株式会社プランナーズ

株式会社プランナーズ

重松朋宏

バックオフィス スタッフ

“他者”という鏡にうつる“わたし”は問うーー「私たちはこれからどう生きていくのだろうか」

 《interview 2024.10.10》

東京・立川市にある訪問介護・居宅介護支援の株式会社プランナーズでバックオフィス・スタッフとして働く重松朋宏(しげまつともひろ)。
24年間、国立市議会議員として市民の声を聞いてきた重松は今、はじめて介護という仕事と出会い、人間や暮らしを肌で感じ、その中で問いを抱えながら生きています。高齢者複合施設のがわでの介護現場の体験、バックオフィスの一職員としての体験――ひとりひとりの声に耳を傾けるという、これまでと今の仕事が交わる場所から、重松がみつめる風景を訪ねます。

CHAPTER1

愛媛から東京へ

「とにかく東京に行きたい」という思いから東京・国立へ。そこで出会った街の景色

―重松さんが生まれ育ったのはどんな場所でしたか?

小さい頃って思い出して話すとなかなか気恥ずかしいものですね。

福岡市で生まれて、小学校に入るちょっと前ぐらいまで福岡市にいて、その後、愛媛県の松山市で高校卒業まで過ごしました。

福岡では街中だったのが、愛媛の松山に引っ越したら街の郊外の、周りに田んぼがいっぱいある田舎と街の中間地点みたいなところでーー子どもの頃はずっと「そこから出たい出たい」と思ってましたね。

―10代の頃はどんなことに関心があったんでしょうか。

中学、高校の時は鉄道研究部でした。
鉄道好きと、模型好きというのがありまして、鉄道模型をよくつくっていましたね。

今、何十年かぶりに思い出したんですけれども、学園祭に向けて教室いっぱいの模型を3、4か月ぐらいかけてつくっていたなぁ、と思い出します。

―その後、東京には?

愛媛にいた頃は、都会に憧れていて「とにかく東京に行きたい」ということばかり考えていました。

でも大学進学で愛媛を出て、東京都の真ん中にある大学に来てみたらーーそれまで住んでいた街よりも田舎でした(笑)。

東京の中心は東京都の中心ではなかったということに来てみて初めて気づきましたね。

その街が、土屋の第二本社がある国立市なんです。
国立は当時、車椅子で生活している人が街中に普通にいました。

その風景は当時の私にとってちょっとしたカルチャーショックでしたね。

プランナーズのある、隣の立川市も含め、自立生活をする障害当事者が自ら声をあげて主張しながら、自分たちの生きる道を確立していった歴史のある街でした。

―当時、障害を持つ方や自立生活運動等には関わられていたんでしょうか。

いえ、自分自身は障害者の運動に関わっていたわけではなかったんです。

国立市では1980年代頃から脳性麻痺等の障害を持つ人が、大学の構内や駅前で声をかけて、自ら自身の介助者を探すという運動をされていました。

大学に入った直後に障害者から声をかけられたことはあるんですが、ただ私はキャンパスが国立と違う場所にあって、

その運動に参加することもなくフェードアウトしたようなところがあってーー実は介助の仕事にはどこか後ろめたさを感じているところもあったんです。

学生の頃は、学生運動と地域の市民活動に関わっていました。

その流れで「市議会議員の選挙に出ないか」という話になって、1999年から2023年までの24年間、国立市の市議会議員をしていたんです。

CHAPTER2

議員になる

お互いに顔が見えるちいさな街で、偶然の積み重ねから市民の声を伝える立場になる

―大学を出られてすぐ、議員になられたんですか?

すぐですね。ですから長くモラトリアムを続けていました(笑)。

議員になったのは、「もういい加減、なんとかしないといけない」――というところで市民に拾われたような面もあるんです。

市民活動を始めるのも、議員に立候補するのもきっかけはたまたまでした。
偶然の積み重ねのような、「ちょっと面白そうだから顔出してみよう」ぐらいの感覚だったんです。

国立市は、顔の見える、関係性の強い小さな街なので、選挙に立候補すること、議員になることも感覚的にハードルが低いところがありました。

議員になる前にも、知り合いから「チラシまきを手伝ってよ」なんて言われたので手伝っていたら、それが選挙の事前運動で、その知り合いも立候補をしていたり。

他にも、私と同じように大学を出てフラフラしていた人が阪神大震災のボランティアに行って、帰ってきてから「半月後に選挙がある」と聞いて、

ポッと立候補して議員になっていたりー―そんな人が身近にいたんです。

議員に立候補したり、市民の声を伝える立場になることは大袈裟なことではないーーそんな感覚が国立の街にはあったと思います。

―実際に議員になられて、また24年間続けていく中で見えてきたものはどんなことでしたか?

