《interview 2024.9.26》
ホームケア土屋関東ブロックマネージャー、そして有限会社のがわ・有限会社コスモスの副社長を務める小川力信(おがわりきのぶ)。
20代で高齢者福祉に携わり始めた当初は「(仕事への)思いがなかった」という小川ですが、別れや出会いを通して、全力で人と関わることの喜びを育んでいきます。時に喜び、時に迷い、時にぶつかり――介護は、自分の心を動かし、人の心を動かす仕事。今も続ける小川に尋ねます。この仕事の面白さってなんですか?
介護事業部 ホームケア土屋 有限会社のがわ/有限会社コスモス
関東 ブロックマネージャー
介護事業部 ホームケア土屋 有限会社のがわ/有限会社コスモス
関東 ブロックマネージャー
ホームケア土屋関東ブロックマネージャー、そして有限会社のがわ・有限会社コスモスの副社長を務める小川力信(おがわりきのぶ)。
20代で高齢者福祉に携わり始めた当初は「(仕事への)思いがなかった」という小川ですが、別れや出会いを通して、全力で人と関わることの喜びを育んでいきます。時に喜び、時に迷い、時にぶつかり――介護は、自分の心を動かし、人の心を動かす仕事。今も続ける小川に尋ねます。この仕事の面白さってなんですか?
CHAPTER1
田んぼがあたり一面にあったり、川が流れてるようなところをずっと駆け回ってた
―子どもの頃のお話からお聞きしてるんですが、ご出身は大阪なんですね。
そうなんですよ。東京の品川で生まれたそうなんですが、生まれてすぐ、生後何日かで大阪に転居したみたいです。
小学4年生くらいまで大阪にいましたね。
父が転勤のある仕事だったので、大阪に10年住んで、また転勤で東京に戻ってきたみたいな感じです。
―当時はどんなことをして遊んでましたか。
虫を捕まえたり、魚を捕ったり、アウトドアでしたね。
私が住んでいたのは、奈良や京都寄りの大阪で、自然が多くてですね。田んぼがあたり一面にあったり、川が流れてるようなところだったんです。
そういう中をずっと駆け回ってました。エピソードとしては――ずっと左手にコオロギを捕まえたまま、他のことで遊んでて、気づいたらそのコロギが手の中で死んでたっていう――(笑)。
そういう思い出はありますね。そうやってずっと虫を捕まえていた記憶が強いです。
―中学、高校は?
中学の時にソフトテニスを始めて、全国大会までいったんですよ。
3年の時に県大会で準優勝して、初めて全国に行ったんですが1回戦で負けました(笑)。一生懸命、3年間、部活に取り組んでいた記憶がありますね。
でも高校でソフトテニスはやめてしまって、帰宅部に。「バイトしたいな」っていう気持ちが強かったので、学校に隠れて蕎麦屋のバイトをやってました。
―アルバイトは「お金を貯めて、何かしたい」っていう思いがあったんですか。
そうそう、お金を貯めて好きなものを買いたかったんです。
当時は僕、漫画収集がすごい好きで。めちゃくちゃ漫画読んでました。家に、漫画喫茶になるぐらい漫画があったんですね。
古本屋さんで漫画を買うんですけど、その原資は自分で稼がないと限界がくるので、ひたすらバイトして、漫画買って、家で読むっていうのを楽しみでずっとやってましたね。
CHAPTER2
もともとおばあちゃんが大好きだったので、「高齢者支援に進もう」ってサクッと決め込んだ
<老健時代 夏祭りで、太鼓を叩きたい方と一緒に>
―高校を卒業後は?
