介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

小宮山良太

山梨 コーディネーター

遊び心と知識。それは法、歴史、前提の中で泳ぐ力

 《interview 2025.02.19》

ホームケア土屋山梨でコーディネーターとして働く小宮山良太(こみやまりょうた)。
映像の仕事を経て、「やったことのない仕事をしてみたい」という好奇心から、介護の仕事と出会います。
重度障害者の生活の中に入り込みながら感じた「仕事ってもうすこしラフに考えていいんだな」という思い。
そして、土屋への転職を通して変わった、ミクロの視点からマクロの視点での支援。
「ありがとう、また会おうね」――ちいさな約束をつみかさねる小宮山と、小宮山を囲むたくさんの子どもたちとの日々を訪ねます。

CHAPTER1

“道なき道”を行く探検隊――子どもの頃

柔道と出会ってはじめて、「スポーツって楽しいんだな」と思った

―子どもの頃はどちらで生まれ育ったのでしょうか。

山梨県の甲府市出身です。

甲府は街ではあるんですけども、ちょっと行けば、当時は田んぼと山に囲まれてるような感じでした。

ファミコン以外で遊ぶっていうと、田んぼや山で遊ぶことが多くてーー山を歩いてると、神社の裏にちっちゃい祠があったりするんですよ。

そういうものを探して、発見するのが好きでよくやってました。
道なき道を行く探検隊……というか(笑)。

思い出してみると、当時はまだ山道も整備されてないようなところばかりで、友達と傷だらけになりながら進んでいくのが楽しかったですね。

あとは田んぼでザリガニを釣ったり。

でも今は、その田んぼも全部住宅地になっちゃってーー遊んでばっかりで勉強はあまりしてなかったです。

―当時の小宮山さんは、どんな性格でしたか?

いつも、ぼーっとしてるとはよく言われてました。

反面、休み時間になると、図書室に行って本を読むことも多かったですね。
友達と山に遊びに行くのはいいんですけど、集団競技みたいなものが苦手で。

休み時間にみんながサッカーとかドッジボールをするのにいつも違和感を抱えていて、いつの間にか、図書室にこもるようになっていったーーそんなところですかね。

―今も変わらないところはありますか。

あんまり怒らないところは、今も変わらないですね。
温厚な性格なんじゃないかな。

あと、家族はいるんですけれども、ひとりでもそんなに寂しいとは思わないんです。
「ひとりでも平気」っていうところはもともとあるかもしれないですね。

―10代の頃はいかがでしたか?何かに熱中してたり、「こんなことしてました」っていうものがあったら教えてください。

中学で柔道部、高校の時はボクシング部だったんですが、格闘技を好きになって、当時は熱中してました。

強い方ではなかったので、大した成績を収めたわけではなかったんですけど、でもそこではじめて「スポーツって楽しいんだな」って。

それまでスポーツを楽しいと思ったことってあまりなかったんですよ。

―他のスポーツと比べて、柔道はどんなところが楽しかったんですか?

自分がやったことがそのまま自分に跳ね返ってくるんですよね。

自分が負けても、自分に何かが足りなかっただけで、相手がどうかはあんまり関係がないというか。

団体戦もあるんですけれども、基本的には個々でやることで、自分の責任でしかないっていうところが当時はしっくりきたかな、と思います。

CHAPTER2

「やったことのない仕事をしてみたいな」――映像の仕事から、介護の仕事へ

「面白そうかも」という思いから、重度障害者の介護とはじめて出会う

―その後はどんなことをされていたんですか。

卒業してからは、映像の専門学校に行って映像の仕事をしていました。
その頃はプロモーションビデオを中心に撮っていて。

でもあまり現場に出るのが好きじゃなかったんですね。
現場にも出るんですが、当時は編集を主にやってました。

―もともと、映像をつくることに興味を持ったのはどんなところからだったんですか?