正直、私に限らず、どんな人でも、新しいところに出ていって何かを始める時って、本当に無我夢中で「こういう風にやっていこう」という展望が描けないまま、

とにかく目の前のことをこなしていくんだろうなーーと思うんです。

でも慣れてくると、大体は「自分がこういうパフォーマンスをすれば、どういう反応がある」とか、

「ここを押せば、こういう政策が実現できる」とか、そういうコツやツボみたいなものがなんとなくわかってくる。

そうすると、1つのパターンで動けるようになるんですね。
ただ、逆にそれを長く続けていくと「何のためにやってるのか」を考えなくてもできてしまう。

それはマンネリとも言えますし、成熟とも言えるんでしょうけれども、それに気づいた時に「(議員を)あまり長くやっているとまずいな」と思いました。

―その思いがあって議員を辞められたんですか。

そうですね。「もっと早く気づけよ」って自分でも思うんですが(笑)。

CHAPTER3

出会いはめぐって

福祉のマインドを持つ人との出会いがつなげてくれたもの

―議員になられた時のことを聞かせてください。

最初に選挙に出たのは、市民運動の延長で市長選挙の準備活動を手伝ったのがきっかけだったんです。

市長と議員の選挙の投票日が同日だったんですが、議会の中もメンバーを変えていかなきゃいけないということでーー

「お前、ふらふらしてるんだから、別に落選しても失うものないし、選挙に出てみないか」っていう話から「面白いかもしれないな」と思って立候補したんですね。

その時、同時に立候補した市長候補も当選しまして、東京都初の女性首長ということもあり、国立市政が大きく変わった時でもありました。

―24年間の中で、今も心に残る“出会い”や“人”はいらっしゃいますか。

私が議員になった当時、前市長を支えていた秘書課長の方がいたんです。

市長が交代して、その方は福祉部長に抜擢されたのですが、その後、市の職員を退職をされて、医療法人で働かれて10年ほど経ってから、今度は私が応援していた市長の対立候補として出馬されました。

結果、その方が国立市長として当選されたのですが、ーー現場経験を活かして、福祉のプロとして本当に現場を大切にされる方でしたね。

政治的なスタンスとしてはもちろん違う部分がありましたが、その方からは福祉のマインドを強く感じたところがあり、心に残っています。

一例を挙げるとーー当時、遊休地をどう活用していくかという話が議会で出た時に「重度障害を持ってる人が入れる温浴施設をつくってほしい」という陳情があったんです。

それは重度障害を持った人から「家でゆっくりお風呂にも入れないし、他の温浴施設に行ったとしても入れるところがない」という声があって、

その陳情を議会が採択して、その結果、誰でも利用できる温浴施設ができることになったんですね。

でも、せっかく障害当事者の陳情を受けてできた温浴施設なのに、実際に当事者が車椅子で浴槽の中に入る時、

その施設の方から「管理上、安全上、衛生上の理由で、浴室の中には車椅子では入らないでほしい」と拒否されたことがあったんですよ。

当然、当事者から「それは問題なんじゃないか」との声が上がり、何年もの間、市と事業者と三者の交渉が続いたんですけれども、

その市長は、まず、当事者と一緒に温浴施設に行って、介助しながら一緒にお風呂に入る、ということまでしたんですって。

リーダーが現場に自分で足を運ぶくらいなので、市役所としても当事者の立場に立って何度も交渉を重ねた末、その温浴施設は現在では誰でも入浴用車椅子で入ることができるようになりました。

その、当事者との付き合いを経た「福祉マインド」には、私も含め感化されたのではないかと思います。

実はその後、その市長は2期目の途中でお亡くなりになり、市役所の同僚でもあり副市長としても支えた方が後継したのですが、

この方も障害者とのお付き合いで鍛えられ方で、“介助の人がいない”という時に、部下の幹部職員にその人の介助に向かわせたということがあったりーー。

たった今、困っている市民がいた時に、自分が動く、というのは自分一人が無理すればいいだけですけど、

信頼している部下に現場に行かせることができるーーというのは、とても私にはできない、「すごいな」と思いましたね。

「福祉マインド」が市役所全体に浸透していないとできないですよ。

ちなみに、亡くなった元市長が選挙に出る前、市の職員を辞めて入った医療法人がつくった高齢者複合施設(グループホーム)というのが、(その後、土屋グループに加わった)“のがわ”だったんです。