高校を卒業する時、大学受験をそもそもしたくなかったというか、大学に行く魅力をあまり感じなくて。
早くからバイトしてたっていうのもあるんですが、「早くお金を稼ぎたい」っていう思いの方が強かったんです。
当時、高齢者福祉って介護保険が始まる少し前で、未来が明るかったんですよ。
介護保険が始まったのが2000年なので、そのちょっと前ぐらい。ちょうど措置の時代というか、その頃の特養(特別養護老人ホーム)は給料もとても良くて、「介護で働いてる人たちって、お金ももらえてるし、人のためになる仕事だし、すごくいいよね」って言われていて。
僕はもともとおばあちゃんが大好きだったので、「これは高齢者支援に進もう」ってサクッと決め込んで、福祉の専門学校に入学しました。
―小川さんは小さい頃、“おばあちゃん子”だったんですか?
おばあちゃん子というよりは――“おばあちゃんが好き”でしたね。
小さい頃は大阪にいたので、夏休みとかまとまった休みの時に関東のおばあちゃんの家に行っていたんですよね。その時もおばあちゃんにやたらと可愛がられていた記憶があります。
中学からは関東に戻ったので、よくひとりでおばあちゃんちに遊びにも行っていました。サイダーとかお菓子とかくれるのが嬉しくて――お小遣いもくれましたし。
そういう記憶があって、「あ、おばあちゃん好きだな」と思って。「高齢者支援の仕事、どうかな」という話を親にした時も「食いっぱぐれないからいいんじゃない」なんて言ってもらえて。
―卒業後は、どちらに勤められたんですか。
ちょうど僕がへルパー1級の実習で行った介護老人保険施設(老健)が、元々50床だったところが倍の100床ぐらいに増改築することになって、スタッフ募集で実習生に声をかけていたんです。
それで、そのままそこに就職をしました。
ただ僕は、当時、あんまり真面目じゃなかった。パチンコばっかり打っていたんです(笑)。介護の仕事って「いつでも就職できる」という感覚があって、「卒業して1年ぐらいは、遊ぼうかな」なんて思っていたんですが、周りから強く入職を薦められて(笑)。
「しょうがないから働くか」、と。正社員になったのは、渋々……ってところもあったんですよ。
―実際働きはじめて、学校で学んできたこととの違いはありましたか?
いやー、ありましたね。
衝撃的だったのが、施設で働いてから気づいたんですけど、僕、おばあちゃんが好きじゃないですか。でも、施設にはおじいちゃんもいるっていうのを知らなかったんですよ(笑)。
よく考えればあたりまえなんですけど――働き始めてから、「え、じいちゃんもいるの?!」って気づきました(笑)。
―そこは想定外だったんですね(笑)。
そうですね。「やばい!おばあちゃんだけじゃなかった!」っていう誤算がありました。
あとは正直なところ、異性の入浴介助も最初は抵抗がありましたね。「慣れるかな?」と思いながらも、ただ、僕は繰り返しやっていけば慣れていくタイプだったのと、若さもあって、「こういう世界なんだ……」と。
みなさん、孫みたいに可愛がってくれたので、「よかった、なんかこの仕事、馴染めそうだな」って思ったのが、働き出した最初の1年ぐらいで覚えていることですね。
CHAPTER3
高齢者の方たちの「これをしたい」という気持ちを、できるだけ僕らに言ってもらえるような環境をつくらなきゃ
<老健時代 利用者と競馬へ>
―老健で働く中で、思い出深かった出来事やご自身にとってのターニングポイントはありますか?
