古本聡の文机

ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」 Part 2 /古本 聡

ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」 Part 2

/古本 聡

 

━ 近々公開予定の私の自伝的コラム・シリーズ「赤國幼年記」の序章に代えて ━
働けなくなった人々が糧を得る方法と言えば、日本でも戦後見られたようなアコーデオンやハーモニカを吹きながら駄賃を稼ぐ物乞いと、窃盗、強盗や恐喝といった犯罪に手を染めることだった。
このような状態では、戦勝国としてのメンツが立たない。
また復興のモチベーションが下がってしまう、それに都市の景観が壊される、と考えた当時のスターリン独裁政権は、帝政ロシアの時代からしばしば用いられてきた方策を再度適用することでこの状況の解決に乗り出した。

 

その方策とは、目障りで役に立たない人々の強制収容だったのだが、スターリン政権がお得意としていた、何らかの罪を被せた上での収容所送致もそこに加わった。そうして、障害者収容施設があちらこちらに現れ、その代表格がワラームとなった。

 

少し話がそれるが、400年位前までロシア語には「障害者」をダイレクトに意味する単語はなかった。今も広く使われているインバリッド(Invalid=役に立たないもの)という言葉が現れたのは18世紀初頭のことなのだ。

 

そして、傷痍軍人の強制収容と辺境地での隔離と言う対策が取られ始めたのもまさにその時代なのだ。

 

1700年から1721年までの長きにわたってピョートル大帝(1671~1725)のロシア帝国はスウェーデン、フィンランド、ラトビア、オスマン帝国を相手に大北方戦争を繰り広げた。インバリッドと言う言葉は、その時に出た大量の「軍事的に役に立たなくなった」傷病兵を指す名称としてフランス語から輸入されたのだ。

 

ピョートル大帝は当初、西欧諸国に倣って帰還将兵に恩給や住居を与え、功労をねぎらう政策を採った。が、すぐに財政が逼迫し、その規模を徐々に縮小していった。ピョートル大帝体制の末期からエカテリーナⅡ世(1729~1796)の時代になると、傷痍軍人への対応はロシア正教会に委ねられた。

 

そして傷痍軍人を、シベリアや内陸部の辺境地に数百人単位のグループで分散させて住まわせ、彼らに対する支援金は、各地区管轄の教会に渡すと言う形式を採った。

 

これは、当時から行なわれていた刑罰の一形態である「シベリア流刑」と全く同じだった。つまり、役立たずや犯罪者を都市部からできるだけ遠く離れた地に連れて行き遺棄・放置する。そうして、自力では絶対に帰れないようにしておいて、流刑者が死に絶えるのを待つのである。

 

またその際、西欧に追いつこうと躍起になっていたロシアの貴族階級が闊歩する都市部に居た、傷痍軍人以外の病人や障害者も都市にふさわしくない、美しく荘厳な聖新都サンクトペテルブルグの景観を汚す、として同様に辺境地に追いやられることになった。
話を第二次大戦終結後に戻すと、スターリン政権は、対独戦勝利後、ただちに、ピョートル大帝の時代と同じように傷痍軍人、くる病患者、肺結核患者、身体障害者、知的障害者、精神障害者をひとまとめにしてソ連各地の辺境に連れて行き、自主共同体の形成を建前にしながら事実上放置した。

 

その際、一般市民には、「病人や障害者は、社会主義の理念に基づいて十分な経済支援、手厚い治療、看護を受けられる」、との偽りのプロパガンダが流された。こうした障害者対策はそれまでも幾度も採られてきたので、都市部に住める障害者はエリート層、富裕層、または権力に近い者たちの家族かその当事者のみとなっていった。また、障害者=街中には居てはならないもの、という認識の浸透が促進してしまったのだ。

 

更に、この実に残酷なロシア伝統の障害者対策によって、人々は家族内に障害者・病人が居てもそれを決して表に出さないようになったのではないか、とロシアの社会学者は分析している。

 

このように、戦争というものは、国家による優生主義の広がりと浸透、そして促進の切っ掛けになり得ることがはっきり分かる。

 

勿論、西欧諸国、日本、アメリカ、どの国でも障害者対策と言うのは、歴史を見れば似たり寄ったりのケースが多いのは確かだ。現代世界の中で、福祉やバリアフリーが進んでいる国とそうでない国があるのは、勿論これらに着手した時期が早いか遅いかの違いが大きく影響しているとは思う。

 

が、その他に挙げられる要因としては、第二次大戦あるいはそれ以降の比較的小規模な戦争の後に当事国が、あるいは過去に極端で野蛮な優生保護主義的傾向にあった当事国が目を覚ました時に、思想・信条的および政治的に反省をしたかどうか、それまでのやり方に自ら誤りを見出したかどうか、が挙げられるのでは、と思う。

 

ロシア語にはよく使われる古い言い回しで「Что было, то прошло.」というのがある。「済んだことは、もう過去のこと」(過去をウジウジ悔むな)と言う意味だ。

 

日常の何気ない会話の中でこの言い回しが発せられても、ロシア的で大らか、心が広い、くらいにしか感じないが、この記事のような話題の時に使われると、非常に哀しい気持ちになり、腹が立ち、言葉を失う。思考の平坦さに憐れみさえ覚える。

 

最後に、1945年から1984年まで傷病兵と身体障害者、精神障害者、ハンセン病患者の収容・隔離場所となっていたワラーム島の画像を1枚だけ、所有者の許可を得た上でここに掲載しておこうと思う。

 

1960年代のワラーム島。左側の男性は両足を失い
小さな車輪をつけた板に身体をくくりつけている。)
ロシアにある慈善団体「Miloserdie(慈悲の心)」が運営しているサイト(https://www.miloserdie.ru/article/invalidy-valaama-kogo-na-samom-dele-risoval-avtor-tsikla-avtografy-vojny/)に記述されていることだが、スターリン時代の強制収容時に使われていた用語として、両腕を失くした人を「切り落とし」、両足を失くした人を「トロッコ」、そして両腕両足を失った人を「サモワール」(樽の形をした湯沸かし器)と呼んでいた、とある。

 

これらの言葉は、国の政府レベルから実際の収容作業を行う警察官レベルに至るまで、統一された用語として使われていたそうだ。同サイトにはまた、戦地から帰還してもワラーム島に閉じ込められ一生を終えた傷痍軍人たちの記録スケッチ画が掲載されている。

 

ちなみに、現在ワラーム島で、昔その地に収容所があったことを示すものは高さ20cm程度の慰霊碑2つのみだという。

 

ロシアあるいは旧ソ連について、特にその暗黒の歴史などについて書いたり話したりするとき、私は別段、あの国やそこの人々を陥れよう、卑しめようと意図しているわけではない。ロシア、ロシア人を嫌いではないのだ。私たちの国、日本や日本人を嫌っていないのと同じように。

 

ただ、私の文章を読んでくださっている方たちに想起して欲しいのだ。この日本にも同じように黒い歴史があったこと、そして現在もその負の遺産によって苦しんでいる人が多くいることを。

 

私は、最も多感な時期を過ごしたロシアをいつか再度訪ね、少し長めに逗留したいと思っている。しかし、その時にはもっと車いすやベビーカー、白杖でも動きやすい、また色々な意味で心優しい国、人間的な気持ち溢れる国になっていてもらいたい、と切に願っている。

 

古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」 Part 1/古本 聡

ロシアで今も語り継がれる地獄の島「ワラーム」

Part 1/古本 聡

  ━ 近々公開予定の私の自伝的コラム・シリーズ「赤國幼年記」の序章に代えて ━ 『役立たずのお前たちは、手術や痛い治療、リハビリ、それに勿論、勉強も健康な子供の倍、三倍頑張らないと、ワラーム島に送ってしまうぞ! 早産の後遺症として脳性麻痺になった私は、50年以上前のことになるが、父のモスクワ赴任を機に、現地到着後間もなく、モスクワ郊外(中心から50㎞程の距離)にあった身体障害児収容施設に入れられた。