のがわの、初代の施設長だったんですよね。

CHAPTER4

土屋へーー「自分にできることってなんだろう」

「自分は人の生活に責任が持てるのか?」という問いを持ちながら

―議員として活動していた中で、重松さんはどんな部分を大事にされてきたんでしょうか。

ただ誰かの代弁をするーーということはやめようとは思っていました。

国立には7万5000人ぐらいの人口がいる中で、議員として関われるのはたった20数人なんです。

その中で活動していくのに、他の人と同じことを言ったり、やるのは必要ないなと思って、独自に、かつ自分の信念や考えに沿ったところで、いろんな局面で動くことはかなり意識的にしていました。

―政策や、ご自身の信念として、具体的にどんなものを掲げていたんですか?

どうしても自分の関心に沿ったところになるんですけれども、環境政策と交通政策、

それから行政の仕組みをどう市民により近づけていくかーーという点が自分が進めていた政策や信念の中心にあったと思います。

基本、行政に関わることなので、ほぼ市民生活に関わること全てオールラウンドで判断も求められますし、幸い、私自身、いろんなことに関心を持ちやすい性格でした。

ちょうど2000年に介護保険制度が始まり、障害者自立支援法がより当事者の権利を尊重するものとして障害者総合支援法として改正され、施行されーーという時代を、

議員という行政と市民の中間の立場で伴走できたのは、今から考えるととても貴重な体験でした。

―その後、どんな思いで土屋に入社したのでしょうか?

「(議員を)このまま続けていくのはよくないな」と思って辞めたんですが、「じゃあ、辞めて何をするの?」とは周りからもよく聞かれたんです。

でも自分の中に“辞めて、別の何かをする”っていう明確な何かがあったわけではなくてーー。

“辞める”と決意したら、その日から次の再就職の活動をすればいいものを、その踏ん切りもなかなかつかず、結局、任期いっぱいまでは頭の切り替えもできずに、議員としての任期が過ぎてしまって。

そこからハローワークに行ったり、就職の情報誌を見始めて、ようやく「自分にできることってなんだろう」っていう問いを突きつけられました。

何社か、採用試験を受けたところは落ちたんですよ。

「これができます」「○○が得意です」というわかりやすい経歴のない50歳過ぎの(元議員という)「面倒臭そうな奴を採用したくない」という企業側の思惑もわかります。

その中で、介護職はずっと念頭にあったんですがーーそもそも介護の技術以前に、自分の生活もきちんとできているとは思えない。

そんな自分に「本当に介護ができるのか?」「人の生活に責任が持てるのか?」という問いもありました。

さまざまな問いや思いの中には、学生の頃、大学に入ったばかりでせっかく声をかけてもらったのに、

議員の仕事を全うすることもできずにフェードアウトしてしまったーーそんな後ろめたさも、今もあります。

ただ、結果的に、国立の街で介護の仕事をしている方や障害を持つ方が身近にいらしたので、その方々から声をかけてもらって。

他の施設や介護職にも関わってみた上で、土屋の代表である高浜敏之さんとは以前から知り合いだったということもあって、土屋に入社をしました。

―プランナーズで働き始める前には、「高齢者複合施設のがわ」にも関わられていたそうですね。

そうですね。「11月からの土屋第5期が始まるまでの間、グループホームのがわで受け入れてもらおう」という話をしてくださって、

たった4か月間なんですが、1階の「コミュニティホームのがわ」と、2階の「グループホームのがわ」と両方で介護現場を体験させていただくことができました。

夜勤や入浴介助といったところはベテランのスタッフにお任せして関われないままではあったんですがーー。

介護の仕事も初めてでしたし、正直、「何もできない自分は足手まといなんじゃないか」とは思ってたんですが、私が勤務していた間にコロナのクラスターが発生したり、

スタッフの人的余裕があまりない中では、こんな私でも他のスタッフの方も喜んでくださったんですよね。

CHAPTER5

「存在」と出会う

その人が生きてきた時間、その人の中にある経験――人の存在から垣間見えたもの

―介護の仕事を始める前は、「本当に自分にできるんだろうか」という思いがあったと仰っていました。
実際に“目の前に人がいて、体や命に直接触れる”――という介護の仕事を始めたとき、どんなことを感じられましたか。