うちの父が映画好きでーー子どもの僕に、黒澤明の映画を見せるような父だったんです。
ビデオを借りて一緒に見たり、よく映画館に見に連れて行ってもらってましたね。

当時の映画館って2本立て、下手すりゃ3本立てで1200円、とかで見られる時代だったので、高校時代は映画館で1日過ごしてましたし。

そこから映像に興味を持ち始めて、「いつか映像に関われたらいいな」と思ったんですが、仕事としてはあまり向いてはなかったですね。

途中から、「あれ?」っていうことばっかりで。

もともと喘息持ちだったこともあって、映像の仕事は体がついていかなくてーー「これは転職を考えなきゃいけないな」、と。

その時に「やったことのないことをしてみたいな」と思って行ったのが、自立ステーションつばさ(以下、つばさ)という障害当事者が運営する事業所だったんです。

そこで、現・代表の高浜敏之さんが、当時、先輩として働いていたんですよ。

―高浜代表とはつばさで出会っていたんですね。映像業界からつばさに転職をされた時はどういう思いがあったのでしょうか。

求人を見ていたら、重度障害者の介護っていうところにピンときて。
高齢者は知ってても、重度障害者のことって全然知らないじゃないですか。

どんな人なのかわからないけど、でも「未経験でも大丈夫」って書いてあったから、「ちょっと面白そうかも」と思ってーーそれともうひとつ、遺跡発掘のバイトがあったんですよね(笑)。

「どっちかは受かるだろう」ぐらいの気持ちで、先につばさに応募して通ったので。
今思うと、遺跡発掘の方に行かなくてよかったかもしれないです(笑)。

それで、つばさへ行ったら「早速、今日から入れますか」「入れます」っていうやり取りから始まってーー知らないことだらけでした。

「障害者ってこんな生活をしてるんだ」とか。

「障害ってそもそもなんなんだろう」ってことをはじめて考えるきっかけになって、「これは面白いな」っていうものがあったんです。

CHAPTER3

介護って、“介護すること”だけが仕事じゃない

介護の技術を覚えたあとに見えてきたもの

―当時は、どんなことを感じながらつばさで働かれていたんですか?

最初は流されるがままでしたね。
でもだんだん、「自分でもできることはないのかな」って考えるようになって。

つばさは、障害者が自立生活をするための支援をする当事者団体なんですが、「小宮山くん、映像の仕事をやってたよね」

「つばさの活動を映したドキュメンタリームービーをつくってもらえない?」って声をかけてもらって、5分くらいの宣伝ムービーをつくったことがありました。

そのムービーを持って、施設で暮らす障害者のところに行って、「こんな生活をしてる障害者の人がいるんですよ」「自立してみませんか」って見てもらうんです。

そうやって実際に「自分も自立して生活してみたい」っていう方が出てきたりーー。

そういった中で、仕事っていうものを“介護すること“に絞るんじゃなくて、もうちょっとラフにいろんなことができる、って考えてもいいのかなって思うようになりましたね。

自分が持ってるものを最大限に活かす、というか。
それができるようになったのが大体2年目ぐらい。

そこまではそれぞれの方への介護を覚えるだけで大変でした。
でも青春というか、すごく楽しい時間でしたね。

当時、僕らがハマっていた『龍が如く』っていうゲームがあって。

「そのゲームの世界を見よう」なんて言って、ゲームの舞台になってる歌舞伎町をみんなで練り歩いたりもしました(笑)。

自分で外出の企画もしましたね。

養護学校の子どもたちを連れて行く、今で言う放課後等デイサービスのような活動です。

子どもたちがそこで一生懸命学んでる姿を見ると、「あぁー、すごい!」って。

重度の障害を持ってる子にとって、学校じゃできない経験や出会いがたくさんあるんです。

それでキャンプとか、無理やり企画して。

その経験を広げて、地域に出ていくというかーーもちろん、気も使うし、大変なこともたくさんあったんですけどね。

―かっちりした「仕事」というよりは、それぞれが持ってるものを持って、生活の中に入っていくようなーー仕事と生活が地続き的な部分がありましたか?

そうですね。
最後は、一緒に生活してるみたいになっちゃって。

それもいい部分もあるし、あまり良くない部分もあると思うんです。

でも「一緒に生活することでしか見えない部分がたくさん出てくるんだな」っていうことは思いました。

―高浜代表も著書の中で、つばさは激しい議論やいろいろな人間関係を通して、ともに生きることを学びあう場だった、と書かれていますね。小宮山さんもそういったことはよくありましたか?

