介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

寺内 勝

東北ブロック ブロックマネージャー

この出会いの意味から、逃げない。今にフォーカスする働き方

 《interview 2024.4.30》

ホームケア土屋で、現在、東北ブロックのブロックマネージャーを務める寺内勝(てらうちまさる)。生まれ年を尋ねると、「天保元年生まれです」――そんな受け応えから寺内のインタビューは始まりました。“小さい頃からお調子者”と話す寺内ですが、さまざまな仕事や立場を経験した寺内の中で一貫していたのは「喜び」、そして「手助け」というキーワード。楽しんで働く、人との違いを面白がる――そうして仕事と関係性を重ね、繋いできた寺内の、“人と共に歩む技”に迫ります。

CHAPTER1

技、その1。
人と人の間に立って、行き来する“技”を身につける

販売の仕事から印刷会社の営業、そして人材派遣の会社へ。

茨城の古河市で生まれたという寺内。

寺内「僕は一人っ子で、どこにでもいるような――冬でも半ズボンを履いてる小学生でしたね。中学校に入って野球部に入り、部活で一生懸命やってきて、ちょっと体も引き締まって。高校では、あんまり力を入れてませんでしたが、陸上部で槍投げをやっていました。

僕の世代はいわゆる“ヤンキー世代”で、昔の映像でよく流れる――角刈りとかパンチパーマとか――あのまんまのイメージ。その中で僕は、格好はヤンキーっぽいけれど、お調子者的な存在でしたよ。人前に立つのは苦ではなかったので、修学旅行があると舞台に出てはモノ真似をしてました」

20歳まで地元で過ごした後、専門学校に進学。経営マネジメントを学びます。その後、就職。

寺内「その頃(1980年代後半)の就職先というのは大体、旅行会社か商事会社か、アパレル系か――特にアパレルが人気の時代だったんです。経済も元気があって、僕はセゾングループの小売部門に入社して、カジュアルショップと呼ばれるジーパンやトレーナー、革ジャン等を売る洋服屋さんで店長をしていました」

勤めていた7、8年の間に東京、広島、千葉等、各地で勤務。その後、「人と接する仕事がしたい」と、印刷会社の営業へ転職します。

寺内「印刷会社の営業は、簡単に言うと雑誌社から原稿をもらって、印刷現場で文字を打ち込んで、その原稿を直しては印刷現場まで持って行って、最後は現場の職人さんに修正をしてもらって、製本する。何せ、まだパソコンが主流ではない時代ですから、僕はその間を足で行ったり来たりして、やり取りをしてました。

現場にいる職人のおじさんたちというのはなかなかクセがありましてね(笑)。本の発売日は最初から決まっているので、途中で直しがたくさんが入ると、営業の人が大変になってくるわけで、『今日、原稿を渡して、2日後にはクライアントが初校持ってきてと言ってます』と本の仕上がりを待ってる同業の人がたくさんいるんです。

その時に、現場のおじさんたちに好かれてないとクライアント提出用のゲラをもらえないんですよ。みんな自分のゲラをもらうのに必死なので、『そんなのできないよ』とおじさんたちにあしらわれながらも、僕はうま~く仲良くなって、本を仕上げてもらうという技を身につけました(笑)。

たまに缶ジュースを持っていて、『余分に買っちゃったんで』なんて言ってジュースを渡して。そんな社内営業が必要でしたね(笑)。でもそうやって仲良くなると、職人のおじさんたちは、人情に熱い方も多くて割と無理を聞いてくれたんですよ」

その後、寺内は人材派遣の会社へ。

寺内「これまでの仕事の中では、人材派遣が一番長かったですね。20年ぐらいかな。人材派遣の仕事というのは、『営業職を求めてる』人と、『経理の人を探してる』会社のあいだでのマッチングになってくるんです。

会社ごとの風土があるので、そこに合う人を探したり、あとは部署ごとに社員の方がいらっしゃいますから、人同士の相性も関係ありました。ホームケア土屋の仕事も、クライアントとアテンダントのマッチングがすごく大事になるんですが、当時もマッチングの難しさは感じていましたね。