 

6歳の時のことだ。それからの約5年の間、年に1週間程度の帰宅が許されたものの、その施設で家族とは離れて生活した。
 
病院を装ったその施設は革命(ソビエト社会主義政権樹立)前から既に医療施設だったらしいのだが、当時、その名称に「身体障害児」といった言葉が含まれず、ただ単にモスクワ州立子供病院(Московская Областная Детская Больница)またはホヴリノ病院(Ховринская больница)と呼ばれていた。
 
が、その実態は、身体障害児を如何に効率的に更生させるかの医療技術を研究・開発するための「人体実験場」だった。
 
入所していたのは6歳~18歳の男女児。常に300人ほどが収容されていた。
 
学校を付属していて、整形外科・小児科・脳神経科の治療とリハビリ、併せて教育が受けられるようになっていた。
 
モスクワ出身者のみならず、遠くは極東のサハリンや、日本海に面した沿海地方から来た児童もいたが、大半は、親に見放されたか、または生まれた時点で、産科の医師の判断で強制的に親から引き離された子供(出生障害児数を減らすために、旧ソ連ではこのような「子供の引き離し」が、不足していた労働力としての国民を、障害児の生育という大きな負荷から救うという名目で、国策として行われていた)だった。
 
なお、入所児の中で外国人は私一人だけだった。
 
身体障害者のリハビリ技術のレベルは、当時の日本よりもこの施設の方が高かった。
 
それもそのはずで、何せこの施設は、先にも述べたが、国家直営の「実験場」的な性格を強く帯びていたので、新しい薬剤や治療法がどんどん試せる場所でもあったのだ。 そのせいもあって、収容児童の死亡率が平均で月に4~6人、最も多い月で16人と、異常に高かった。

 

(約5年間過ごした病院。今は歴史遺産として博物館になっている。)

 

さて、冒頭の文言だが、これはその病院型障害児施設に入っていた子供たちに、しばしばドクターや他の職員が、やる気を起こさせるために使った𠮟咤のフレーズだ。
 
「𠮟咤」と言えば聞こえはいいが、実際は究極の「脅し文句」であった。
 
一方、私は、ロシア語が大分解るようになっても、この『ワラーム送り』という言葉の意味を長い間理解できなかった。
 
子供心に、「きっと今よりもっと厳しいリハビリをする所で、食べ物ももっと少なくて不味いんだろう」(当時ソ連は深刻な食糧難だったので、収容児童は常に空腹だった)、くらいにしか思っていなかった。
 
この『ワラーム』について、その本当の意味を私がはっきりと知ったのは、退院する直前のことだった。
 
職員の一人が話の流れで詳しく教えてくれたのだ。
 
今から考えれば、あの職員は、外国人である私と私の両親を通じて当時のあの国における障害児・者を取り巻く余りにも過酷な実情について、西側世界に伝えたかったのかもしれない、と大人になってから思い至った。
 
その職員の話をまとめると次のようになる。
 
「ワラームと言うのは、ある湖に浮かぶ島で、戦争前に活動を停止した教会と修道院がボロボロになって建っている。そこに戦争で手足を失ったり、働くことができなくなったりした元兵士たちと、治ることの無い病気にかかっている人たちが集められて、その修道院の廃屋で生活している。
 
現地の農民なんかも居るようだけど、元々働けない人達を集めて放置しているだけなのだから、嫌われている。
 
政府から貰えるものはウォッカと最小限の食料だけ。残りの必要なものは村人に物乞いをしたり、盗んだりしないと生きていけない所だ。
 
戦後間もない頃は、そこに送られるのは主に戦争で傷を負った人たちだったけど、今はあなた達のように別の理由で歩けなくなった人達で、リハビリも勉強もしないで過ごしちゃった人達も送りこまれるようになった。
 
面倒を見てくれる親を失って社会の役にも立てない障害者を収容する場所はワラームだけじゃなく、シベリアやウラル山脈の方にもたくさんある。
 
そこに送られてしまうともう最後、二度とモスクワなんかには帰ってこられない。
 
それどころか、生きることも許されなくなる。
 
そういう所に送られないために、頑張らないといけない。」
 
このワラーム島(Valaam island)は、古都サンクトペテルブルグ市の東側、カレリア共和国にあるラドガ湖北部の島で、今はロシア正教の聖地として国立公園・自然保護区にも指定され、観光地として同じラドガ湖のキジ島と並んで人気スポットとなっている。
(ワラーム島の位置)
 
今、このワラーム島について調べて
 
も、昔の「障害者・不治病者集積場」としての歴史に関しては断片的な情報しか残っていない。
 
憶測だが、この島が観光のドル箱になった今、あえて昔の姿を知られないようにしたのではないかと思われる節がある。
 
(現在のワラーム島。画像の、修復されたニキーツキー寺院は昔、収容棟だった。)

 

 
私が、モスクワ郊外にあったあの施設で幼少期を過ごした1960年代に、実際に障害児がワラーム島に送られていたかについては、資料も証言も見つからないのではっきり分からない。
 
が、少なくとも第二次大戦後から1950年代半ばまでは、主に戦争で障害を負った人たち、そして慢性疾患などを患った人たちが収容されていたのは確かである。
 
だからこそ、ワラームの名前は子供たちにさえ広く知られていて、脅し文句としては絶大な効果があったのだろう。
 
さて、これ以降は、ワラーム島をはじめ、ロシア各地にあった障害者隔離施設ができていった歴史的経緯について書いていこうと思う。
 
その大きな要因として、あの国が頻繁に関わってきた「戦争」というものがあるので、先ずは第二次世界大戦から始めよう。
 
第二次世界大戦で旧ソ連は大量の戦死者(2500万人)を出したが、傷痍軍人の数は、当然の結果として、それを大きく上回った。
 
また軍人以外の市民にも空襲、包囲戦、食糧不足、産業事故などで負傷し働けなくなった者が多かった。
 
戦時下、将兵の戦意と士気を高める為に、勲章と褒賞を乱発し、その上大都市に住まう権利を約束したので、戦後、当然のことモスクワ、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)など大都市は、傷ついた帰還兵で溢れ返った。
 
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

水のように生きる/古本 聡

水のように生きる/古本 聡

 

株式会社 土屋のバリュー12項の3つ目は、「水の流れのように柔軟に、弛むことなく」、と謳われています。これは、水のように動きを止めることなく、必要に応じて柔軟に思考パターンと行動パターンを変化させよう、ということを示しています。
私が初めてこのバリュー項目を読んだとき、どこかで聞いたか見たかしたような気がしていたのですが、少し後になって思い出したのです。それが今日、この記事の題材にさせてもらう「水五則」または「水五訓」と呼ばれる格言なのです。
そもそも、人の生き方について述べた格言は、純和製のものだけでも実にその数は多く、この水五則以外にも、水六訓、水七訓、水十訓なども存在します。また、老子や孔子の中国から伝えられた「上善若水」、「上善如水」といった教えもあります。
さて、今日のテーマである「水五則」(または「水五訓」)ですが、実はもともと誰が説いたのかは、様々な説があって未だ確定していないそうです。ただ、私自身は、昔習った通り、戦国時代、豊臣秀吉の知恵袋・名軍師といわれた黒田官兵衛(黒田如水)だと信じて話を進めていきたいと思います。
そう、5、6年前、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公に取り上げられた、あの人物です。
それでは先ず、「水五則」を列挙してみましょう。
  1.  自ら活動して他を動かしむるは水なり
  1.  常に己の進路を求めて止まざるは水なり
 
