行を通して知り合い、帰国後は大学の3年生に編入したのですが、その前に会社員をしながら“もっと優しい旅への勉強会”という会に所属しました。メンバーの多くは旅行会社やホテルなど旅行関係の企業に所属しながら障害者の旅行に携わっている人たち、そして旅の好きな障害者の人たちが集まる会でした。
今思うと、そこでの経験が「障害を研究する」ということの始まりだったのかもしれません。
故草薙威一郎というJTBの社員が長く会の代表を務めていました。バリアフリー旅行の先駆けを作った人です。彼は会社員でしたが国土交通省の研究などに参加し、論文を書いたり発表したりしていました。大変気さくな方でとてもかわいがっていただきました。毎月1回の研究会や通信の発行作業の後、必ず会合があり、草薙さんはよく酔っぱらっていました。
当時、何と呼んでいたのか忘れましたが、ホームドアがある駅があって、「草薙さんのために必要ですね」なんて言ってました。今でこそ、酔っ払いにもホームドアが有効だといわれていますが、私たちの間では当時から、「あれは酔っ払いのためにも必要なもの」、「視覚障害者のおかげで酔っぱらいは助かっている」という認識がありました。今でいうユニバーサルデザインの考え方のベースを体感していたといえます(違うかな)。
そのころはたくさんの「差別」に出会いました。初めてバスの乗車拒否に遭った時のことは忘れられません。私はなにが起こっているのか、わかりませんでした。「え?」「えええ?」「止まらないの?」「なんで?」と目の前を通り過ぎるバスに驚いて叫んだら、隣にいた友人が「やられた。乗車拒否だよ」と教えてくれました。「えーーーーー」…そんなことある?1990年代の中ごろですが、その後もそこそこ頻繁にあり、強い憤りを覚えました。
駅ではエレベーターがないので、キャタビラという名(本当の名前かわかりません)の階段昇降機に友人が乗り、私は先に降りて下で待つ。それもない時は駅員が4人がかりで運ぶ。人を集めなくてはなりませんから、時にはお客さんもさっと手を出してくれて、駅員と行きずりのお客さんに運んでもらう。
途中からは車いす対応エスカレーターができて、そうすると駅員が一旦エスカレーターを止め、滑り止めが出る箇所までエスカレーターを動かし、車椅子ユーザーだけを載せる作業をして、私の友人だけがエスカレーターに乗って移動します。その間は他の人はエスカレーターは使えません。またエスカルという乗り物もできました。今も時々見かけますが、車いすユーザー専用です。
東京駅では、皇居からつながっているといわれていた(ほんとかわかりません)古いレンガ造りの通路を通り、収集されたごみがいっぱいの通路を抜けて運搬用のエレベーターにたどり着き、新幹線のホームにいったり…介助者として「障害ゆえの特別な経験」を一緒にしていました。
今思うと、一般の人と一緒にいつでもどこへでも行かれるわけではない、「特別扱い」という名の「差別」を経験していたのです。 
あのころと比べて、今は便利になった…のでしょうか。DPI日本会議という障害者団体が最近動画配信を行っています。その第1回目がバリアフリー法についてなのですが、その中にこんな質問が出てきます。
1990年、東京には476駅があって、そのうち「車いすで自由に使える駅」はいくつあったのかという問いです。答えは0です。階段昇降機は16駅、車いす対応エスカレーターは2駅、荷物兼用エレベーターのある駅は9駅ありましたが、「一人で移動できる駅は一つもなかった」のです。
では2019年3月、東京には760駅がありましたが、このうち車いすで利用できる駅はいくつでしょう。701駅(92.2%)です。しかもこの数字は基準適合した駅であって、段差の解消だけだと739駅(97.2%)です。DPIの佐藤聡事務局長は「わずか30年で全く違う国になりました」と表現しています。確かに街なかで車いすの人を見かける機会は増えました。駅にはエレベーターが付きました。でも…
駅では必ず改札で駅員に声をかけ、鉄道会社の準備が整うまで待たされます。電車に乗るとき、駅員さんは親切に車いすを押してくれ、スロープも出してくれますが、乗車時には「駅まで、お客様ご案内です」といった業務放送が響き渡ります。降りる駅には駅員さんが必ず待っています。
要するに、他の人と同じように自由に動けているという感じがまだ、しません。駅を特別に使っているという感じが否めない。どうでしょうか。
一方、私が車椅子の人たちと街に出かけだした1990年代中頃は、駅員さんに知らせても待たされるばかりですし、いい顔されませんから、友人と私は駅員には知らせず、勝手にさっと改札を通って他の客と同じように電車に乗って移動していました。スロープがなくても後輪で支えて乗り降りすれば問題ありません。
エスカレーターも同様です。確かに介助者がいなくてはなりませんでしたが、逆に介助者がいれば、他の客と変わりなく駅を利用している感覚がありました。降りようと思った時に降りられ、寄り道ができたし、途中で行先を変更することもできました。そういう当たり前の自由がむしろ以前の方があったんです。
ところがこの「特別利用」にようやくメスが入りつつあります。先日友人が池袋から上野までの山手線の一部にホームと電車の隙間が3センチ以内になっている場所ができたということで、試乗した様子の動画をfacebookにあげていました。駅員に連絡する必要もなく、駅でのアナウンスもない。乗って降りる。ただそれだけですけれど、コメントに「途中下車ができる」とあって、ああ、そうだよなって思いました。
やっとここまで来ました。
引用
DPI日本会議 第1回 ミニオンライン講座「2020年バリアフリー法改正」https://www.youtube.com/watch?v=tylbXK7G6Aw&t=395s (20201121)
JR東日本ニュース:https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200122_ho01.pdf (20201121)
田中恵美子
1968年生まれ。学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。