自分よりも長く生きていらして、いろんな経験をされていることがその人の存在から垣間見えるというかーーのがわには認知症の方は多いんですけれども、

その分、その人の人生のコアになるような部分があらわれていて、存在そのものへのリスペクトというか、「人間ってすごいな」ということをいつも感じていました。

その後、プランナーズに入る前に、短期間ですが重度訪問介護(重訪)の研修もさせていただいたんです。

そこで出会ったクライアントの方も本当にしっかりとご自身の“生”を生きていらっしゃる方でーー常に私自身の内面が見られている気がしました。

高齢者の方も障害を持つ方も、常に自分を映す鏡のような存在であってーーその方の存在を通じて、私自身の生き様を「お前はそれでいいのか」と突きつけられているような感じがありましたね。

―のがわから介護の仕事を始められて、ちょうど1年が経ちます。介護の仕事を続ける中で、重松さんの中で見えてきたものはありますか?

私が実際にケアの現場に関わったのは、のがわの4ヶ月だけなんです。

その後、11月にプランナーズが土屋の子会社となり、そこからはプランナーズでバックオフィスをメインに携わっています。

とはいえ、介護の経験が少ないこともあり、ほとんど手探りのような感じであれもこれもーーと自転車操業のように追われる毎日ではあります。

とにかく、実際にケアに携わる人がケアしやすいよう会社の環境を整えなきゃいけないんですけれども、それができているかと言ったら、会社を回していく事務だけで今はいっぱいいっぱいになっていますね。

将来的には、プレーイングマネージャー的な立場ーー現場にも入るし、事業全体のこともできるようなーーを「とてもかっこいいな」と思うし、

「そんなふうになれたらいいな」とも思うんですが、「自分はどちらも中途半端ではあるなぁ」とは思いつつ、だからこそ現場に関わっている方みなさんに敬意を感じています。

―“人”と関わるときに――それは仕事の上でも生活の上でも――重松さんが大事にされてることを教えてください。

なかなか難しくてーー私は実は人と関わる距離感って苦手なところがあるんです。
どこまでどっぷり関わっていいのかというのは、本当にわからないところがあります。

特に“仕事として”となると、責任も重い反面、逆に「ここはやっていいけど、これはやってはいけない」という線もくっきり引かれてるところがありますよね。

いち隣人として、いち友人として、あるいはいち支援者として関わっていくのと違う難しさやプレッシャーはずっと感じていますね。

仕事を通じて、その距離感をどうしていけるのかーーそれは、今、私がケアの現場には入ってないこともありますが、正直、まだわかりません。

のがわで現場に入っていた4ヶ月間は、目の前の人のことだけを考えていたらよかったところもありました。

でも今、プランナーズでバックオフィスのスタッフとして働きながら、全体の仕組みを俯瞰して見ていく視点と、現場としてのケアの視点を両立させていくことを常に考えます。

実際に「他の方や他の事業所は、どうされているんだろうな」とはよく思いますね。

CHAPTER6

当事者のあたりまえを、どこでもあたりまえに

「なぜ、当事者にとって利用しやすいような制度運用ができないんだろうか」――問いをあつめて

―これまでは議員という仕事を通して、制度や枠組みを考えてこられた部分があると思います。
そこから実際に介護現場やバックオフィスという場所に移った今、感じる違和感や疑問点はありますか?

プランナーズに入って、介護の事務や事業経営といった形で関わっていった時にいちばん驚いたのは、介護保険や障害者の自立生活制度の運用が自治体ごとにかなり違うことです。

国立にいた時は「当たり前だ」と思っていたことが、自治体が変われば全く当たり前ではなくなるんですね。

例えば、障害者が65歳になると、<介護保険優先原則>が自動的に適用されるという問題があります。

65歳になれば、国も自動的に介護保険の通知を出してきますし、みんなあたりまえに介護保険に移行すると思っていると思うんですが、

障害を持つ方が“介護保険の申請をする、しない”は本来、強制ではなく、任意ですよね。

国立市は、<介護保険優先原則>を否定しないで、本人の意思で「介護保険で申請しない」自由を認めています。介護保険で申請をするよう、市が勧めるようなこともしません。その人の自由です。

申請しない場合、それまで利用されていた重度訪問介護等の障害福祉サービスをそのまま続けて適用していくことになります。

実は当たり前のことをしているだけなのですが、このような運用は、たくさんの障害当事者の声や運動を受けて、

制約の多い介護保険に移行した時の弊害――当事者の経済的負担やサービス内容の質的・量的変化による負担、急な生活環境の変化等――を理解した上で、

国立市が介護保険制度を当事者に強制しないというスタンスを取った、という歴史があるんです。

とはいえ、国立市の隣の立川市も、もともと障害者の自立生活運動が盛んだったところなんですが、その立川市でも「65歳になったら自動的に介護保険へ移行する」という前提でみなさんが動いています。