  1. 障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
  1. 自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なリ
  1. 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
    雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)
    たる鏡となりたえるも其(その)性を失はざるは水なり
水というものを通して、人としての生き方を教えてくれる中々良い格言だと思いませんか。
次に、一項目づつ意味を解いていきましょう。
一が教えてくれているのは、自分が率先して他の模範になれ、ということです。
水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいきます。人も、自らが動かずに、ただ、ああしろ、こうしろと指図だけしていては、誰も動くはずがありません。自らが動いて模範を示すことによって周囲を牽引する人になってください、ということだと思います。短く言えば、自分が動けば、相手も動き出す、ということです。
二が伝えたいことは、自分で考えて道を切り拓くように心がけよ、ということです。
水はどんな環境の中でもその流れを止めることなく弛まなく動いていきます。つまり、人は、例え失敗をしたとしても、それを周囲のせいにせず、自ら知恵を絞り努力することで道を切り拓いていくべきだ、ということ。
三が伝えているのは、諦めは何も生みださない、ということです。
水の流れは、流路が狭まるとその速度と勢いを増し、また、堰によって遮られた時には、その力を満々と内に蓄えます。蓄積された力があるからこそ、解放された時に巨大なエネルギーを発揮できるのです。
困難にぶち当たった時、自分の可能性を諦めてしまってはいけません。苦しい時もじっと耐えて努力を続けていけば、大きな力となって返ってきます。自分を肯定し、自分を信じることが大切だ、ということです。
四が伝えたいことは、人を排除したり、追い詰めたりせずに共に頑張ろう、ということ。
社会、企業、学校など、コミュニティと呼ばれる場所には様々な価値観、世界観を持つ人が集まっています。感覚、リズム、方法、価値観の合わない人を自分の傍から遠ざけたり排除したりするのではなく、長所を見つけてそれを活かすことを先ず考えましょう。川は、流れていく途中で様々な水質の別の川と合流して、やがて大河になっていきます。濁った水が合流してきても、「入ってくるな」とか「出ていけ」とは言いません。さまざまな水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人になるべきだ、ということです。
五が伝えているのは、常に自然の理(ことわり)にそって物事を考えよ、ということ。
水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変えます。しかし、その本質は一切変化することがありません。我々人もまた、変化に対応するのに常に柔軟でなければ、生きていけません。与えられた環境の中でいかにして最大の努力を行えるかが大切だ、ということです。
水のように、自由で柔軟なマインドで強く清らかに生きていけたら素敵ですよね。
これから先、人はみな、人生で何があるかはわかりません。色んな困難にぶつかり、迷うことや立ち止まってしまうこともあるでしょう。そんなときには、この「水五則」を思い出してみてはどうでしょう。
きっと、あなたの道標になってくれることでしょう。
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

ゴーゴリの「狂人日記」に思う Part 2

ゴーゴリの「狂人日記」に思う Part 2

精神病院送致
こうした一連の事件の後、彼は精神科の病院に入院させられるのだが、彼は自分が強制入院させられたとは思っていない。入院後も彼は、自分は王様として使者たちに案内されてスペインに招かれたという勘違いをし続けるのである。
そうして彼は、当時のロシアの精神病院内の劣悪で過酷な実態を見て驚くことになるのだが、その実態についても、とっつきの部屋には、頭をくりくり坊主にした者たちが大勢いたり、彼の眼には総理大臣に映った、体中から威厳を発する人物が、
「これからフェルジナンド王なぞと名のったりしてみろ、もう二度とそんな口がきけない目にあわせてやるから」
と脅してきたのに対し、主人公が抗議すると、背中を棍棒で二度ひどく殴られたり、また、
「坊主なんかになるのは御免だと、声をかぎりにわめき立てたのも虚しく、とうとう頭を剃られてしまった」
というように、彼の思い込みと幻覚にすり替わってしまうのであった。さらには、
「冷たい水を頭へぶっかけられはじめたとき、どんな気持ちがしたか、そいつはよく思い出せない」
「ああ!なんてひどい目にあわせやがるんだ!頭から冷水をぶっかけやがる」
などと、被害妄想からくる反抗心を丸出しにする。そして、彼はこう思い始める。
「情けもなければ、容赦もない、てんで俺の言うことに耳を貸そうともしない。いったい、おれが奴らにどんなわるいことをしたというのか?なんだって、こんなにおれを苦しめるんだ」。
結局、精神病院でも過酷な扱いを受けた主人公が
「おっ母さん、このあわれな息子を救っておくれ!この痛い頭に、せめて一滴、涙を注いでおくれ」
と、母親に助けを懇願する場面で、この物語は終わる。
晩年、ゴーゴリは実際に精神障害に陥るのだが、この小説を著した当時25、6歳だった彼が、どのようにして、未来の自分を予見させるような作品を書いたのか、それはわからないが、ともかくリアルなのは間違いないだろう。
ただ、荒唐無稽、あるいは、今の言葉で言えばウケ狙い的な表現が散見され、また障害者蔑視的な描写も多い。しかしながら、それは、帝政ロシア、旧ソ連、そして現代ロシアの伝統のようなものなのだろう、ロシア人のクセ、彼らの言語の強いクセなのだろうと、あの国と深く長く付き合ってきた私としては言わざるを得ない。
その一方で、主人公が「わからない、なにもかもさっぱり見当がつかぬ」、と現実と妄想との間で揺れ動き、葛藤し、混乱する様子や、「いや、よそう、黙っていることだ」と非常に冷静な判断をして、周りを警戒し、自分を制する態度、さらには、「広い世の中に身の置き所がないんだ」といった率直な想いなどは、幻覚・妄想に襲われ支配されながらも、どこか理性的で、ふと正気に戻る、精神障害者の心理を見事に捉えていると言えるだろう。
注目すべきは、精神病院内の患者への対応だろう。本人の同意なしの強制入院、棍棒などを用いた暴力、強制丸刈り、頭から冷水を浴びせるなどの野蛮そのものの行為だ。
実は、ロシアでは、ゴーゴリが生きたあの時代から旧ソ連時代を通して、そしてつい最近も、精神病院は矯正労働収容所(GULAG)と同じ機能を果たす施設だったのだ。ただし、この2つの種類の施設には違いもあった。
精神病院に送致されるのは、主に回復の見込みがない精神病患者および、政府当局にとって不都合な人々、すなわち政治犯、特に反体制活動家、テロリスト、大量殺人犯などで、これらの人々は様々な精神疾患の診断名を付けられ社会から隔離されてきた。
強制隔離の非人道さだけではなく、戦慄を覚えるのは、それら収容者たちはいろいろな人体実験や研究材料にされた挙句、あるいは拷問、容赦ない暴力にさらされて廃人になり、二度とまともな社会生活を送れなくなるか、死に追いやられるかのいずれかであったことだ。闇から闇へと・・・。
一方、矯正労働収容所に入れられるのは、この世から消してしまうと返って民衆の反発を招く恐れのある活動家、洗脳と監視によっておとなしい市民になり得る者、無法者ながらも鉄道建設などの重労働に耐えうる、比較的軽犯罪者だった。
このことは、帝政ロシアから現代にかけて書かれた多くの文献や、実際にそういう経験をした人たちの証言などで裏付けられている。
ゴーゴリがこの短編を書いた時代も、ロマノフ家を頂点とするロシア帝国政府の圧政に苦しめられていた。そんな時代の空気をこの作家は鋭い感性で描写したのだろう。そしてその感性の鋭さゆえに、自らも耐え切れなくなり精神を病んでしまったのではないか。私にはそう思えてならない。
そう言えば、19世紀ロシアの精神病院を舞台にしたガルシンの『赤い花』(1883年)やチェーホフの『六号室』(1892年)などの作品でも、患者の人権を完全に無視した非道で暴力に溢れた精神科病院の内情が描かれている。ゴーゴリから40年もの年月を経た後に…。
この「狂人日記」で私いとってもう一つロシア的精神世界として印象的だったのは、精神病院に閉じ込められた主人公が、最終的に母親に助けを求める場面だ。
このシーンで主人公は、すでにスペインの王様ではなく、素に戻ったロシア人青年なのだ。
彼は訴える、
「あんたの息子がどんなにひどい目にあわされているか、まあ見ておくれよ」、「この病気の息子をあわれんでおくれよ」
ロシア人にとって母親は、絶対的な憐れみと愛情を与えてくれる存在なのだ。その存在は、聖母マリアに直結するものだからだ。
私はこの小説をロシア語と日本との両方で読んだ。ロシアにいながらこれを読んだ時のリアル感は、もの凄いものだった。19世紀半ばと20世紀後半とで、あの土地の空気があまりにも変わっていなかったからだ。
あの国のそういう現実を目の当たりにすると私はなぜだか深い憂いにも似た感情に陥ってしまう。ロシアを知って60年近くたった今でも、私には分からないのだ。あの国と、そこの人々の非常なる慈しみ深さとおおらかさと、それらとは正反対の残酷さと非道さとの落差の理由が。
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

