認知症に光を。継続と絶え間ない模索が生み出す「希望ある社会」

認知症介護指導者として認知症教育・啓蒙活動に携わる株式会社土屋・取締役の高浜 将之。彼が介護を志すまでには、突き抜けた兄の影響がありました。社会と向き合い、自らを省み、新たな道を模索する高浜の過去と現在。一つの物事を追求する中で生み出された「信念」は、高齢者介護に従事する者の指針となり得るはずです。

信仰から依存へ。いつの世も変わらぬ兄弟の関係

(有)のがわ・代表取締役、(医)つくし会・統括責任者として、長らく高齢者介護に携わってきた高浜 将之。彼は株式会社土屋・代表取締役の実弟。現在は土屋の取締役として、会社の新分野開拓に大きな力を発揮しています。

株式会社土屋の高齢者介護事業を担う高浜ですが、今の自分を作るまでには、兄の影響も大きかったようです。

高浜 「生まれは東京都昭島市。幼い頃は2K風呂なしの家で、家族四人、ぎゅうぎゅう詰めで暮らしていましたね。プライバシーなんてほぼない生活です」

4歳上の兄は、小さい頃から勉強も運動もでき、一方高浜は妙に頑固で、勉強には興味がなかったとのこと。けれど、劣等感を抱いていたのは、実は兄の方だったと言います。

高浜 「父が固い人間で、兄は父に絶対服従だったんですよね。けれど僕は全く違って、平気でおちょくっていました。甘え上手で、世渡り上手なんです。そういう面が、兄は羨ましかったのかもしれないですね」

そんな高浜は、母親に怒られると「死んでやる」と2階から飛び降りようとしたり、車が通る道路にわざと寝転んでみたりと、なかなかのわんぱくだったよう。ところが小学1~2年のある日、TVを見ていて、突如として信仰に目覚めます。

高浜 「自分が生きているのは、先祖が命を繋いでくれていたからなんだ、ということに突然気づいたんです。『先祖を敬おう』と思って、大仏の置物をすごく大切にして、毎晩布団に包んで寝ていました。けれど中1の春、兄が僕の友達にそれを暴露。その時、僕の『ご先祖様』信仰は消滅しました。当時、兄は高校に馴染めず、苦しい時期だったらしくて。友達と楽しんでいる僕が羨ましかったみたいです。でもひどいですよね(笑)」

高浜はその後、ゲームをしていないと気分が落ち着かない、いわゆる依存症状態に。

高浜 「多分、『ご先祖様』信仰は、僕の中のすごく大切な隠し事だったと思うんです。父はお酒が入ると……という人でしたし、僕も兄には絶対逆らえない関係だったので、気楽そうに暮らしていても、実はそうでもなかったのが、我が家だったのかもしれない。そんな中で、この信仰は、生きていくには必要なことだった気がします。心の支えがなくなったからゲームに走ったのかなと」

高浜が依存状態から抜け出すまでには、17年の歳月を要しますが、まずは高校時代。

卒業後にやっと勉強し始め、受験に臨んだとのこと。

高浜 「モデルケースの兄がゆるゆるの生活をしていて、なめてたんです。兄は卒業後、ニート状態に。2年目にして初めて受験、大学に入ったんです。なので、僕もそんな感じでいいだろうと。卒業して2年目に合格しましたね」

明治大学文学部史学地理学科に入学した高浜。専攻は中世スペイン史。宗教や人種問題で戦争が引き起こされる時代を学ぶことで、相互理解や共存へのきっかけを考えたかったと言います。その想いは、後の高浜の介護人生にもつながるものでした。

911テロが壊した、「金があればいい」という幻想

大学に入学した高浜ですが、2年次に大きな出来事が。父が病に倒れ、経済的に苦しくなります。

高浜 「バイトを掛け持ちして、毎月5万円ほど家に入れました。兄は僕にプレッシャーをかけた上、『自分も家にお金を入れる』と休学したものの、結局20万くらいしか入れず、代わりにさらに借金を負っていましたね(笑)。そんなこんなで、僕は就職活動もせず、卒業後に超ブラック企業に入ってしまいました」

良くも悪くも、社会常識を教えられずに育ったという高浜。こうしなければいけない、というプレッシャーなどはなく、卒業してから就職を試みたので、初めて新卒枠で受けられないことに気づきます。

高浜 「その職場は給料の高さだけで選んだのですが、そのうちこの会社はお客様から訴えられるだろうなと思っていましたし、実際訴訟になっていました。自分は退職した後の話ですが」