たとえばお見合いだと、何日か会って、お互いに話をしたり、趣味が合うかな、なんて考える期間があるんですが、人材派遣の場合は待ったなしで、すぐ勤務。そこが難しいところで――派遣スタッフからは『一緒に働いている人が◯◯で、聞いていた状況と違う』、クライアントからは『退職するから派遣社員を入れたのに3日で辞められてしまったので困る』とかさまざまなクレームに対応する業務も多かった。

でも、嬉しかった部分もあって、正社員だと敷居が高い大手会社とか、中途採用でも正社員での起用では難しくても、派遣社員としてだったら大手企業で働けることもあった。そういう大手企業を希望されていた方から、派遣先が決まった時に『ありがとう』なんて言葉を頂いた時は嬉しかったですね」

CHAPTER2

技、その2。
最初にその人をよく観察。それから、その人に合ったコミュニケーションの仕方を使うこと。

“我の強い”職人さんやおじさんたちの中で揉まれて、見つけたコミュニケーションの方法

所属していた人材派遣会社では、その後、何回か異動。アナログ放送から地上デジタル放送(地デジ化)への周知活動や東日本大震災被災者向けの就労支援事業、介護職への就労支援事業、女性活躍推進事業等、いわばその時代で必要とされる行政主導のプロジェクトを、委託を受け、立ち上げるという仕事を数多く手がけてきました。

寺内「プロジェクト自体はゼロスタートなので、人の採用からはじめて、運営に関わったり、一緒に働く人たちの教育にも関わりました。採用は現地でしますから、場所が山梨だったら山梨の人と、金沢だったら石川県の人と。大体は僕一人と、あとは全く知らない人たちで、いろんな人がいて面白かったですよ。

他の業務としては予実管理ですね。予算は最初に決まっているので、その中で運営費や管理費、人件費をどう使うか――6対4等、最初から割合が決まっていたので、そのバランスをいかに崩さずに経費を使っていくかを考えるのも面白かったですね」

知らない場所に飛び込んでいくのは、寺内が得意とするところだと言います。

寺内「僕は人に話しかけるのは苦ではないんですよ。今は危ないのであまりやらないですけれど(笑)。

当時は、地方にいたこともあって、電車のボックス席にガラが悪そうな3人が座っていても、『空いてる?』なんて聞いて座っちゃったりしてましたし、夜に飲み屋街を歩いて、店がわからなくなったら『こういう店知ってます?』なんて話かけたりもしたし。全然、気にしないタイプなんです」

石川県で勤務していた地デジ化のプロジェクト当時、寺内は40代。そこでは、地方テレビ局のO B等、20以上も年の離れた“我の強いおじさんたち”と仕事をしてきたといいます。
どんな人ともコミュニケーションが取れる、寺内流のコツは、どんなところにあったのでしょうか?

寺内「当たり前ですけども、常に挨拶は自分からしていましたね。『おはようございます』とか『お先に失礼します』とか。

全員に自分から、誰よりも最初に言う。それから、やってもらったら必ず『ありがとうございます!』。大げさに言うんですよ。『助かりました!』『◯◯がなくて、俺、死にそうだったんです』なんてよく言ってましたね、調子いい感じで(笑)。

行く先々で、本当にいろんなタイプの人がいましたし、人として<合う・合わない>ももちろんあるので、最初はよく観察して、その人のパーソナルスペースを把握していました。

真面目に喋った方がいい人もいれば、冗談っぽく話しかける方が嬉しそうにする人もいる。最初に相手を見極めるのが必要で、それからその人に合ったコミュニケーションの仕方を使う。それは今も好きで、電車に乗ってる時は今も人の観察をしちゃってます。

洋服の販売をしてた時も『この人、どういう服を求めてるのかな』とウロウロしてるお客さんの姿を見て、『あのコーナーによく行くな』と観察して、『デニムをお探しですか?』と声をかけてみると、『そうなんです』って言ってもらえたり。

でも、思い返してみると、僕が育った家は縫製工場をやっていて、ちっちゃい時から“行員さん”と呼ばれる女性が周りにいっぱいいたんです。大勢の人の中で、自然に人を観察する癖がついたのかもしれないですね」

ところで『我の強さ』というのは、こと日本では嫌厭されがちです。
寺内にとって“許される我の強さ”、そして“許されない我の強さ”とは、どんなところなのでしょうか?