また、自治体で独自の福祉サービス制度はあっても、運用上、使いこなせず、本来利用されるべきサービスが縮小されている現状があることも感じました。

「別の自治体ではうまく運用ができているんだから、制度の“ここの部分”をちょっと改善できれば当事者が自由に選択をして、障害福祉サービスの利用を続けていける」

ーーそんな状況がおそらくどこの自治体にもたくさんあると思うんですよね。

例えばこれが、私が一市民として、一市民運動として関わっていたとしたら、行政に対して制度の改善を働きかけていくことはできると思うんです。

でも、一民間事業者という立場になった今、「組織として、どう動いていったらいいんだろうか」ということを考えて躊躇すする、ということが多々あります。

わずか半年間という現場経験が少ない中で、介護の現場をよく知ってるわけではない私が見ただけでも、

いろんなところで「どうして当事者にとって利用しやすいような制度運用ができないんだろうか」ということがたくさん見えてきました。

私以上に、介護の現場に入ってる方や当事者の方にとっては「なんで?」「どうして?」の連続だと思うんです。

現場から見えてくる疑問点や課題点を、制度改善に結びつけていく。事業所の中でそういう活動をやっていくことは可能なんだろうかーーという疑問は日々、感じています。

CHAPTER7

問いを受け取ること――「あなたは、私は、これからどんなふうに生きていくんだろうか」

自分以外の人が、どんなふうに生きて、暮らしているのかを知るということ

―最後に、お休みの日の過ごし方や趣味を持つ時間についてお聞きしたいと思います。

そうですね。昔は色々やっていたと思うんですがーー。

議員になると、休みも平日もほぼ境目がなくて、なおかつ自分の興味のある分野に仕事として関われているので、仕事自体が趣味のような感じになって、趣味の時間を忘れちゃっていたところがあったんです。

でも今は逆に、仕事の日と休日、オンとオフがはっきりできているので、生活していてものすごく新鮮というか、メリハリがあって気持ちいいですね。

休みの日はほとんど子どもの相手をしてることが多いです。
体力的には休みの日の方がキツいぐらいです(笑)。

子どもたちに連れまわされてーー結果的には親の方が子どもに相手をしてもらってるっていうことだと思うんですが。

ただ、議員を引退した理由の1つに、子どもの世話をかなり妻任せにしていた、ということがあるんです。

議員の仕事というのは、どこまでがプライベートでどこまでが公務なのかという線引きがかなり曖昧なので、何もしないでおこうと思ったら何もしないでもいられるし、

しようと思ったらプライベート全てを投げ捨てることもできるような仕事だったもので。

―今はご家族との時間も過ごされているんですね。

そうですね。仕事もプライベートも含めて、目の前のことに追われている感じです(笑)。

―忙しい中でも、今、重松さんが幸せや喜びを感じる時間はどんなところにありますか。

のがわでの日々でもそうだったんですが、「人が生きていくことってどういうことなんだろうか」ということを常に感じています。

のがわにいた4か月間に、グループホームでもコミュニティホームの方でもコロナのクラスターがありましたし、お亡くなりになった入居者の方もいらっしゃいました。

それまで私の身の回りには、高齢者も障害者も、友人・知人としていました。自分の親もそうですよね――。

でも、身近にいるんだけれども、「じゃあ、普段、その方たちがどういう日々を暮らしているのか」ということは、私は全く知らなかったんですよ。

重度訪問介護にしても、グループホームにしても、その人の1日の生活にしっかり関わったのは土屋に入ってからが初めてだったんです。

人が年を重ねていった時に、どんな暮らしをしていくのか。
何らかの障害を持った時、どんな暮らしをしているのかーー。

それは人それぞれではあるんですけれども、一人一人の生活や生き方を目の当たりにして、「じゃあ、自分はどうなのか」という問いが浮かんできます。

それは私にとって、とても新鮮なことです。

子どもや家族と関わる時間自体は、議員の時も長くあったんですが、家族以外の人や生活とじっくり関わっていく中で、家族との付き合いかたも変わってきました。

子どもと過ごしながら、「これからこの子たちはどういうふうに生きていくんだろうか」、そして「自分はこれからどう生きていくんだろうか」――そんな問いを常に感じられる毎日だな、と思います。

そのことによって何かいい結論が出るわけではありません。

それでも「どう生きていくのか」という問いを日々、感じられていることはやはりこの仕事をしていく上での喜びだとーー今はそう思っています。


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