ゴーゴリの「狂人日記」に思う Part 1

ゴーゴリの「狂人日記」に思う Part 1

ロシアの古典文学作家の一人で、日本でも一定の人気を得ているニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ( ロシア語: Николай Васильевич Гоголь; 1809年4月1日(ユリウス暦3月20日) – 1852年3月4日(ユリウス暦2月21日))という人物をご存じだろうか。
この作家は、当時の帝政ロシアにおける、委縮しきった小市民的な社会の俗悪さ、空虚さ、卑小さへの絶望と、諦めから来る詠歎などが入り混じった、独特な文体を特色とする。その嘲笑やアイロニーは、「外套」や、「死せる魂」といった、日本でよく読まれている代表的な作品にくっきりと現れている
なお、このコラム記事には、精神障害に分野に属する言葉や言い回しが出てきて、それらは現在では使用するのにふさわしくない可能性があるが、敢えて岩波書店の横田瑞穂訳の形のまま使用することをあらかじめお断りしておきたいと思う。
さて、今日ここで私が取り上げたいと思うのは、ゴーゴリが1835年に発表した「狂人日記」という題名の短編小説だ。確か、魯迅も同じ題名の小説を執筆している。
大まかなストーリーとしては、社会がおかしいと考えている男が、その社会に精神をむしばまれていき、ついには自分が精神障害になってしまう、というものだ。
この作品は、精神病者の目を通して官僚や上流階級の俗悪・虚飾を批判した小説という側面があるとともに、幻覚や妄想などの症状を呈した下級官吏が精神科病院に入院させられるという物語でもある。したがって、そこには幻覚妄想患者の心理や当時の精神科病院に関する優れた描写を見ることができる。
主人公について
この物語の主人公、ポプルゥイシチンは中年の下級官吏で、彼には幻覚や妄想など、さまざまな症状が現れる。それは、犬同士の会話だったり、犬が書いた手紙だったり、地球が月の上に乗ることを心配するなどのほか、月はハンバーガーのように柔らかく崩れやすいとか、人間の脳髄はカスピ海の方から風に送られてくると思い込むといった奇想天外なものなのだ。
そんな彼は、「おれは、このあいだごろからときどき、ほかの人間たちには見たり聞いたりすることが決してできないようなことが、見えたり、聞こえたりはじめている」とか、「こんどこそ、いろんな事情や、思惑や、その動機やらがすっかりわかって、いよいよいっさいが明るみへでるときがきたのだ」といった、いかにも幻覚妄想患者らしい思いに取りつかれるのだ。
彼の変調は職場でも気づかれて、上司は彼の勤務態度について、次のように叱責する。
「どうしたというんだい、おい、君。君の頭いつもどうかしているじゃないか?どうかすると、きみは、まるで気がふれたようにふらふらするし、仕事をすればときどき、書類の表題を小文字で書いたり、日付や番号をつけなかったりして、まるで見わけがつかぬようにしてしまう」
しかし主人公は、上司に叱責されても、反省するどころか、上司は自分への嫉妬からこのような言いがかりをつけるのだと解釈するのだ。ここにも主人公の判断力の弱まりと歪みがうかがえるが、彼は上司に対して、
「これはみんな、あの課長めのやったことだ。あいつめ、おれを不倶戴天の敵のように恨んでいやがるんだ――だから俺をことあるごとに、やっつけよう、やっつけようとかかっているんだ」
といった被害妄想的な感情をますます強くする。
また彼は、自分自身の身分についても疑問を抱くようになって、
「ひょっとしたら、おれはぜんぜん九等官なんかじゃないかもしれんぞ?もしかしたら、俺は伯爵だか将官だかの身分でありながら、ただ自分で下級官吏だという気がしているのかもしれんぞ」
と、血統についても妄想を持ち始めるのだ。
そして、ある日、彼は新聞でスペインでは王位につく者がいなくなったという記事を見て、実は自分こそがスペインの王様なのだと、とうとう思い始めてしまう。
「スペインに王様がいたのだ。見つかったんだ。その王様というのはこの俺だ。今日初めて、それが分かった。まるで稲妻が照らすように、ぱっとそれが分かった」
自らの身分に対する日頃の疑念が解消するこの思いつきは、何の根拠もないのに突然あることを思いついて確信するという、いかにも妄想らしい思いつきである。
以来、自分をスペインの王と思うようになった彼は、それまで3週間以上休んでいた役所に出た時に、本来は長官が署名するはずの書類に「フェルジナンド8世」と署名するといった奇行に走ってしまうのである。
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