寺内「そうですね。我の強さには、『プライドが高い』という部分がある人も多いと思いますし、年齢を重ねた上での我の強さと若い時の我の強さもまた違うかもしれません。育てられた環境でも違うと思いますし。

ただ、僕の中でオッケーな『我の強さ』は、自分らしさを大切にするという意味で我の強い人。あと、他の人と違っていても、自分の思ったことを素直に言える人は『我が強い』という部分もあるかもしれませんが、いいかなと思います。

でも、強引に自分の意見を通したり、人を傷つけるような、感情のコントロールができないという面での『我の強さ』は許されないかなと思いますね」

CHAPTER3

技、その3
障害福祉への熱い思いと、介護ベンチャーの自由な雰囲気を味わう。

「重度訪問介護」の仕事との出会い。障害を持つ人たちへの熱い思いを共に

その後、2019年、寺内は土屋の前会社へ入社。重度訪問介護の仕事と出会います。

寺内「当時は就労支援B型やデイサービス等の福祉関係をいろいろ受けて、仕事を探していた時でした。その中でも訪問介護という業種は初めてで、たまたま採用サイトから依頼が来て、面接をしたのが高浜敏之さんだったんです。

その時に障害を持つ人たちの考え方や障害を持つ人たちに対する姿勢というものを初めて聞かせてもらいました。僕はそれまではどちらかというと、ビジネスライクな人と接することが多かったので、高浜さんから話を聞いて『これだけ障害者に対しての熱い思いがある人もいるんだ』と思ったのを覚えてます。

加えて、前会社のオフィスで面接をしたんですが、私服で、短パンの人がいたり、自由な雰囲気で働いてる人が多いな――と感じたんですよ。今までがスーツにネクタイという出立ちの人ばかりの会社で働いてきたので、職場の雰囲気も真逆だった。介護ベンチャーのそんな風土も面白いなぁと思いました」

そして、株式会社土屋の創業とともにホームケア土屋へ。

寺内「僕は最初、関東地方で勤務していました。他の地域は、すでにあった重度訪問介護(重訪)の事業所はそのまま土屋に移ったんですが、関東地方は事業所の立ち上げからのスタートだったんです。

当時、東京・板橋の事業所にいて、4、5人の規模からはじまりました。最初に東京事業所が立ち上がり、次に埼玉、そのうち、当時のメンバーは神奈川や千葉、茨城の立ち上げに移っていって。僕は埼玉に新しく事業所ができるということで、2022年に埼玉事業所の管理者に異動になりました。

その後、関東ブロックのエリアマネージャーとして、四期は関東ブロックのブロックマネージャーに就きました。いろんな地域を見たり、各地の事業所の方たちと関わったり、という話になると、東北ブロックのブロックマネージャーになった2023年の五期からですね」

CHAPTER4

技、その4.
人との出会いと喜び。楽しく仕事することを大切にする。

仲間と、楽しく仕事をするためにーーその人のいいところを伸ばすこと、そして喜びと楽しさを多く持つこと

寺内と話していると、会話はリズミカルに進み、「コミュニケーションの達人!」といった印象を受けます。

寺内「僕は机に一日ずっと座っているような経理や総務の仕事は合わないので、販売や営業――要は“人にものを勧める喜び”というか、コミュニケーションを取って商談や話をするのが好きでした。そういう意味では、業界は違っても、職種的には一致していたと思いますね。営業職は実際に肌に合っていましたし、相手も企業の人なので、無理難題を言われることもありましたけど(笑)。でも楽しくやってましたね。
僕は、とにかく仲間とは『楽しく仕事をしたい』という思いをずっと持っています。野球やサッカーといったスポーツもそうですが、やっぱり楽しくないと仕事のパフォーマンスも上がらないし、ミスも多くなる。いい案も浮かんでこないだろうな、と思いますし。今もその思いは変わりませんが、ブロックマネージャーという立場なので、時としてきついことをいわなくちゃいけないことはありますよ」

ただ、「今も仕事の上で大切にしていることが僕にはふたつある」と言います。

寺内「僕は昔から『一期一会』という言葉が好きで、この言葉を非常に大切にしています。どんなクライアントでも、仕事をする仲間でも、『何かの縁があって一緒に仕事をすることになった』と思っています。
どなたと接するときも2つ、大切にしていることがあります。まずひとつは、その方の人格や今までの生きかたを否定せずに『その人のいいところを伸ばしてあげよう』ということ。
もうひとつは、人間には喜怒哀楽がありますけれども、そのバランスを意識してなるべく「喜」と「楽」――喜びと楽しさを多く持つようにしているんです」