2か月で退職した高浜ですが、きっかけは9.11。同時多発テロでした。

高浜 「弟って基本的に順応性があるので、ブラック企業でありながら、それなりに馴染んでたんです。そんな時、9.11の、あの衝撃的な映像を見たんです。『何が起きてるんだ』と。TVで瓦礫を拾う消防士たちを見て、ブラック企業で人を騙すような仕事をしている自分を顧みて、『俺はこのままじゃいけない』と思いました。
ブラック企業で働き続けるには、そこの論理に乗っかって、考えないことがすごく重要。迷い出すと、もう無理です。それで退職を」

当初、テロに憤りを感じた高浜。しかし、その後の戦争で、無関係の市民が何万人も死んでいく状況を見るうちに、難民や困っている人を支える仕事がしたいと強く思い始めます。

高浜 「とはいえ、英語もPCもできないので支援NGOには入れない。でも、支えが必要な人は、社会的マイノリティです。そうした側に立って仕事をすることを考えたときに、その時の自分にできることは介護だと思ったんです」

そうして高浜は2002年8月、介護職になることを決意。ホームヘルパー2級の資格を取得して、介護老人保健施設に就職しました。

高浜 「その大型施設で一から経験を積ませてもらいました。色んな人と関わって、数をこなして。初めは利用者さん達と関わるのがシンプルに楽しかったんですが、途中から違和感を持ち始めました。
施設は収容所的だと感じたんです。『トイレの時間です』の掛け声に十人ぐらいが並び出す。家族が差し入れを持ってきても認めてもらえない。利用者と向き合うどころじゃない。なんなんだろう、と」

2年後、高浜は施設を退職。小規模な事業所を求め、2004年11月、(医)つくし会 グループホームのがわに就職します。奇しくも、兄も介護の道へ。

高浜 「兄が『俺も介護しようかな』と言い出した時には、『俺の領分に入ってくるんじゃねえよ』と。僕には、兄からの関与に対する強烈な拒否反応があるんですよね。兄にプレッシャーを掛けられるのは、もっとも嫌なこと。兄は『俺は障害介護だ』という感じで、障害者運動にのめり込んでいきましたね。ただそのストレスからか、アルコール依存症が悪化したんじゃないかと……」

兄に拒否感を持ちながらも、気づくと誘導されているという高浜ですが、二人はそれぞれの道を歩みつつ、高浜はグループホームで介護の学び直しをします。

ただの「お世話」ではない、共に「生きていく」介護

グループホームのがわで介護にどっぷりとつかる日々。その中で、高浜はヘルパーの在り方について想いを巡らせます。

高浜 「施設で働いてると、そこの感覚が染みついてしまう。ご利用者に『危ないから、これしちゃだめ』と言う背景には、『施設では職員が主導権を持つものだ』という想いが強くあります。ある種の支配欲ですね。でもそれではいけないんだと。
グループホームでは、高齢のご利用者が色んなことを自発的にします。施設では出会えなかった生き生きとした姿がそこにあって、学ぶことが多かったです」

高浜は、上司であるホーム長の下、現場のみならず外部の事業者とも関わりながら経験を積み、2006年に30歳で主任の職を任されます。介護福祉士の資格も取得し、17年続いたゲーム依存症からの脱却も果たしました。

高浜 「主任になって、仕事も忙しかったですし、社会的にも評価がすごく上がってきた。それで自己肯定感が一気に高まり、自分に誇りを持てるようになったことが、ゲーム依存症からの離脱につながったと思います」

2007年には、グループホームのがわのホーム長に就任しますが、ほとんどを現場で過ごし、管理業務は基本的に時間外に行っていたと言います。

高浜 「激務でしたね。ヘルパーが足りないときは日勤からそのまま夜勤とか、夜勤から引き続き早番とか。グループホームの管理者はスタッフと接する時間が長いので、人間関係の問題もいろいろ起きます。マネージメントは大変だし、病んでいる人も結構いて、何度か『刺されるんじゃないかな』と身の危険を感じたことも。けれど、あの時期はすごく重要でした。そういう人の対応を散々する中で、『どうとでもなる』という自信は付きましたね」

高浜はスタッフと向き合い、信頼関係を作り、勤め続けてくれるためには何が必要かを考えながら、入居者により良い生活を送ってもらうために心身ともにハードに働きます。

そして、2010年に結婚。2011年には、介護事業統括次長に就任します。

高浜 「つくし会には事業所がいくつかあって、のがわの管理者も務めながら、複数の事業所をまとめる立場になりました。この頃には仕事も大分落ち着いてきたものの、逆に体調をひどく壊しました」

2、3か月に1回ほど、体がものすごく冷えて嘔吐を繰り返し、動けなくなることが1年ほど続いたとのこと。しかし2012年には長女が誕生、八ヶ岳への移住を考え始めます。

高浜 「3.11が大きかった。あの1か月後に被災地支援で女川町に行ったんですが、あまりの悲惨さに、その後フラッシュバックが起こるようになって。それで移住を決意しました。当たり前だと思っていた日常がそうでなくなる現実を目の当たりにして、家族で過ごす時間や環境をもっと大切にしたいと思ったんですよね」