議論をすることもありましたね。

自立を考えていく上で、当事者と介護者という関係を超えて本音で向き合う場面も多く、厳しいところもあったと思います。

たとえば「何のために君はいるのか」とかーー。

ヘルパーとして、ということもあったし、あるいは人として、といったところも問われるので、夜中までひとつのテーマについて話し合ったり。

ただ、僕はまだ若かったし、正直なところ、「めんどくさいな」と思ってバックレたこともありました(笑)。

つばさではそこから6年ぐらい働いていました。
妻ともつばさで知り合って、結婚式を挙げてもらったんですよ。

僕らは式を挙げてなかったんですけれども、つばさのみなさんが事業所でサプライズで披露宴をしてくれてーーそれはすごく嬉しかったですね。

CHAPTER4

今度は、マクロの視点で全国各地に支援を届ける

「もう一回、介護をやってみようかな」――土屋との出会い

その後、妻の出産を機に山梨に戻ってきてからは、医療事務の総務の仕事をしていました。

そこは6年くらい働いたんですが、実はあんまり合ってなくて、ちょっと悶々としながらーー心を病んでしまって退職しました。

それで2年間ぐらい、療養もかねてのんびりしましたね。

まさか自分がデイサービスに行くとは思ってなかったんですよ(笑)。

デイサービスに通う側になって、カリキュラムをこなしながらぼーっとして過ごすっていう。

その後にも友人の会社で働いたりはしていたんですが、しばらくして「もう1回、介護をやってみようかな」と思って、土屋に入ったんです。

―土屋を知ったのは、どんな流れがあったんですか?

高浜代表のSNSか何かで、土屋という会社を立ち上げたことは知っていたんです。

当時は「ご活躍されているんだな」くらいにしか思っていなかったんですが、

たまたま土屋の企業理念を読んだ時に、以前、一緒に働いていたつばさとは反対の視点から書かれていて驚いたんです。

つばさは、あくまで、ひとりの人に集中して関わって、地域の中で自立していく支援をするーーいわば、ミクロの視点を大事にしていたんです。

でも土屋は、「介護難民と呼ばれる人が全国にまだまだたくさんいる。

支援を求めているけどかなっていない人たちを探して、広くたくさんの人に介護を届ける」ことを大事にしていた。

僕はそれまで、福祉の仕事はつばさしか知らなかったので、土屋の理念を読んだ時に、

「そうか、会社によって障害者とどう関わるかが全然違うんだな。マクロの視点でやることも素晴らしいな」って思ったんですね。

もちろん、土屋の理念の根底にはつばさが目指すもの――どんなに重度の障害があっても、

地域のなかで当たり前に生活していける社会の実現ーーがちゃんとあるそこを土台とした上で、

ミクロの視点だけではなく、「マクロの視点で、株式会社として、我々は支援を届けられたらいい」ということを高浜さんは仰っていたんです。

それで興味が出てきたというか。

「他の介護事業所はどういった介護をするんだろう」っていうことにも興味があったし、「せっかく働くなら、いい会社で働きたいな」っていう思いもあった。

会社としてもしっかりされていたし、「面白そうな会社だな」と思って入社を決意しました。

―土屋という大きな会社に入って、今度はマクロの視点を持って、重度訪問介護に関わるーーその変化にはどんなことを感じましたか?

たくさんの人に知り合えることはやっぱり強みかな、と思います。

もちろん基本的な限界はあるんですが、重度訪問介護は1対1の支援なので、関係がいい時はいいんですが、硬直もしやすい。

でもそんな時に、新しいスタッフが入ってきたり、様々なクライアントと関わったりーー出会いがたくさんあるということはお互いの楽しさにも、支援現場の風通しの良さにもつながります。

今もはじめてのクライアントのところへ行く時もドキドキしますし、その度に「新鮮だな」と思いますね。

それもあって、「24時間、ひとりでその人の生活を介護しなきゃいけない」というところから、

「その人の生活の一部に関わる」っていうスタンスもいいんじゃないかな、と思うようになりました。

そうすれば、たくさんの人に届けることができる。
そこがいちばん変わったな、と思います。

CHAPTER5

介護って、“経過を見守る”仕事。

今、関わるのは子どもたち。彼らの成長を“見守る”喜び

―仕事の中での価値観をお聞きできれば、と思います。小宮山さんが仕事や生活の中で大切にされてることはどんなことですか?