接客業から仕事をスタートした寺内ですが、彼にとっての仕事の原点は、どんなところにあったのでしょうか。

寺内「僕にとっては、人に何かモノを勧めた時、相手が生き生きとして喜んでくれる――それが喜びだったのかなと思ってます。

たとえば洋服だったら、『この服にはこんなシャツが合いますよ』なんて提案をして、『いいですね』と相手が喜んでくれたり。営業の仕事だったら、『こういう風にしてみたらどうですか』と提案をした時に『じゃあ、やってみようかな』なんて喜んでくれたり。

振り返ってみると、専門学校時代に上野のアメ横で洋服屋の販売アルバイトをしていたことがあるんです。アメ横のガード下って、小さな商店が集まっていて、活気があって、そこでの接客がすごく楽しかった。

年末年始になると、おせちや乾物、魚介類を買いに来る方も多いので、アメ横はどの店も稼ぎ時になるんです。僕が働いていたお店も、母体が魚屋さんで、年末だけ普段一階で売ってる洋服を二階に片付けて、一階を魚屋さんにしちゃうんですよ。

そこで僕も魚を売っていました。『へ――、らっしゃいらっしゃいらっしゃい……』ってお店の人の声を真似してやりすぎたらすごい喉潰れちゃってね(笑)。それは面白かったな。その時の経験が、販売や営業といった“人とコミュニケーションをする仕事をしよう”と思った原点かもしれませんね」

CHAPTER5

技、その5。
“人”そのものに興味を持つこと。互いにパートナーとして歩む関係を築くこと。

ひとりのクライアントとの出会いが、その後の「クライアントー支援者」という固定化された関係性を変えることになる

では、介護や福祉という関係性の仕事において、寺内が大切にしていることはどんなことなのでしょうか。

寺内「僕の中での決めごとは、新規の契約の際に、クライアントやご家族に『私とクライアントは、どちらが上でも下でもないんですよ』ということを必ずお伝えしています。『私も困ってることは正直にお伝えしますし、こちらに落ち度があれば素直に仰ってください』と。

フィフティーフィフティーの関係である――というスタンスを常に持っていますね。もう何年も前になるんですが、自分の中で、飛躍のきっかけというか、一皮むけるきっかけになったクライアントさんがいらっしゃいました。

ご自宅に監視カメラがたくさん付いていたお宅だったんです。クライアントの娘さんがそのカメラを常に見ていて、アテンダントが何かするたびに娘さんから電話がかかってきたり、理不尽に思えるクレームを言ってくる方でした。昼夜を問わず、クレームや罵声を浴びせられて、僕も正直、最後の頃には呆れてしまって――話半分で聞いていたんですよ。

でもある時、娘さんから『介護の仕事なんてバカでもできるんだから、誰でもよこしなさいよ』と言われた。

その時、僕もスイッチが入っちゃってね。『そんなに嫌われてるんだったら、もう支援に行かない方がいいかもしれませんね』なんて返してしまったことがありました。そしたら娘さんも『いやいや、そういうつもりで言ったんじゃない』と仰ってーー今まで誰も開けなかった扉が開いた瞬間でした。

その方は“クレーマー”として他の事業所にも認知されていて、敬遠されていて、実際に支援の手が足りなくなっていました。でも、それはまわりが“あの人はクレーマーだ”と見るから、そうだった。お互いに本音で向き合った時、“クレーマーとして”の言葉ではなく、娘さん自身の言葉が出てきたんです。

だからこそ、クライアントも我々も同じ地平で切磋琢磨できるパートナーとしていなくちゃいけないーーとその時に思ったんです。『どちらがお客さんということではなく、持ちつ持たれつの関係でやっていかないとうまくいかない』と痛感したんですよ。

とはいえ、僕やアテンダントは健常者で、クライアントには障害を持っている。ご家族にはご家族の苦労もある。

もちろん、体や障害の部分で同等ではない部分は、こちらがお助けするんですけども、アテンダントとクライアントという関係性の面では同等である、と。今も最初に『パートナーとしてやっていきましょう』と話すようにしているんです」