諸行無常 /古本 聡

諸行無常 /古本 聡

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。
猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」
現代語訳:
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常(=全ての現象は刻々に変化して同じ状態ではないこと)を示す響きがある。
(釈迦入滅の時、枯れて白くなったという)沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。
権勢を誇っている人も長くは続かない、まるで春の夜のゆめのよう(にはかないもの)である。
勇ましく猛々しい者も結局は滅んでしまう、全く風の前の塵と同じである。
(ちなみに、祇園精舎とは、インドにかつて栄えたコーサラ国の首都シュラーヴァスティーにあった寺院)
上の数行は、有名な平家物語の冒頭部分ですが、戦国時代初頭の平家の栄華と没落を描写しています。当時栄華を誇った貴族社会の没落と消滅を語るこの文章を読んで「ワクワクしてくる」、「新しい時代の到来、もっと良い世の中の始まりを予感させる」などと言う人は、少なくとも日本人の中にはいないでしょう。私のような天邪鬼のコンコンチキ野郎以外は。大方の人たちがこの文でうら悲しい気持ちになり、哀れや儚さを感じるのは、おそらくは、そこに「諸行無常」という語が使われているからでは、と私は思うのです。そして、その語の宗教的な、正確に言えば仏教的なニュアンスを感じ取るよう、私たちはどこかで、またいつの間にかプログラミングされているからではないでしょうか。そう感じるのが正解なのだと・・・。
では、なぜ私がこんなにもへそ曲がりで、圧倒的多数の人たちの想いや感じ方とは真逆の方向に走ってしまったのか。その理由について述べてみましょう。
答えは簡単です。私は、この文を学校の古文の授業で暗記させられるくらいの年頃、まぁ、通常だと中学生か高校生の頃でしょうか、気が付いてしまったんです。貴族社会が華やかに繫栄していたということは、その陰には数えきれないほどの、飢え死にするほど酷い貧困に喘ぐ人たちが当然いたということに。ましてや、障害者なんて・・・。尤も、ちょうどその頃に観た、芥川龍之介原作・黒澤明監督の「羅生門」の中の登場人物たちが、私の頭の中にあったあの時代の様相についてのイメージを、やや膨らませ過ぎた、ということもあるかもしれませんね。
「諸行無常」という語を説いたのは釈迦です。この教えは、一般には「世ははかないものだ」という意に解釈されているようです。そこには深い意味はあるとは思いますし、宗教的なものの考えを否定しようとは、私は決して思っているわけではないのですが、そのような解釈をすることによって、現世を否定するようになり、生きる意味や生き甲斐、生きる張り合いを失くしてしまうようであれば、これは、仏教を広めようとしている人たちにとっても、それを受け入れようとする民衆のほうにも、お互いの益にならないでしょう。私は、釈迦がそういうことを説くようなマヌケではなかったと信じたいし、また、そのように解釈するよりもむしろ、「諸行」とは「万物」ということであり、また「無常」とは「流転」というようにも考えられますから、諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということであると解釈するほうが正解なのではないか、と思うのです。言い換えますと釈迦は、日に新たでなければならない、ということを教えたかったのだということです。
世の中がコロナ禍になってそろそろ1年が経とうとしています。
そんな現代においても、ほとんどすべて、と言えるほど様々な事柄が変わってしまい、久しぶりに「諸行無常」という語を思い出し、しみじみと、日に新たということについて、本当にそうだなぁ、と思っている次第です。
ここ数か月で、私自身の生活、特に仕事のやり方がガラリと変わりました。毎日、新幹線に乗って数百キロの距離を移動していたのが、今や遠い昔のように感じてしまいます。
家族、友人、仲間たちの日常も変わりました。あらゆる職業の在り様、医療のあり方が変わりました。私たちの仕事である介護・介助・支援が変わっていっています。
人々の価値観が変わりました。良い方にも大いに、そして悪い方にも若干。あまりにも急激な変化でしたので、さすがに変わったことに誰もが気付いたと思いますし、気付かざるを得ないでしょう。
でも、考えみると、そもそも、世の中、何でも無常ですよね。
一方で、変わらない事実もあります。変わる世の中において、正しい情報を正しく手に入れ、分析し、的確な判断をする能力が、ますます重要になってきているな、と思い、そういう生き方をしたいと改めて強く思っています。
酷暑、大型台風、地震、疫病など生活を脅かすようなことが、私が生きてきた歴史の中でも随分増えたと思います。「どんな状況にあっても変化を受け入れ、新しいものになり、普通に暮らしていく」、と周りの人たちと励ましあい、それを続けていきたいと思わされる今日この頃です。
強制的に生活リズムをスローダウンしたり、家族と過ごす時間が増えたりすることは、本当は私たちにとって有益なことなのかもしれません。でも、その中でも、まだ知らない、隠された宝を探してみようではありませんか。コロナ禍の状況は、私たちがしばらくの間、物理的に小さな空間で生活しなければならないことを意味します。が、しかしながら、私たちが満足いく人生を生きることを止める必要はどこにもないのですから。
実際、私もここ半年間というもの、家に籠りっきりで仕事をする日々が続き、集中しにくいケースも時折あります。気晴らしがあまり出来ないからでしょうね。散歩や買い物ていどの外出もなんだか気が引けて、ストレスを感じることもあります。ただ、家族と対話する時間が増え、短い時間で集中する術も身についたかもしれません。これこそ私が見つけた「隠された宝物」なのかもしれませんね。
このような状況の中でも前向きに、今できること、そして今しかできないことを見つけていこうと思っています。「諸行無常」を「物事の、より良き時代への流転」と捉えつつ。
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。
旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。
早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、
障害者自立生活のサポート役としてボランティア、
介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。
2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

「出帆」Part 2

「出帆」Part 2  /古本 聡

ところで、船の運航において最も基本的で大切なのは、目的地の明示、航行進路の指示、乗組員全員に宛てた訓示だそうです。この3つの項目は原則として船長と副長,航海士が決定し順繰りに全乗組員に伝えるのだそうです。
その一方で訓示は、航海中に乗組員が業務行動の拠り所とするルール、または規範のようなものなので、船長自らが全員に語り掛け伝えます。
その際、1つ目と2つ目の項目が大切なのは、船を動かすためであり、3つ目は、乗組員と乗客とで航海中に形成される船上コミュニティ内に和と秩序をもたらすのに絶対不可欠なのです。
船に乗り合わせる人たちは、乗組員も乗客も、民族や国籍、信条や宗教、文化背景、生活基盤、すべてがバラバラなのですから、航海中だけでも皆が、その船の上で設定された文化を共有し合うことにおいてその重要性については大いに納得できますよね。
一方、翻って考えてみると、この3つは企業、特に理念型ビジネスの企業には備わっているものだということに気が付きます。大勢の人たちがチームを組んで船を動かしてきた歴史のほうが長いわけですから、多分船から企業に伝わったのでしょう。
私たちの新生土屋にも、この3つの事項が「ミッション・ビジョン・バリュー」という形で定められています。そこで、「新生土屋ミッション・ビジョン・バリュー」の全文は、別ページでお読みいただくとして、これ以降、主にミッションとビジョンの部分になりますが、それらについて述べたいと思います。
企業は様々な世界観、価値観、個性を持つ人たちが集い、さらにそこに多様なバックボーンを持ったユーザーやそのご家族が加わり築き上げられる一種のコミュニティ。その面では船上コミュニティと同じです。それを構成する全ての人々の間で共有される理念、目的意識、共通価値、問題意識、共通理解、共感があって、そこに文化が形成します。
そしてそれを伝え合い、醸成していくための円滑で活発なコミュニケーションが不可欠。しかもそれは、従来のトップ・ダウンだけではなく、ボトム・アップ、そしてホリゾンタルのように多方向なコミュニケーションであることが最も望ましい形なのです。
私たちの文化の真髄、それは「共感や理解を通して緩やかにつながりながら、個の自律性が保障されている、自由と規範が、多様性と全体性が共存する、オープンでありながら安全な、交響圏へと、共に歩んでゆく。ソーシャルインクルージョンの実現を加速させ、ダイバーシティーコミュニティを実現しつつ」。「探し求める 小さな声を、それに応えよう ありったけの誇らしさと共に」を合言葉に。その最も基本となるのが相互の深くて強い信頼なのです。
次に、この文章に使われている言葉の幾つかについて、補足的に手短に解説を記しておきます。
交響圏」とは、多様な個の声が互いに響き合うハーモニーとなり、喜びと感動に満ちた生のあり方、関係性のあり方を追求し実現することをめざすコミュニティ。
「誇り」。それは、自己のミッション・ビジョン・バリューを深く認識して行動する人の気高い心の持ち様。一定の品位を保とうとする、人としての美意識でもあるでしょう。
合言葉」については、他の誰かが聞き逃した「小さな声」、「ヘルプを待ち続けている声」。私たちは、そんな声にも耳を傾け、応えていきます。これもまた誇りと美意識から出る私たちの姿勢を示しています。
この新生土屋の文化で重要だと考えられている視点がもう一つあります。それは「社会正義」。 社会正義とは、「社会的公正」(social justice)とも言い換えられますが、あらゆる不公正、不公平、差別、抑圧、不正の撤廃、ならびに生命、人権、尊厳の擁護、福祉の進展、自由意思の尊重と言った、幅広い意味で使われています。
最後に、私たち土屋人としての新たなる決意をここに表明させていただきます。
新生土屋が重要視するのは、一に「ご利用者様・ご家族の福祉」、二に「会社全メンバーの福祉」、そして三に「ソーシャルビジネス企業としての拡充・発展」であり、それらのバランスを、極端にならないように、歪にならないように細心の注意を払って維持していくことです。
言い換えれば、「ご利用者様・ご家族に安全、安心と安定、満足を提供し」、同時に「社員・スタッフの安心と安定、社会的地位の向上を約束し」、さらには「企業として得られる利益も無理することなく得つつ、それを、「目の前の人に全力で向き合いたい」、このごく自然な人間としての気持ちを出発点として、私たちの力を必要とされている、より多くの人たちのサポートへの原資としていく」。
この3つのことを同じ軌道に乗せて運営する。これが新生土屋の静かで、しかしながら揺るぎない決意です。その行き着く先が交響圏なのです。
さて、「出帆!」の号令はもう響き渡りました。私たちの船 ― 新生土屋の舵が切られ、舳先はすでに大海原に向けられています。今度は私たちが、それぞれの持ち場でその号令に大きな声で呼応する番です。
「ヨーソロー!」とね。
「日本一働き甲斐を感じる、日本一サービスを受けたい介護会社」
― 株式会社 土屋
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