僕、老健に入社した当初は全然、“思い”がなかったんですね。「軽かった」というのかな。
今も結構、「軽い」って見られるんですが(笑)、その頃は本当に軽かったんです。高齢者支援っていう仕事をしていることへの熱意も別になく、さっき言ってたように、“おばあちゃんが好きだった“という理由から、
それを仕事にしていけば「人のためになってるな」と思えたところがあったし、「それでお金ももらえるし、いいじゃん」ぐらいにしか思ってなかったんですよ。
なので、当時の仕事は「言われたことをやる」だけ。
終わったら残業もせずにすぐ家に帰り、もらったお給料はスロットやパチンコにつぎこんで――そんな生活をしていたんです。だから本当に、その場その場で仕事をしてきました。
でも2年、3年続けていくうちに――介護の仕事は離職も多いので、だんだん僕が古株になってきた。
そういう時期にひとつ、介護っていうものを考えるきっかけになった出来事があったんです。
僕がいた老健は1階が食堂やレクリエーションルームになっていて、2階と3階が50床・50床の療養室になっていました。
1階の大きな食堂では、みんなが集まって食事をしたり、レクリエーションをして過ごすことが日中は多かったんですが、その時も人がいっぱい1階へおりていって、みんなでカラオケをやってたんです。
僕は2階で、レクの後のおやつを運んだり、準備をしていたんですが、その時にカラオケをしていたあるおばあちゃんから「小川さん、デュエットしてよ」って言われて。
よく喋る方でしたね。
僕がレクの担当スタッフだったらすぐにやっていたと思うんですが、「ごめんごめん、今、おやつを運ばないといけないから」って言って、
サッとカラオケの場から引いて、おやつを持って2階に上がっちゃった。
で――次の日、その人は亡くなったんです。
この経験が、僕の中で衝撃的だったんですね。
その人は車椅子にも乗ってなかったですし、独歩で、認知症もほぼなかった。本当に急死だったと思うんですが――。僕の中で、「あの時、カラオケでデュエット歌ってあげればよかったな」っていう後悔が、ものすごく起こったんです。「ごめんね、またね」なんて言ってしまったけど、「あの時が最後だったんだ」って――。
その時に感じたのが、施設に入居されている高齢者の人って、いくら元気に見えても、
なんらかの病気があったり、要介護認定を受けてるから施設にいるわけで、誰もが広い意味での“ターミナルケア”の中にいるんですよね。
いつ死ぬかもわからないし、僕らよりはずっと死が近い人たちなんだ、と――。
だからこそ、その時その時で、本人たちが「○○やりたい」とか「こうしたい」って思ったことにその場で応えてあげなかったら後悔するなって、すごく強く思った出来事でした。
そこからは、利用者の方たちが心を動かして、自分たちにアクションを起こしてくれたことに全力で向き合う――そんな姿勢ができた。
だからこそ逆に、高齢者の方たちの「これをしたい」という気持ちを、できるだけ僕らに言ってもらえるような環境をつくらなきゃな、と。
コミュニケーションの仕方も意識しながら、進み出したっていうんですかね。
まともに介護のことを考えて進むようになったのは、そこからかなと思います。
CHAPTER4
介護の未来を熱く語る人たちとの出会い。横の繋がりにとても救われた。
<小金井市シンポジウム 高浜将之さんと>
もうひとつ、マネージメントや上のレイヤーが変わってきた時のターニングポイントがあって――
僕も順調に、働きながら介護福祉士の資格を取って、5年後にケアマネの資格を取り、
キャリアを積み上げるための資格も取って、介護主任をやって、デイサービスの責任者をやって――と、徐々に役職がつくようになってきたんです。
1日に60人が利用されるぐらいの大きな規模のデイサービスだったんですが、そこで1番上の管理者をやって、15、6人のスタッフを抱えて仕事をするってなった時、
年齢がずっと上のスタッフがまわりに多かったんですが、27、8歳の若い男が年配の方たちをまとめなきゃいけない難しさというか――。
そこで壁にぶつかりまして、「これは結構しんどいもんだな」と。