そうですね。

クライアントさんだけじゃないんですけども、できるだけその人の歴史を知るようにしようと思ってます。

「その人は今、なぜそうなってるのか」を知れればーーもし一生懸命話してくれる人だったら直接話すこともできるし、

その方のご両親からお話を伺うのでもいいんですがーーその人自身に興味を持って、過ごす時間をお互いに楽しめるなって最近思うんです。

たとえば「釣りが好き」というクライアントがいたとしたら、僕は釣りのことは知らないので、

「釣りってどういうことをするんですか?」「海釣りですか、山梨だと川釣りですか?」とかーーそんなたわいもない話からはじまって、

その人の背景や歴史を知ることは大事にしてます。

―介護の仕事を続けていく中で、見えてきたもの、変わってきたものはありますか。

今までやってきた仕事って、ほぼすべての仕事が“結果を出す”ことが最終的なところにあって、

それに対して納期があって、スケジュール通りにやっていくーーそれがいわゆる仕事では重要だと思うんです。

だからこそ、「人から言われる前にやる」みたいなことを20代前半の頃はずっと重要にしていました。

でも介護って、“経過を見ること“じゃないですか。

そこに“結果”が付いてくればいいこともあるかもしれないんですが、生活っていうものが経過そのものなので、

それをじっと見守る仕事だったら、もうすこし肩の力を抜いてやってもいいんじゃないかーー今までは「やらなきゃいけない」みたいに思っていたんですが、

クライアントと関わる中で、「あんまり意気込まないでしていい仕事なんだよ」ということは教えてもらったかな。

それは今の土屋であっても、つばさの頃であっても同じです。

“経過を見ること”がいちばん重要というかーー例えばつばさの頃であれば、自立というのはひとつのゴールでした。

でも別に“唯一”のゴールではなくて、いくつもある中のひとつのゴールなんです。

そのゴールを見るのはもちろん楽しいんですが、それでも、そこからがまたスタートで、その人の“経過”が始まる。

支えることが僕らの仕事だとしたら、僕らはずっとその“経過”を見守る仕事なんだと思うんです。

人間は年老いれば、どんどんQOLは落ちていく。
それをいかに楽しく過ごせるか。

「楽しく過ごせたらいいな」「その人の生活にちょっとでも力添えができたらいいな」ってーー。

もちろん、クライアントさんもいろんな思いや考えを持っていらっしゃるし、

ラフに関わることを求めてない方もいらっしゃるので、その場合は関わり方を変えますが、自分自身のスタンスとしてはそこですね。

―小宮山さんが今、喜びとか嬉しさを感じるのはどんな時ですか?

子どもの支援はやっぱり楽しいなっていうのはありますね。

ここ1、2年、支援に入らせてもらってるんですが、子どもって成長しますよね。

たとえば「今日は学校でこんなことやってきた」「今、○○ライダーが流行ってる」とか、新しいことをどんどん覚えて、教えてくれたり。

それがすごく励みになる。

簡単に言っちゃうと「子どもってやっぱりかわいいな」ってことなんですがーーいつもそう思います、本当に。

もちろん、大人のクライアントは大人で、くだらない話をしたりして。

それも楽しいんですけどね(笑)。

でも子どもを観ていると、「本当におっきくなったなぁ」ってーー喜びはそこにありますね。

と同時に、「どうやったらこの子たちのQ O Lを下げずに今後も支援をしていけるか」――上長とも話すんですが、まだまだ先の話ですけれども、

そういった先を見据えて話し合うこともこの仕事のやりがいになりますね。

いつかお母さんの手から離れることも考えると、「今、どうするといいのかな」と考えつつ、

「でも今の現状では、今の支援しかできないな」っていう、ジレンマみたいなものもあるんですけどね。

他にも大人のクライアントの方で、都市部から離れたところに住んでる方がいて。

そうなると、車がないと移動できないとか、バリアがたくさんあるんですよ。

ご本人も「自立したい」とは仰っているんですが、ただ僕は介護に入ってるだけなので、僕から自立を促すことはできない。

もし、クライアントから「協力してほしい」と言われたら、上長に相談して、どういうふうに動いたらいいかを話し合うことはすぐできるんですがーー。

僕自身は、つばさで働いてきた経験や、自立生活に向けての情報をいろいろ知ってることもあってーー

「自立した方がきっと楽しいんじゃないかな」なんて思っちゃうところも正直、あるんです。

でもそれは僕が言うべきことではないので。
そういったもどかしさみたいなものを感じたりしますね。

CHAPTER6

その「人」の背景、今ある「決まりごと」の前提を探ることの面白さ

にぎやかな休日を過ごしながらーー「今年は、勉強をやるぞ!」

―小宮山さんのお休みの過ごし方もちょっとお聞きしたいです。

お休みの日は、筋トレとかジムに行ったりしてます。
格闘技が好きなんで、柔術とかやって今は過ごしてます。

あとは、子どもと遊んだり、家事やったり、個人的にはnetflix見たりとかですね。

―お子さんは何人いらっしゃるんですか?