2023年11月から、青森、岩手、宮城、山形、秋田、福島、新潟の7県のブロックマネージャーとなった寺内。
役職が変わったことで、目にする景色はどのように変わってきているのでしょうか。

寺内「そうですね。基本的にはホームケア土屋の業務内容そのものは、どこに行っても同じなんです。でも、仕事のやり方という面では、人それぞれ出てくるものが違うので、そこが非常に面白い。人によってカラーも違うし、指導の仕方も違う――。

そのバリエーションがいろいろ見えてきたことが、自分にとって見える景色が変わってきたところかなと思っています。

例をあげると――事業所を立ち上げる時、<攻撃が上手い人>と<守備が上手い人>という言い方をすると、『クライアントの小さな声をいっぱい拾って、クライアントを増やそう』という積極的な目線からはじめる人と、『まずはコンプライアンス等の内部統制の部分からつくっていこう』という守備的な目線からはじめる人、いろんなタイプがいるな、と思うんです。

誰もが正しいやり方をしてるけれど、正しいやり方というのは1通りじゃなくて、2通りも3通りもあるんですよ。バリエーションというのはそういうことですね。

ただ、統一してるのは、『小さな声を聞く』というところ。これはどこの事業所、誰に対しても一緒なので、根っこはみんな一緒。ただ、景色の色がね。それぞれの事業所や、誰がやるかでちょっとずつ違うな、という感じですね」

自身のタイプを尋ねると、「どちらかというと僕は、本人に考えてもらいたいので、1から10まで手取り足取り教えるというより、6か7ぐらいまでやった後、『ちょっと考えてわからなかったら言ってね』という感じ」と話す寺内。

障害福祉の仕事に携わるようになって5年。変わらぬ思いの中で、今、感じている仕事の喜びは――。

寺内「僕自身は『誰かの役に立ちたい』というよりは、その人たちの生きている喜びを一緒に、共有したい。介護の仕事は、クライアントはもちろん、ご家族も関わってくるので、その人たちとのコミュニケーションの部分ですね。やっぱり、“人そのもの”に興味があるんです。

今だったら、クライアントに対しては、快適で幸せな暮らしができている姿に立ち会えること。社員に対しては、クライアントのために自分たちが何ができるかをみんなが真剣に考えて向き合っている姿を見ているのが嬉しいなと思います。

商品が“モノ”だったら、『売っちゃえば、そのあとはなんでもいい』みたいな人もいるかもしれない。でも我々の仕事は続けていくことの方が大事なのでね。真剣に、最後まで続けていかないと。我々が関わっているのは、“モノ”ではなく、命なので――」

CHAPTER6

技、その6。
時代の変化に合わせていくこと。そして、介護の仕事の可能性に思いを馳せること。

介護という人頼りの仕事は、これから何と出会い、どんなふうに変わっていくんだろう。

そんな寺内に、会社の、そして介護業界の“これから”を尋ねました。

寺内「やっぱり時代の変化に合わせていくこと――スクラップアンドビルドじゃないですが、壊して、また新しくつくるという勇気や決断ができる会社でないと、これからは伸びていかないのかなと思います。

今は、大きなスーパーや百貨店も閉鎖していく流れになっているし、ネット媒体でいろんなことができちゃう。メルカリやウーバーイーツのように、便利や時間を買うような世の中になってくるのかなという感じはしますね」

一方で、介護の現場視点では――。

寺内「今、ニュースやテレビを見ていると、障害を持つ方が家にいたまま、遠隔でロボットを操作してコーヒーを入れたり、運んだり、その場所に行かなくても、仕事ができる時代が少しずつきてると思うんです。

例えば、支援現場で急に人が必要となって、アテンダントや看護師がすぐに駆けつけられない時に遠隔でご家族にアドバイスしながら解決できることもあるんじゃないかとか――。もちろん、まだまだ先の話だと思いますが、そういう時代がいつか来るのかもしれませんね。

そんな未来を予測する一方で、介護の仕事はまだまだ3Kのイメージを払拭できていないとも思っています。重訪という職種に限って言えば、アテンダントは長時間勤務で休憩が取れない状況もありますし、長時間の見守りもある。そこはこれから変えていかないといけないですよね。