「みんなでこうやってやろうよ」って言っても、「何それ?」みたいな感じで、全然話を聞いてもらえなかった。その時に、「他の施設の、同世代の主任さんたちとコミュニケーションが取れる機会がありそうだから行ってごらんよ」って老健の看護師長が声をかけてくれたんですね。
それで40代以下の介護職が集まる、東京の社会福祉協議会が企画したイベントに参加してみたんです。
その時に今、土屋の常務取締役である高浜将之さんや、当時、将之さんが所属していた有限会社のがわを元々やっていたつくし会の理事長や、
いろんな人たちと出会ったんですが――みんな、めちゃくちゃギラギラしてたんですよ。
当時の僕の勝手なイメージでは、介護職の人ってもうちょっとナヨッとしてるというか――そんなに未来を熱く語ったり、
「こうしたい」みたいなことを言う人はそんなにいないんじゃないかと思っていたんですが、
そこにいる人たちは、「自分たちで介護をもっとこんなふうにしていきたい」という思いがある人ばかりだった。
「こんな人たちがいるんだ!」っていうワクワクがとても強かったんですが、そこから将之さんとも仲良くなりましたし、介護職の横の繋がりもとても意識するようになりました。
そこで知り合った方からも、「こういうイベントがあるから行ってみない?」とか、「一緒にこういうのやらない?」って誘われて、素直にいろんなものに手を出し始めたんですよね。
そこから東京界隈の介護職員さんたちの横の繋がりが自分にも出き始めて――。
そうすると、いろんなことが見えてくる。マネージャーの自分が今、壁にぶつかってるようなことをクリアした人たちの話を聞いて、「じゃあ、それをやってみよう」とか。そういう横の繋がりにとても救われました。
その横の繋がりを大きく広げていきながら、自分も成長をちょっとずつできるように努力していった――それが施設勤務の後半ですね。
CHAPTER5
「一緒にやっていけたら面白そうだな」なんて思っていたら、声をかけてもらって土屋へ
<認知症イベント「らん伴」>
―そこから土屋へ転職されたのは、どんな経緯があったんでしょうか。
その2回目のターニングポイントになったところが老健で大体10年ぐらい働いた時期で、そこからさらに10年で色々な横の繋がりができました。
そこから土屋に転職したきっかけとしては――。
将之さんとはその後も、共に小金井市の施設勤務だったこともあって、良き先輩であり、お友達だったんです。
時々、ご飯を食べたり、呑みに行く仲だったんですが、今でもよく覚えてるんですが、僕は当時、老健の副施設長になって、割とのんびり働いていたんですよ。
副施設長と言っても、トラブルがなければそんなにやることがないっちゃない。
支援の現場にはもう入ってないし、何かトラブルがあった時に出ていくとか、逆に自分の老健をアピールしたり、東京都の老健協会のイベントのお手伝いしたり、社外の広報的な役割が多かった。
ただ、僕は高齢者介護ばかりやってはいたんですが、障害福祉にも興味があるという話を将之さんにもしてたんですよね。
ある年の正月が明けて「ちょっとコーヒーでも飲みに行こうよ」なんて将之さんに誘われて、いつも通り喫茶店で近況報告をしていた時に、お兄さんの高浜敏之さんの話になったんです。
“うちの兄貴の話”――今、土屋の代表取締役の敏之さんの話は、この10年間ずっと将之さんから聞いていたんです。
今はもうあちこちで話もしているし、本にも書いているので周知の事実ですが、当時は現在進行形で「“うちの兄貴”がアルコール依存症になって」「今、生活保護を受けてる」とか――。
そういう話を経て、「“あの兄貴”が、今度独立して社長になるんだよ」と。
で、「えー!“あの兄貴”が?!」って。もちろん当時は、“あの兄貴”と言っても話でしか知らないんですが、それでも10年近く敏之さんの近況を逐一聞いてきたので、「“あの兄貴”が前会社からスピンアウトして立ち上げた障害福祉の会社に、
前会社から600人ぐらいがスタートからついてくる」という話を聞いた時には「それはすごい」――と。
僕も長年、東京で介護に携わってはいたので、「一緒に介護をやっていけたら面白そうだな」なんて思っていたら、「(土屋に)どう?」って将之さんが声をかけてくださったんです。