高浜は移住を見据えて、独立も視野に、介護事業統括責任者に就任し、認知症介護指導者の資格を取得。拍が付いたところで、いざ上司に退職を打ち出すと、なんと上司が先に退職。やむなく会社に残ることに。

高浜 「つくし会は属人性が割と強いんです。上司が辞めて、僕まで辞めると会社が回らなくなってしまう。それで理事長に引き留められて」

高浜は、長男誕生の2年後、一家で八ヶ岳に移住。ある程度自由の利く(有)のがわの代表取締役になり、つくし会の統括責任者として、八ヶ岳と東京を往復する日々を送ります。

「ありがとう」と言われるケアから「ありがとう」を言う支援へ

南アルプスを窓から眺め、美味しい珈琲を味わいながら、家族でにぎやかに、穏やかに過ごす高浜。そんな中、兄を巡り、また高浜に大きな変化が。

高浜 「兄が会社を設立すると言いだして。もちろん止めましたね。我が家では、兄は全く信用されていないんですよ。借金を背負って、そのうちアルコール依存症になって自己破産してという不肖の兄です。ようやく会社勤めをして生活も安定して、子どもも生まれたのにそれを捨てるのかと。勘弁してくれよと(笑)」

しかし高浜は、兄の確固たる信念を受け止め、相談に乗り、応援します。そして2020年10月、兄が株式会社土屋を設立して間もなく、取締役に就任。20年に及ぶ高齢者介護の知見を新会社にもたらしていきます。そんな高浜の介護観とは。

高浜 「大事にしているのは『ありがとう』を言う支援。高齢者介護では、ヘルパーがご利用者に『ありがとう』と言われるのが一般的です。介護職はそれで喜びますが、確かにこの言葉は言われると気持ちいいんです。だったらご利用者に、『ありがとう』と言われる側に立ってもらおうよ、と」

高浜はグループホームのがわで、ご利用者に肩揉みをしてもらっていたそう。そして、『気持ちよかった!ありがとうございます』と感謝すると、ご利用者は自信を取り戻すと言います。

高浜 「認知症状態では自信がなくなっていくんです。社会の中では、勉強できるようになってきたねなど、何かを獲得することで評価されます。でも老いたり、認知症になるということは、色々なものを失っていく過程です。だから自信を回復させることこそが認知症ケアだと思っています。
のがわでは、ご利用者が料理したり、買い物に行ったり、ごみ拾いしたりと、地域の中で活躍してもらう活動をしていましたね。ゴミ拾いしていて町の人に『ありがとう』と言ってもらうと、みんなすごいやる気になります(笑)」

高浜は現在、株式会社土屋の子会社となった「のがわ」を運営しながら、ホームケア土屋関東の1事業所にすべく、引継ぎにも力を入れています。

高浜 「以前、自分が管理者を辞めて1年くらい後、気づいたらグループホームがボロボロになっていたんです。スタッフは続々と辞め、ケアの質が下がり。で、そのことに対する反省が強くて。
のがわの運営は僕しかしていないので、例えば僕が死んだらご利用者の生活に大きな影響が出る。そんな状態は良くないと思って、組織的な運営にするべく、動いています」

また高浜は、高齢者を地域で支えるという想いの下、高齢者の在宅限界をどう伸ばし、地域での生活をどう作っていくかに心を砕いています。そのため、グループホームの推進担当として、行政の出す公募を勝ち取るべく、準備を進めています。

そんな高浜が考える会社の未来とは。

高浜 「属人性を排し、組織立った会社にするのが重要だと思います。それが、会社として継続的に安定的にご利用者にサービスを提供できる体制につながると考えています。そのためにもPDCA をきちんと回すことは求められますね。計画・実行・検証を繰り返し、できている所、できていない所を明確にすることで、たとえ人が入れ替わっても、スムーズに運営できる。
また、それぞれの専門知識を活かした組織作りも必要。例えば、介護業界ではヒヤリハットを減らすことが非常に重要ですが、その前提として安全規則が確立されていなければならない。安全規則というのは、絶対してはいけないことをきちんと決めておくこと。つまりルールを作ることですが、専門知識のある人がそれに携わる。これが組織を作るということだと思います。そして、理念に基づき、介護だけでなく、社会課題の解決を目指す会社になって欲しいですね」

認知症の介護に長らく携わってきた高浜 将之。高浜の経験と、そこから培われた知見は、高齢者介護分野に力を入れる株式会社土屋にとって、大いなる力となっています。年老いても、日々を豊かに過ごせる社会を目指し、高浜の奮闘はこれからも続きます。

関連記事

TOP
TOP