朝ドラでドキッとしたこと/田中 恵美子

朝ドラでドキッとしたこと/田中 恵美子

皆さん、こんにちは。田中恵美子です。
先週の朝ドラは、古山裕一の妻、音と娘の華にクローズアップした内容でした。観ていない人には「何のこと?」と思われてしまうかもしれませんね。簡単に紹介すると、音はかつて初めてのミュージカルでの主役に抜擢されたとき、娘の華を妊娠し、結果として舞台を降板しました。いつか娘が大きくなったら、歌手になる夢にもう一度チャレンジしたい。
そして大きな舞台で夫裕一が作曲した歌を音が歌うというのが、古山夫婦の夢になりました。今週は音が娘も成長したところで、ミュージカルのオーディションに再挑戦するのですが、その中で、私は華の言葉が胸に刺さったんです。
「私が生まれたことでお母さんの人生を狂わせちゃったと思うから、一生懸命頑張って手伝っているのに」。確かこんなセリフだったと思います。自分がお腹に宿ったことで、母親が歌手を諦めたと知ったら…どんなに重い気持ちで華は生きてきたのだろう。そう思うと心が苦しくなりました。
私は小さいころ、母の人生は私(たち・姉がいるので…)がいることで、自分の思い通りにならなかったのだと思っていました。だから華の言葉にドキッとして、あの頃の気持ちが蘇ってきたのでした。
特別な家庭ではなかったと思うし、その当時のどこにでもあるような普通の家庭だったと思います。昭和の、飲んだくれの父と家庭を必死に支える母。毎晩酔っぱらって帰ってくる父と、文句を言う母の、怒鳴り合う喧嘩が聞こえる中、布団をかぶって寝たふりをしていた。
そんな生活でも母が離婚しなかったのは、私たちがいたから。でもよく考えると、離婚はあの頃まだ稀で、多くの女性が文句を言いながらも夫と別れる選択をしなかった。それは女性が働いて生活していくのはとても難しい時代だったから。
一方で私は、音の人生にも共感するところがありました。音は妊娠を知ったとき、喜びと共に不安を抱えました。舞台の共演者たちに、「妊娠しても舞台は続けます」といったけれど、つわりで稽古に出られない日々が続き、結局舞台を降板することを決めました。その時の場面もとてもつらかった。産む性であること、女性であることを変えることはできない。
私の時代でも、25歳までに結婚して(売れ残りのクリスマスケーキといわれる前に)、結婚退職か、あるいは子どもができたら仕事を辞めるという選択肢が当たり前でした。男女雇用機会均等法が施行されて間もないころ、まだまだ性や年齢に生き方が縛られる時代でした。
前回の話に戻りますが、障害のある人たちが旅の終わりに語った、日本で感じていた生きづらさは、確かに障害特有ではあったけれど、私が感じていた生きづらさとどこか似ていました。新しいけれど、決して知らない世界ではなかった。そのことも障害のある人たちの世界に私が引き込まれた理由の一つなのだと思います。
“この生きづらさはやっぱり理不尽で、変えられないこともあるけれど、変えられることもあるんじゃないか。それはいったい何なのだろう。どうやったら変えられるのだろうか…”
田中 恵美子(たなか えみこ)プロフィール
1968年生まれ。学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。