―そうだったんですね。実際に、重度訪問介護(重訪)の支援に入ってみていかがでしたか?高齢者介護から、1対1という関係性や在宅という環境の変化もあったと思います。
しびれましたね――。
12時間労働なんて――朝9時から夜9時までの長時間で、しかも在宅の支援なんて生まれて初めてやるわけじゃないですか。長いし、神経は使うし、「これって老健では絶対僕らがやらない、看護師にお願いしている業務を全部介護職がやるんだ」っていう――ワクワク感と、医療的ケアをする専門性の高さと、
クライアントさんの要求の難しさって言うんですかね。
施設というのはある意味、大きな枠組みがある中で、ほとんどが“我々スタッフ側のタイミング”で利用者の方の希望を聞き、“お互いに理解し合える、ちょうどいいぐらいの要望”に応じていくんですよ。
全てに応じられないことも多いので、できる範囲の願いで、できることをやっていく――そういう環境なので、施設に入ってる人たちは遠慮がちなところもあり、
どちらかというと要望に応えられるかどうかは“施設側マター”みたいなところがありました。
でも片や、重訪の支援に入った時、在宅で暮らす人たちは100%遠慮しないで思いをぶつけてくる――そういう姿勢に最初は面食らいました。
「なんじゃ、こりゃ」と。これまで経験したことがなかった。
しかも、クライアントの要求に応えられないと、クライアントから罵られる――そういう状況も初めて経験しました。文字盤を使って、「あなたは使えない」ということを自分の口で喋りながらやった時は、結構ダメージがありましたね。
文字盤でクライアントの僕自身への批判を読み取って、自分で喋るので、自分でボケと突っ込みを同時にしてる、みたいな(笑)。
「この仕事はなかなか過激だな」と思いました。
ただ、だからこその専門性の高さとやりがいがある。それから、精神的に削られることが多いのもわかったので、「この仕事を長く続けている人は、どんなマインドで、どんな精神状況でやってるんだろう」と感じながら、
「これを自分じゃない、部下の方にやってもらう時に、かなり細やかなサポートやコミュニケーションがないと潰れてしまうな」ということを率直に思いながら、
1年半ぐらいは現場に入りながら管理者をやってましたね。
<認知症イベント「らん伴」にて>
CHAPTER6
“行動変容”を共有できた時、“心が動いた時”を共有できた時が自分の喜び
<老健時代 お墓参りに行きたい方と一緒に山梨のお墓へ>
―小川さんが日々、お仕事の中で大事にされていることはどんなことですか?
クライアントに対してもアテンダントに対してもそうなんですが、やっぱり“心が動く瞬間”ですかね――。
これをめちゃめちゃ大事にしてます。そういう“心が動く瞬間”に立ち会いたい自分がいるって言うんですかね。
ひとつエピソードがあって――今、グループホームのがわにいる山根くん(山根健;やまねたけし/有限会社のがわ グループホームのがわ管理者)とは老健でずっと一緒だったんです。
ある時、僕とふたりで、利用者のおばあちゃんの希望で、山梨の墓まで一緒にお墓参りに行ったんですよ。
その時におばあちゃんがお墓の前で「これでいつでも死ねる」って言いながら涙ぐんでるのを見て、心がざわっとしたというか――。
「これが本当にこの人のためなのかもしれない」「自分たちがやったこととして、介護として、これが正解なのかもしれない」って思った。
そういう経験を何度もしてきて、突き詰めて考えた時に、「自分は人の心が動いたところを見るのが好きなのかもしれない」って思ったんですね。
利用者の方への基本姿勢としては、その人が「何かがしたい」って言った時には、「明日死ぬかもしれない」と思って、
全力で関わりながら、その人が何かしらの――喜びでも悲しみでも感動するでもなんでもいいんだけど――“心が動く瞬間”を、自分はそばにいて体験しながら、寄り添っていけたらいいなと思います。
寄り添うっていうのは違うか。心が動く瞬間を一緒に共有したい。それが介護の現場で意識してるところです。
―その部分は、スタッフの方へ同じですか?