悔恨━または私が重度訪問介護、医療的ケアを実践する会社に参加する理由わけ Part 2

悔恨ーまたは私が重度訪問介護、

医療的ケアを実践する会社に参加するわけ Part 1

/古本 聡

 

それから女性の話は、脈絡も時系列も判然としないまま、10分余り続いたのですが、その内容は、記憶を辿って記すと、大体次のようなものでした。
「この施設に入って私が5年、彼が6年になります。それぞれ入所している病棟が違いますが、昼間は共同のリクリエーション室で二人とも過ごしています。もともとK市にある都立〇✕養護学校(今の特別支援学校)で同じクラスでした。
私が小学3年の時、彼が中1の時に転入したんですが、それまでは二人とも普通校に通っていました。私が中1になった時に彼が同じクラスに入ってきて、それから高等部を卒業するまでずっと一緒でした。
養護学校を卒業した後、私は学校のすぐ裏にあった身体障害者職業訓練校に行ったんですが、1年後、就職口が決まらなかったのと、その頃、両親が離婚して戻る場所がなくなってしまったのでここに入所しました。彼のほうは、養護学校を終える頃にはもう歩けなくなっていて、家では面倒を見切れないということになって、卒業後すぐにここに入りました。
ここの生活には慣れました。でも、もう嫌なんです、本当に嫌なんです。高等部の時から、いつか二人で暮らせるといいねって言ってたんですけど、ここじゃ先が見えてこないんです、希望がどんどん無くなっていっちゃうんです!
いろいろと特別な条件が揃わないと、普通の生活は難しいっていうのは、ここの先生たちに毎日言われているし、同室の子たちにも、彼の身体の状態じゃ無理だとか、同棲や結婚なんて障害者が考えても無駄なんだとか、色々言われるから分かってはいるんですよ。でも、やっぱり、普通の人みたいに普通の暮らしがしたいんです。
5、6年前と違って今ならそれができると思うんです。介助してくれる人が何人かいてくれれば、あと、往診してくれるお医者さんとか看護婦さんがいれば、彼だって大丈夫なんです。それに私たち、彼も病人じゃないです。
検温や診察なんて毎日しなくたっていい筈ですし、彼の障害がもっとひどくなっていっても、そういう人たちが家に来てくれるか、病院のすぐ近くに住めば大丈夫だと思うんです。
だって、もっと(障害の)重い人たちでも、アパートで暮らしてるって聞いてます。介助の人が来てくれてるって。私たち二人とも、養護学校に行く前は、普通の生活をしてたんですから、初めてじゃないんです。
私なんか、両親が分かれるまでは家の事を手伝ったりしてました。できるんです。だから大丈夫なんです。二人で暮らすの大丈夫だと思うんです・・・・・」
女性が一気にここまで話し終えるころ、その目からは涙が一筋流れ出て、日に当たってキラッと一瞬光るのが見て取れました。
「わ、分かりました。今、今回の希望者の方たちとお話をしてから、その後でまたあなた方お二人のお話を聞かせてもらえますか。1時間くらい後でもここにいますか?今日、お話をお伺いして、それを支部の人に伝えますから。それから色々、暮らし方なんかを決めていくことになると思いますよ」、
と私は我に返って言いました。
そう伝えると、お二人は少し安堵したような表情を浮かべて、「じゃぁ、また後で来ます」という言葉を残して施設建物内に入っていきました。
ちょうどそのお二人と入れ違いくらいに、あの日にもともと会うことになっていた男性たちが出てきました。不随意運動と発語障害がややきつめだったものの、ゆっくり、揺らぎながらでも歩ける、30歳くらいの方たちでした。
その方たちから、何処に住みたいのか、生活の中でどんな介助が必要なのかなど、一通りの聞き取りをした後で、あのカップルについて尋ねてみました。
すると、返ってきた答えはこうでした。
「ああ、あの恋人同士のR君とYちゃんのことね。あの人たちは、在所生(入所者)の会合にはめったに出てこないけど、ここを二人で出るんだとかよく言ってるんですよ。
でもね、Yちゃんは大丈夫だとしても、たぶんR君のほうは、ここを出るのは難しいと思うんだよね。だって、あの子、障害が大分進行しちゃってるから。声も出てなかったでしょう、彼。看護婦さんたちも、もうすぐ寝たきりになって、酸素入れることになるんじゃないかって話してましたよ。肺炎、起こし易いし重病人だ、てね。医者も親も絶対ウンって言わないと思うなぁ・・・」
「確かにFさんの声、聞こえてこなかった・・・」、
と私もついつぶやいてしまいました。
用が終わって男性たちが部屋に戻って行った後、私は30~40分くらい、あのカップルがまた出てくるのを待ったのですが、お二人はついに現れませんでした。
帰り道、私は車を運転しながら、その日に聞いた話を反芻していたのですが、私の頭の中では、あのYさんという女性の口から出た「希望が無くなっていく」、「同棲、結婚なんて障害者は考えても無駄」、「普通の人の普通の暮らし」、「初めてじゃないから大丈夫!」というフレーズと、男性たちが言った「重病人」という言葉がグルグルと回っていました。
ひどく重苦しい、暗い気持ちになって、「あのカップルの二人での生活、何とか実現させてあげたい。たとえその暮らしを続けられるのが1,2年間ほどだとしても。」と、そんなことばかり考えていました。が、具体的な良い方法を思いつくことはありませんでした。そんなケースを任されたことがなかったのです。
帰宅してから私は障害者団体支部の知り合いに電話をかけ、カップルのこと、そして自立生活希望の男性たちから聞き取ったことをすべて報告し、相談してみました。しかしながら、「カップルの件は、残念だけど難しいだろう。でも、本人たちの意思が強ければ、また連絡してくるのではないか。それをまつしかないだろう。」との結論でした。
Fさん・Yさんカップルにお会いするのは、あの日が最初で最後になってしまいました。そして、彼らからの連絡もとうとう来ることはありませんでした。どうしてなのか、何があったのか、私には分からず仕舞いです。
それ以降、私は2年ほど障害者自立生活推進運動に携わりましたが、自身の大学院進学やら、その後ずっと去年まで続けることになる通訳・翻訳会社の運営に没頭せざるを得なくなり、また日本国内の同運動の主体、形態が変化していったことも相まって、徐々にと言おうか自然と障害者関連運動から遠のいていきました。
しかし、運動からは遠のいていったものの、あのカップルのことを忘れることはありませんでした。彼らの力になれなかったこと、いや自分にその力がなかったことへの不甲斐なさ、あのYさんの、人を圧倒する信念とパートナーへの深い愛情に満ちた言葉、我慢しきれずに流した一粒の涙、そしてFさんの命が無残と言えるほど近い限りがあるものだったという事実。これら全てが合わさって私の心の中に大きな、大きな悔恨の念を築き上げました。
私が、Fさんのように障害が進行した状態の人でも、Yさんの言っていた「(病人としてではない、普通の人の普通の暮らし」、それに近い暮らしが可能だということを私が知ったのは、今から12~13年前のことです。
それは、都心の繁華街で、ストレッチャー型の車いすに乗って、喉から直接の酸素吸入を受けながらヘルパーさんたちと散策を楽しんでいる人を見かけたのがきっかけでした。
その時、思わず「あっ、これだ!」と大きな声で叫んでしまうほど嬉しい大きな驚きを覚えたのでした。そして、その後すぐ位に私は初めて「重度訪問介護」と「医療的ケア」というサービスについて知ったのです。
今、私は実に幸運にも、まっとうな志を持った仲間たちと出会い、「重度訪問介護」と「医療的ケア」を実践する会社 ━ 株式会社 土屋に参加させてもらえました。
そして私は確信しています。できる限り多くの、Fさん・Yさんカップルのような人たちが発している「どんなに小さな声」も聞き漏らさず、応えて行けるだろうと。
それは、あの遠い日に出会った、あのカップルの期待に応え、彼らの心を癒すためでもあり、自分自身の中にある「悔恨の念」を超えるためでもあるのです。
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