経営面では、土屋という会社の運営が国や地方自治体の税金でほとんど賄われているので、民間企業とは利益を生み出す構造が違っていて、やれることにどうしても制約ができてしまう。でも今後、自力で利益を生み出せる部分を増やしていければもっと、会社としての可能性も出てくるんじゃないかなと思います」

CHAPTER7

技、その7。
“誰かの手助け”をすること、そして適度なストレス。仕事を通して社会に関わっていること

これまでしてきた“手助け”の経験を、未来の子どもたちへの“手助け”につなぐ。

さて、インタビューの最後に、寺内自身の“これから”を尋ねました。

寺内「僕はもうカウントダウンも迫っていて、そろそろ引退しなくちゃいけないので、なんとも言えないんですが(笑)。

ただ、今までの仕事を振り返ってみても、やっぱりファッションを楽しみたい人の手助けや、本を出したい出版社の手助け、仕事を探している人の手助けや、介護を必要としている人の手助け――要は“手助け”がいつもキーワードでついてきました。

その“手助け”の部分でいうと、これからは未来を見ている子どもたちの“手助け”――医療的ケア児や、困窮や虐待等で困っている子どもたち――ができればなぁという思いがあります」

「僕自身は、すみっこで粛々と生きていければ、とは思っているんですが」と笑う寺内。

寺内「でも、今と変わらず……ですかね。今のように生きる喜びとか、社会にかかわっているということが実感できる人生が送れればいいのかなと思います。

『オギャー!』と生まれてから、僕の人生は始まってますけれども、仕事はその人生の中の、一つのカテゴリー。生きていくには、当然ながら、お給料をもらわないといけないという面が仕事にはありますが、僕にとっては仕事をすること、そして社会と関わっていることで生きてる実感が湧くんです。

仕事を引退したとして、朝起きて、家にいて、夜が来たら寝て――みたいな一日だときっと物足りない。人間としてせっかく声も出せるし、考えられる。熱い、冷たいっていうことも体感できる。

多分、ストレスがゼロの状況は僕にとってはつまらないんですよ。僕はストレスってそんなに嫌いじゃないので。多すぎると嫌だけど、ストレスゼロで生きていくのは嫌だな、と今は思います」

楽しむこと、喜びを共有することを何よりも大切に生きてきた寺内。
その発言は、人との違いを面白がり、さまざまな人の中で揉まれてきた人特有のタフさを感じさせます。そんな寺内の、休日の過ごし方は……。

寺内「休みの日は、最近は昼に食事する場所を探すのが好きですね。焼き肉、寿司、中華料理、イタリアン――いろんなお店に行って、自分が好きなお店を見つけることをちょこちょこやっていて、いくつか見つかってきたんです。

お店で大事なのは――これは飲食に限らず、床屋さんや歯医者さんもそうですが――その場所にいる時の居心地の良さですね。ここに尽きます。

『ここにいると楽だな』とか、『ぼんやりできるな』とか。よく旅行に行って帰ってきて、『やっぱり家が一番いいわぁ』なんて言う人がいますが、それと一緒で、飲食のお店も雰囲気とか、お店の対応もふくめた居心地の良さに基準がいっちゃいます。

あと食べ物だと僕は餃子が好きなので、お店の餃子が自分の好みに合うかどうかはかなり大事です(笑)。

この前、『孤独のグルメ』で餃子に、お酢とコショウをつけて食べていたので『本当に旨いのかな』と思ってやってみたんですが、僕には合わなかった(笑)。やっぱり醤油と酢とラー油をうまく配合して、独自のタレを自分でつくって食べるのがいいですよ」

さて、そろそろインタビューも終わりに近づいてきましたが――寺内さん、言い残したことはありませんか?

寺内「そうですね。皆さんの人生で、僕のことを忘れないでいただければ、と思います(笑)。何十年経っても『あぁ、あんなおじさんいたなぁ』とか、『て』っていう文字を見たら『寺内って奴がいたなぁ』と思い出していただければ、僕は嬉しい(笑)。

もし重訪と出会っていなければ、今、インタビューも受けていないし、この仕事もやってない。今、一緒に働いている皆さんと会えたのも、全部が『縁だなぁ』と思うんですよ」


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