スタッフに対しても、“学ぶ”っていう視点で考えると同じかもしれません。
例えば失敗をしたり、色々うまくできなかったことが、関わりの中でできるようになっていく。その過程で、その人が自分で考えて、行動が変わることで課題をクリアしていく――本来の学びっていうのは“行動変容”なんですよね。
例えば、食事介助があったとして――「食事介助=ご飯を食べさせること」っていうのは誰でも理解できる。
だけど、利用者の口の中に食べ物をいっぺんに入れ込んじゃったら、誤嚥しちゃうので、ごっくんって飲み込んだのを確認して、気を付けてまたご飯を口に運ぶ――ひとつひとつの行為に段階があるんです。
その連続性をアテンダント側が意識することがなければ、「このご飯を全部食べさせればいい」っていう結果だけの、一方通行のケアになっちゃう。
でもそれが、「この人がご飯を味わいながら、ゆっくり自分の力で咀嚼して、しっかり飲み込んでから、次のひとくちを口元に運ぶ」っていうそれぞれの行為の意味と連なりを理解した時に、
アテンダント側の行動が変わるわけですよね。
見るところも変わる。
それがアテンダントさんに起こった時に僕はすごく喜びがあります。“行動変容”を共有できた時、“心が動いた時”を共有できた時が自分の喜びというか――。それが、自分の中では、介護をやってきて利用者さんにも、アテンダントさんに対しても思うところかな。
「よりそういったことを仕掛けていきたい」という思いがありますね。
―“心が動く瞬間”って、きっとこちら側も心を動かしてないと、相手の心の動きをとらえられないと思うんです。今、「仕掛ける」という言葉がありましたが、小川さんはどんな姿勢で目の前の人と関わっているんでしょうか。
難しいんですが、僕は割といつも自然体でいるんです。
利用者の方とも言い合いになったり、喧嘩したりするんですよね。で、すごい落ち込む。喧嘩した後ってお互いにすごくよそよそしくて、重訪の現場でも、喧嘩して8時間ぐらい一言も喋らないとかやってましたね(笑)。
帰りがけにお互いに「申し訳なかったです」なんて感じになって、でもよりそこで繋がりが強くなるというか――その時、関わっていたクライアントは、結構わがままなおじいさんだったんですが、
言いたいことをお互い全部言った時に、「こういう関係性っていいな」と思う。
自分の中で、「ケアというのは全部受け入れて、自分が我慢すればいい」っていうよりも、
「人と人なんだから、ぶつかったからこそ、よりつながりが深くなった」――そういう、その人の鎧みたいなものがはかれた時に、めちゃくちゃ嬉しくなりますね。
だから割と我慢しないで――もちろん、感情任せにはしてませんが――自分が思うことは正直に伝えるような支援の仕方をしてるかな、と思います。
相手のことも聞くし、自分の思いも伝えることは大事にしてるかもしれません。
CHAPTER7
介護って、人間が人間と関わる仕事。その中でみんながリスペクトというか、感謝がめっちゃ大事だなと思っていて。
―ここまでお仕事の話を伺ってきましたが、今度は、休日について――お休みの日はどんなことをして過ごされてるんでしょうか。
基本的には僕、家が好きなので。子どもが3人いて、犬が2匹いて、家がめちゃくちゃざわついててうるさいんです。
うるさくて、その人たちとはあまり関わらないんだけど、「うるさいな」って
思いながらひとりで本を読むっていう――なんか、「自分の家族が身近にいる中で、ひとりでいたい」っていう変わった人なんですよ(笑)。
―ざわつきが必要なんですね、背景に(笑)。
そうです。例えば、みんな学校に行ってて、嫁さんも仕事に行ってて、家に犬と自分だけっていう日もあるんですが、「なんかそれだとちょっと違うな」「騒がしい中にひとりでいたい」って思う。
「すげえわがままなこと言ってるね」って嫁さんに言われるんですけど(笑)。
そういう休日が好きですね。みんなバタバタしながら、ざわざわしてる中で、遠くからそれを見ながらお酒を飲んでるとか(笑)。
基本ひとりが好きなんですが、あんまり介入はしてほしくないんです。
仕事でもめっちゃ喋るので、家でそんなにいっぱい喋りたいわけじゃない。なので、犬が戯れてるのとか、家族がわちゃわちゃしてるのを見て過ごしてるのがいちばん幸せです。
―これからについてはいかがですか?まず、お仕事に関して。
はい。
まず、ホームケア土屋としては、第6期の方向性がこの前、4周年イベントでも指し示されたんですが、僕の役割としては関東ブロックにいらっしゃるアテンダントさんにより多く続けてもらうために、人が辞めない環境をつくっていかなきゃいけないなと思っています。
4周年イベントでは「第6期には売り上げを求めますよ」と星さん(星敬太郎;執行役員 兼 ホームケア土屋ゼネラルマネージャー)も言っていました。
人がたくさん入ってくる中で、その人たちがいかに安心してマッチングできて、仕事が継続できるか。
先輩たちがどれだけその人たちに関われるのか。常勤さんだけでなく、非常勤さんも含めてのコミュニケーションが大事なので、そういった意味での幅と濃さですよね。
コミュニケーションの薄さからの離職を防ぎたいなと思っているので、6期はコミュニケーションの幅と深さを意識しながら、「土屋でずっと働きたいな」と思ってもらえるチームづくりをしていきたいと思います。
―小川さん自身の「これからこんなふうに生きていきたい」はいかがですか?