悔恨の念を超える ━ または私が重度訪問介護、医療的ケアを実践する会社に参加する理由(わけ)  Part 1

悔恨ーまたは私が重度訪問介護、

医療的ケアを実践する会社に参加するわけ Part 1

/古本 聡

 

「悔恨」という言葉を知っていますか。普段あまり耳にすることのない言葉ですよね。これは「後悔」や「残念」とほぼ同じ意味を持つ言葉ですが、それらよりも更に、過去の自分の行動や言動を深く反省をしているときに使われます。
「自責の念」という意味合いに重きを置き、「悔恨の念を抱く」、「悔恨の情に駆られる」という風に使われ、また、悔恨を無くすことを「悔恨の念を超える」という使い方が正しいそうです。
一方で、この言葉の2つ目の漢字、「恨む」を見るたび私は、一体全体、悔やんだ上に何を恨めばよいのだろうか、と思う時があります。過去に何かをしなかったか、またはし足りなかった自分を、でしょうか、それとも他人を、でしょうか、はたまたその時の状況、社会を、なのでしょうか・・・。
ともあれ、長い人生の中で人は誰しもこの「悔恨」の念を抱くことがあるでしょう。それも一回だけではないはず。私が今日ここに書くのは、これまで私の心の内で生じた悔恨の念の中で、最も強いものと言えるでしょう。何せ、今から働けなくなる年齢に達するまでの年月を、それを「超える」ために使おうとしているのですから。
今から40年余り前、私は大学に通いながら、当時活発化していた障害者解放運動をリードしていた団体に参加して、当面の課題だった障害者の脱施設化と地域での自立生活確立・進展活動のアシストをしていました。
やっていたことの内容は、こうして文字にすると至ってシンプル ━ 自立生活を望む障害者(主に脳性麻痺者)に対し、該当地域でボランティア介助者になってくれる学生さんや、近所に住む善意溢れるおじちゃん・おばちゃんたちに集まってもらい、基本的な介助方法を説明した上でシフトを組んでアテンドしてもらう。
しかしもって実際は、これが人間関係を良好に保って当事者の生活を安定させていく上で「超」が付くほど大変な作業でした。
施設を出て自立生活がしたいといっても、それを望む障害者の殆どが普通の暮らしの初心者。他人に何をしてもらえばいいのか、どういう風に頼めばいいのかさえ、頭の中で整理できていなかったのです。
それまでは、たとえ非人間的な扱われ方ではあったとしても、黙っていても一通りのことはやってもらえていたのですから、他者に対する働きかけ方がわからない、というのも無理もない話だったのです。
同じ障害者である私が言うのも妙な話なのですが、個人的には、そんな障害当事者たちを見て、大いに甘えの気持ちがあるのでは、と思っていました。その一方で、ボランティア介助者さんたちも、報酬と呼べるほどのものなどあるわけもなく、彼らの原動力は善意と私たちの主張や運動への賛同だけでしたので、思いっきり異種な世界にぶち当たって驚愕し、モチベーションが一気に下落してしまうのでした。
もちろん、全部が全部そんなケースばかりでありませんでしたが、私にとっても苦しく辛かったあの時期は、異なった世界観、価値観を持った人たちが互いに結びつき信頼し合えるようになるのに、いかに密で濃いコミュニケーションが重要かを分かるための大切な経験を与えてくれたのだと今は思っています。
さて、そんな障害者自立生活運動のアシスト活動の中に、脱施設・自立生活を希望する方たちとお会いして、実際にどのような生活介助を必要とされているのかについて予め聞き取りをするという仕事も含まれていました。
尤も、私にそういう仕事が回ってきたのは、5~6年間で3度か4度だったと記憶していますが、そんな少ない回数であっても、実に多様なキャラクターを持った方たちにお会いできる貴重な機会でした。
あれは確か、すでに気温がやや高目になった初夏の日のことでした。私は障害者団体の方からの、自立生活希望者の男性2人から話を聞いてくるようにとの指示を受けて、東京の北多摩地区F市にあった療育施設を訪れました。
学校のある新宿区から当時でも車で1時間半かけて目的地に辿り着き、車を施設の駐車場に置き、受付で用件を伝えて当事者の方たちを呼び出してもらいました。高めの気温と運転の緊張が解けてホッとしたと同時に、気が抜けたようになってしまい、10分ほど施設玄関近くに植わっていた高い大きな木の下で休んでいました。
呼び出してもらった方たちはなかなか出てきませんでした。
一息ついた頃でしょうか、私の斜め後ろに人の気配がしたのでそちらのほうに車いすをターンさせると、いきなり女性の明るい声が聞こえてきました。ホンワカとして色白で、おっとりとしたタイプに見えました。
「〇○○の会の方ですよね、こんにちは!」
目を遣るとそこには、車いすに座った、年の頃は20代前半くらいの男性と、その人の車いすを押す、同年齢くらいの女性がいました。
お二人揃って、指人形のようにペコリと頭を下げられた光景が今でもはっきりと瞼に浮かびます。男性のほうは、当時の私が持っていた障害に関する知識で、あの筋肉が落ちて瘦せた、というよりは「薄く」なってしまった体つきといい、腰から首までをピンと一直線に伸ばした座り方といい、筋ジストロフィーだろうな、しかも結構進行した状態だな、とすぐさま察しがつきました。
また女性のほうは、スカートから下の足には補装具が見えていて、車いすの押し手を握っていた手先部分にも麻痺があるようでした。おそらく、あの人は重目の小児麻痺か軽い脳性麻痺だったのでしょう。発語は、つっかえることもなくはっきりしていました。
さらに、二人を見ていて、女性の男性への接し方、男性に対する顔の近づけ方、優し気な声のかけ方からして、カップルなんだな、とすぐに気付きました。今風の言い方だと「付き合ってる関係性」ということでしょうか。そういう暖かく微笑ましい空気が二人を包んでいたのでした。
「はい、そうです。でも、今日ここに伺ってお会いすることになっているのは、確か、男性お2人のはずなんですが・・・。どこで私のことをお知りに・・・」
と私が言い終わるか終わらないうちに、
「その人たちが話しているのを聞いて、今日いらっしゃることが分かったので、私たちのことも聞いてもらいたくて、午前中からずっとここで待ってたんです」
と女性が答えた。
「はぁ、お話をおうかがいするのは一向に構いませんが、まずは・・・」
と私が言いかけると、女性の口からは、堰を切ったように自分たち二人の生い立ちやら今現在の境遇、ご両親や実家のこと、これからどうしようと考えているのかなどの話が唐突に、しかも次から次へと飛び出してきました。とめどなく、という言葉はまさにああいう状態を形容するのでしょう。
その時の女性の様子、表情は、今でも忘れられません。それまで浮かべていた笑みは顔から消えて強張った無表情、眼は一点を凝視し、まるで急いで紙に書き連ねてやっと暗記できたTo-do-listを、それまでとは全く違ったトーンの大声で、しかも3倍くらいの早口で読み上げているかのようでした。一生懸命を通り越して必死ささえ伝わってきて、一心不乱あるいは鬼気迫ると言ってもいいくらいの様相でした。
私は、「まだお互いに名前も知らないのに…」、と思いながら、呆然とその女性の顔に視線を置いたまましばらく話を聞いていました。いや、聞かざるを得なかったのです。呆気に取られたというよりは、迫力に圧倒されたというのが、私のあの時の心理状態を説明するのには、最も正しい表現だと思います。
「私たち、ここを出て、二人で一緒に暮らしたいんです」
あの女性の話は、こんなフレーズから始まりました。それは、今でもはっきり憶えています。私の耳の奥に残っているのです。
それから女性の話は、脈絡も時系列も判然としないまま、10分余り続いたのですが、その内容は、記憶を辿って記すと、大体次のようなものでした。
「この施設に入って私が5年、彼が6年になります。それぞれ入所している病棟が違いますが、昼間は共同のリクリエーション室で二人とも過ごしています。もともとK市にある都立〇✕養護学校(今の特別支援学校)で同じクラスでした。私が小学3年の時、彼が中1の時に転入したんですが、それまでは二人とも普通校に通っていました。私が中1になった時に彼が同じクラスに入ってきて、それから高等部を卒業するまでずっと一緒でした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
Part 2へつづく
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。