Discover Another World

Discover Another World

皆さん、初めまして。田中恵美子です。
新たに始まるコラムの名称を「Discover Another Worldにします!」とお伝えしたところ、担当者の方たちから「かっこいい!」と褒められて有頂天になっています。わーい!がんばります!
Discover Another Worldという題名を思いついたのは、まさに私が障害のある人たちとの出会いがそうだったからです。そしてこれから私が皆さんに紹介していきたい障害の世界もきっと皆さんにとって新しい世界、違った社会になるだろうと思うからです。
障害のある人たちの出会いは、今から25年前、1995年のことです(ああ、四半世紀!遠い目…)。当時私はサラリーマンで、企画旅行専門の小さな旅行会社で働いていました。そこに障害のある人たちの旅行団体である“希望の翼”から連絡が入りました。
“希望の翼”は福岡県を中心に九州で旅行をメインに活動している当事者団体で、会員には働いて暮らしている人や普段は施設で暮らしている人もいました。国内旅行や海外旅行をすでに何度も経験されていて、今度は北欧に行きたい、しかもいわゆる観光旅行ではなく、施設などを見学したいと私の勤めていた会社に依頼してくれたのでした。
それまで私の会社は官庁などの視察旅行が多く、障害当事者との旅行は初めてでした。手配の事務的な仕事ばかりしていた私にも、いろんな人がいるからということで、研修と介助要員を兼ねて添乗が命じられました。
今、視察として思い出せるのは、スヌーズレンがあって、ボールプールがあって、、、ということぐらいで、後は美術館でレンブラントを見たこと、お城をめぐったこと、夜、毎晩のように皆さんの交流(飲み会)につきあったこと、そうそう、魅惑的なおねえさま方がガラス越しに客を誘う、いわゆる”飾り窓街”にもいきました…。オイオイ、一体どこに行ってんだか
石畳の街並みを手動の車椅子でこぐ人、その力強さに驚き、でも疲れてしまうのではないかと、私が「押します」と申し出て一緒に歩いたこと。膝に砂袋を置いて在位を保つような、最重度の障害者の方のシャワーに付き合って、一緒に入って気持ちよさそうな笑顔を見せてくれたこと。
やったこともない介助を何の恐れもなくやっていた自分が、今思うと恐ろしいですが、楽しくて仕方なかった。「ありがとう」と言ってもらえることがうれしかった。役に立っているという実感があった。
今、思うと本当に申し訳ないのですが、私自身がエンパワーするために旅行に参加したような気がします。お金もらって自分が元気になって…。本当にすみませんでした。
旅行は結構長かったような… その記憶さえももうあいまいなのですが、帰国まであと数日という頃になると、皆さんがだんだん帰りたくないというようになりました。もちろん、旅が楽しいのは私も一緒ですが、もっと切実に「帰りたくない!」とおっしゃいます。
普段の生活では移動が不便なこと、なかなか飲みに行けないこと、聞いてみると、それはこの旅行でも同じではないか…。先の石畳しかり、飲み屋の入口だって段差があったし。でも日本と明らかに違ったのは、どこでも入れたこと。手を貸してくれる人が必ずいる。入った後、店で嫌な思いをしなかった…そんなことを聞かされながら、なんとなく私がそれまで知らなかった日本の一面が見えたような気がしました。
さて、その後、私は日本に帰ってきてから、もっと障害のことが知りたくなりました。正確にいうと、障害という視点から見た日本社会が知りたくなったのです。それがきっかけで私は28歳で大学3年生に編入しました。
ということで、第1回目はここで終了です(^^次回にこうご期待(^_-)-
田中 恵美子(たなか えみこ)プロフィール 
1968年生まれ。学習院大学文学部ドイツ文学科卒業後、ドイツ・フランクフルトにて日本企業で働き2年半生活。帰国後、旅行会社に勤務ののち、日本女子大学及び大学院にて社会福祉学を専攻。その間、障害者団体にて介助等経験。現在、東京家政大学人文学部教育福祉学科にて、社会福祉士養成に携わる。主に障害分野を担当。日本社会福祉学会、障害学会等に所属し、自治体社会福祉審議会委員や自立支援協議会委員等にて障害者計画等に携わる。研究テーマは、障害者の「自立生活」、知的障害のある親の子育て支援など、社会における障害の理解(障害の社会モデル)を広めることとして、支援者らとともにシンポジウムやワークショップの開催、執筆等を行い、障害者の地域での生活の在り方を模索している。