そうですね。まず子どもが、今いちばん金がかかる時期なんです。
魔の年なんですが、大学入学と高校入学と中学入学が来年、一気にやってきます(笑)。ここからの3年間がいちばんやばいわけですよ。
末っ子が今11歳。なので、その子が成人になるあと9年ぐらいは、もう何よりも、家族が独り立ちできるように、その原資を稼ぐことが僕の最大のミッションであるとは思っています。
で、その後、僕が健康でいられるんであれば――キャンプがすごく好きなんですよね、僕。
実は車が古くなってきたので、ちょうど車を買い換えて、キャンピングカーを今回買ったんです。
なので、奥さんと犬と、キャンピングカーに乗りながら日本を旅したいですね。
―これまでたくさんの出会いや出来事があったと思います。20数年、介護の仕事を続けられてきて、ご自身の中で変わってきたことはありますか?
なんですかね。
本質はそんなに変わってないと思うんですけど、やっぱり現場から離れたりはしてるので、そうですね、本当に現場の方のことをわかって話してるのかなっていうふうに感じることもあるんですよね。
うーん、変わっ……いや。なんだろう、変わってない気がするな。
―介護職を続けていく中で見えるようになってきたもの、という聞き方だとどうでしょうか。
感謝っていう言葉が今、パッと浮かんだんですが――見えてきてるのは、やっぱ僕らの仕事って全部、クライアントも人ですし、アテンダントも人ですし、人間が人間と関わる仕事じゃないですか。
その中で、お互いうまくいかないことも、うまくいくこともあると思うんですけど、やっぱりみんながリスペクトというか、感謝がめっちゃ大事だなとは思っていて。お互いに、双方向に、ですね。
なので、僕はいつもクライアントさんにも「土屋に支援に入ってほしいと言っていただいてありがとう」と思うし、
そこにアテンダントで入る人たちにも「ありがとう」って思う――感謝っていうのがすごくあります。
人と人が関わる仕事だからこそ、感謝しかないよねって。最終的に、今それが思い浮かんじゃったので伝えました。
―小川さんはホームケアだけでなく、子会社ののがわやコスモスに副社長としても関わられています。そこでのスタッフの方たちは、それぞれに違いや共通点もあるんでしょうか。
そうですね。基本的に障害分野だから、高齢者介護だからってあんまり変わらないですね。
もちろん、自分が支援として関わった時には、もちろん高齢者の支援と障害者の支援って全然違うなって思うことはあるんですが、そこに関わる人たちのマインドとか立ち振る舞いはみんな同じ。
時に喜び、時に迷い――提供するサービスの種類が違ったとしても、それでも人が好きだから、この仕事をしてるっていう人たちが多いんだろうなって思って見てるので。
“人が好き”っていう共通点はあるかもしれないですね。
だからホームケアも、のがわも、コスモスのスタッフも、みんな変わんないですよ。