「出帆」Part 1

「出帆」Part 1 /古本 聡

 

企業組織はよく船に例えられます。大型の客船かはたまた、それよりは小さめのクルーザーかは別として、私も自分の通訳・翻訳会社を運営していた頃はそんなイメージを抱いていました。特に最盛期には。
昔、船乗りの知り合いに聞いた話ですが、大型客船の乗組員の組織構造は非常に合理的、機能的かつ民主的なのだそうです。一旦大海原に出てしまうと客船は、そこに乗船している乗組員も乗客も、いわばお互いに運命共同体なのですから容易に頷けます。また、事故や遭難の時にはサッと見事に堅固な指揮系統が築かれるのだそうです。しかも、普段は気ままな旅を楽しんでいる乗客でさえも、その系統に何の抵抗も示さず入るというから驚きです。きっと長い航海の中で自然とそういう団結心や人間関係が出来ていくのでしょう。
ただ、船上の組織構造は、一般的に企業のものとは違って、ピラミッド形状ではなく、船首に立つ船長を先頭に、甲板上に並ぶ人々で描かれる三角形の様だともいわれます。船長の後ろに副長(通常は2人以上)、次に航海士や通信士、またその後ろには機関士、技術士、保安員・・・、そして三角形の真ん中あたりから後方には医師、看護師、パーサー、一般客室係やメイドなどが並ぶのだそう。つまり、横の繋がりを重視した構造とも言えるでしょう。船長は副長たちと目的地と進路を決定し、その後ろにいる乗組員たちがそれぞれの役割と技能で航海を実行するのです。そして、航海中に起こることすべてに責任を負う船長には、客室係の今日の勤怠状況、乗客の健康状態に至るあらゆる情報が届けられ、逆に、今日の船長のスケジュールは全乗組員が知っていて、必要があれば乗客も知ることができるそうです。それは即ち、前後・左右、どの方向の情報伝達、コミュニケーションも正確に、そしてスムーズに行われている、ということだと思います。
企業もこうでなければ!と私は前々から思っていましたが、中々そういう図を自分自身でも作りえなかったし、そういう企業を見かけたこともありませんでした。しかし今回、株式会社土屋に参加させてもらって私は、やっとこの目で、あの理想的な船上組織が見ることができること、そしてその一員になることにやや強い緊張感を覚えながらも心躍らせています。
株式会社土屋「ホームケア土屋」は2020年10月に活動を開始しました。私はこの出来事を、船に準えて「出帆」と表現したいのです。私の長年の夢を叶えるためにも。
さて、私たち(株)土屋のメンバーは、この私たちの船である会社を「新生土屋」と呼びます。その呼び名には私たちの決意、希望、期待、愛情が詰め込められています。介護部門でのソーシャルビジネスという大海原に進み出すにはピッタリの呼称ではないでしょうか。
新生とは、新しく生まれ出ることの他に、生まれ変わった気持ちで新たな人生を歩みだすこと、さらには心も装いも、そして行動も刷新すること。新生土屋はまさにそういう会社——船なのです。船は建造され進水した後、更に仕様を向上させ、乗組員の働きやすさと乗客の船上生活での満足を大きくしていくために数年に一度マイナーリフォームが施され、それに加え10年に一度は定期大改修を受けて刷新し、より多くの人々を乗せ、より遠く、より広い大洋へと出て行くのです。
新生土屋にも同様なプレストーリーがあります。
前身の「土屋」という船は、介護事業の全国展開という大プロジェクト―大航海に挑み、数年間でそれを成し遂げました。しかしながら、その実現過程で私たちが経験したのは、目標により早く到達することに集中しすぎたために自分たちの中で生じた葛藤、そして苦しみでした。
本来、ビジネスで重要視すべきは活動の果実(成果)のみではなく、それを育て実らせるプロセス、力を尽くしたワーカーの満足、サービスユーザーの喜びと信頼です。ましてやソーシャルビジネスでは・・・。そうして、船の運航に例えれば、乗組員は疲弊し、また乗客の一部は十分に満足のいく船上生活を得られないままとなってしまったのです。そうです、航海を楽しむということをいつしか忘れていたのです。
私たちの船は大型客船なのです。他船よりも早く漁場に到着し、より多くの漁獲を得るために船員を酷使する外洋漁船でもなければ、敵の動きを睨みながら優位な水域を占拠すべくフルスピードで進行する、多少の水兵の犠牲は厭わない軍用艦船でもありません。大型客船の航海は品位と余裕のあるものでなければならないのです。
他社の例ですが、毎年、働きたい会社ベスト100で1位、2位を必ず獲得している、自由な社風で有名な超巨大企業Google。その企業文化を表す有名な言葉に「Don’t be evil」というものがあります。「邪悪になるな」と訳されますが、真の意味は、「目先の利益ばかりを追って、下品で醜悪になってはいけない」ということです。
これは正に私たち、ソーシャルビジネス企業の言葉です。
私たちは考えを改めました。そして、生まれ変わろうとする強い意志、変革をエネルギーにして、新生土屋は「日本一働き甲斐を感じる、日本一サービスを受けたい介護会社」を目指して思い切った大改修を行い、再び航海に出ようとしています。今度こそ、進むべき航路を進もうと・・・。私たちの出帆です!
Part 2へつづく
古本聡 プロフィール
1957年生まれ。脳性麻痺による四肢障害。車いすユーザー。 旧ソ連で約10年間生活。内幼少期5年間を現地の障害児収容施設で過ごす。 早稲田大学商学部卒。 18~24歳の間、障害者運動に加わり、 障害者自立生活のサポート役としてボランティア、 介助者の勧誘・コーディネートを行う。大学卒業後、翻訳会社を設立、2019年まで運営。 2016年より介護従事者向け講座、学習会・研修会等の講師、コラム執筆を主に担当。