4人いまして。毎日にぎやかですね。
掃除しても追いつきません(笑)。

―(笑)。これからのところも伺えればなと思うんですが……ホームケア土屋としてという部分や、ご自身で「こんなふうに生きていけたらな」というものがあったら聞かせてください。

結構、気ままな生き方をしてきたのでーー質問表にも書いてあったので「これ、どう答えたらいいのかな」「そうだよな、もう47歳だよな」とかいろいろ思っちゃって(笑)。

あんまり人生設計をしてきてないんですけども、そうですねーーこのまま続けていければいいかな。

今後、大きな視野で、「新たな事業所をつくって、土屋でやっていきたい」とか、そういうことはあまり考えていないんですが、

仕事を覚えていく上で、請求業務やシフトの作り方を覚えたいな、とは自分の中では思ってますね。

プライベートだとーー今、法律の資格の勉強をしてるんです。

―法律ですか?!

「法律家の資格を取りたいな」と思って、中途で法学部に入って、学んでいた時期があるんですよ。

それで30代になって、6年かかってなんとか卒業した経緯があるんです。

具体的には司法書士を希望してはいるんですけれども、今は支援も忙しいから、

なかなか学業までできてないんですが、「今年はやるぞ!」みたいな感じにはなってます(笑)。

―法律はどんなところに惹かれたんですか?

法律の勉強は、つばさの時と全く同じように、「これは面白いかもしれない」くらいの感じで始めたんですね。

興味があって、コツコツやっていたら、「あ、いけるかも」っていう感じもあって、やってみたら面白かった。

やっぱりやってみないと面白さってわからないんですよ。

法学は、「この問題に対しては、こういったアプローチがあって、こういう理屈があった上で、この法律がある」っていう前提をまず学ぶんです。

「今、この法律があるから○○しなきゃいけない」ってことじゃないんですよね。

たとえばーー法学部のいちばん最初の授業でよく出る問題があって、「この橋、馬、渡るべからず」と書いてある立札が立っていたら、

「じゃあ、象だったらいいの?」っていう声が出るんです。

通常で考えれば、馬の重量には耐えられない橋だから、「象は通れない」っていう解釈になる。

でもその前提に何があるかと言ったら、「橋が落ちる蓋然性(*ある事柄が起こる確実性や真実として認められる確実性の度合い、確からしさ)が高いから、その札があるんだよ」

「それが法律をつくった、という意味なんだよ」「その意味を遡って考えることが大事だよ」っていうことを教えてもらってーー

その3段論法のアプローチがちゃんとできるようになると、論理的な思考ができるようになるんですよ。

で、「これ、面白いなぁ!」と(笑)。

スクーリングにはよく行くんですが、労働法の先生って面白い人がたくさんいて。

大体が先生に付いて教えてもらってコツコツやってるんですが……なかなか難しいですね(笑)。

CHAPTER7

「もう1回、あの人に会いたいな」――人をおもう、その後をおもう

「ありがとう」って言われて「よかった」って思うこと。「また来てね」って言われること。

―福祉や介護っていう仕事を小宮山さん自身はなぜ続けているのかっていうところをお聞きしたいです。

そうですね。

楽しいことばかりではなくて、辛いこともたくさんある仕事ではあると思うんです。

でも、「ありがとう」って言われて「よかった」って思うこと。子どもたちに「また来てね」って言われること。

さっき言ったような、子どもの成長を見れることーーすごくシンプルなんですけども、そこがやっぱりいちばんの原動力ですね。

ほかの仕事と比べると、達成感みたいなものはそんなにないかもしれません。

でも、子どもだけじゃなくて大人も、「もう1回会いたいな」って思っちゃうというか、なんか気になっちゃうというかーー。

こう言っちゃうとなんですけど、なかには小憎たらしいクライアントもいるんですよ(笑)。

でも、地震があったら、「あの人、大丈夫かな」とかすぐ心配しちゃうし、ずいぶん前につばさで会っていた子どもたちでさえ、

「今どうしてるかな」「がんばってるかな」なんてふと思っちゃうーーそういったことが原動力になってるかもしれないですね。

―介護の仕事をしてると、自分のことを考えるって難しいです。人のことばかり「ああかな、こうかな」って思って、結果、自分が動かされていたーーみたいなことが、私もよくあります。

僕もその方が強いかもしれないですね。

「自分はこうしたい」「こういうことするぞ」みたいなものがそこまでないので。

「あの人、大丈夫かな?」って人のことを考えてる方が多いです。

そういうことが多分――原動力になっているんじゃないかな、と思います。


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