本社管理部

株式会社土屋 本社

山本沙樹

法務部

私がコンプラでつくるのは、助けを呼ぶ声と助けたい熱意が出会える道。

 《interview 2025.05.07》

本社 法務部で働く山本沙樹(やまもとさき)。“昭和“な原風景に囲まれて幼少期を過ごした山本。
小学校5年生の時、母がA L Sを発病します。母をサポートしながら、看護や介護の道を歩む中で出会ったのが、重度訪問介護の仕事。
この仕事に関わるようになって8年目。その間に山本は、支援の現場からバックオフィスへと仕事を移し、母とのわかれを経験し、ふたりの男の子の母となりました。
「自分が当事者として、介護現場のリアルを知っているからこそ、なんとかこのサービスをたくさんの方に届けたいという気持ちが強くある」――そう話す山本のこれまでと今を振り返ります。

CHAPTER1

畑でゴルフごっこをしたり、本物の野菜でおままごとをしたり

平成生まれですが、遊び方としてはかなり昭和寄りの幼少期を過ごしました

―お子さんの頃のお話から伺えたら、と思います。

生まれ育ったのは兵庫県、今でいう姫路市の北部で、山々に囲まれた集落で育ちました。

畑や田んぼが広がっていて、お米も小川の水の力を使って水車で作業をするような――こどもの頃はまだ藁葺き屋根の水車が残っていました。

そんな場所だったこともあって、買ってもらったおもちゃで遊ぶよりかはおばあちゃんたちの畑作業に付いていって。

大人たちが使っている鎌や包丁が畑にあったので、それで規格外の野菜を切ったり、リアルなおままごとを楽しんでましたね(笑)。

ほかにも大人が使ってるゴルフのパターを家から持ち出して畑でゴルフごっこをしたり、木やロープを集めて山の中に秘密基地をつくったり。

もちろん当時最先端だった家庭用のゲーム機で遊ぶこともあったんですが、自然の中で触れ合う遊びの方が多かったですね。
平成生まれですが、遊び方としてはかなり昭和寄りの幼少期を過ごしたんじゃないのかな、と思います。

―小さい頃の山本さんはどんなお子さんでしたか?

兄がふたりいた影響もあって、かなり男勝りでしたね。待望の女児だったんですが、母が望んだ方向とは逆に行きました(笑)。

性格は今と大きくは変わっていないのかな、と思います。ただ当時は何も考えていなくて、順序だてて計画を立てて実行するようなことは今より苦手でしたね。

でもハキハキというか、どこにいても、誰とでも話すようなおしゃべり好きの女の子でした。

CHAPTER2

母の発病――小学5年生の頃、兄にバレないようA L Sの母をサポートしていた

こどもとして、ヤングケアラーとして――その後、看護の高校へ

―ご自身をかたちづくった出来事や、変わり目になった出会いなど、教えてください。

小学校4年生の頃ですかね。やはり母の発病が大きかったなと思います。

ある日、ジャンケンをして勝った方が「チ・ョ・コ・レ・イ・ト」って文字の数だけ歩数を進める、昔ながらの遊びを母と楽しんでいたんです。

でもジャンケンをする度に母が“あと出し”をするんですよ。
母は堅実な人だったのに、あと出しをするのが3回も4回も続いて――「なんで?お母さん」って。

その時は「もしかしたらお母さん、老化ってやつが来てるのかもしれない」みたいな笑い話をしていました。

そこから少し時間が経って、一緒に手を繋いでスキップをしていた時に母がスキップがうまくできなかったんですね。
「やっぱりお母さん、なんかおかしいかもしれない」「病院受診するね」っていう話が私と母の間でありました。

何ヶ月かして、小学5年生になった秋頃に、ふたりでドライブをしていた時に「あなたにだけ言うんだけど、実はお母さん、A L Sっていう病気かもしれない」と母から話があったんです。

ちょうどその頃、兄ふたりが受験を控えていたこともあって、「今はまだお兄ちゃんたちには言えないんだけれども、これから家庭の中でおそらくあなたのサポートが必要になるだろうから、お願いできる?」って。

私は末っ子だったんですが、家族の中ではいちばんに母の病気のことを知りました。兄たちの合格発表があるまでの半年間、兄たちにバレないように母のサポートをすることが、当時の私の任務になっていました。

そこから年が明けた3月に合格発表があるまでの半年間、母が「少しやりにくいな」っていうことを――例えば瓶のフタを開けるとか、

そういったことも少しずつできなくなっていってたので――母の行動を常に見て、「これできなさそうだな」っていう行動を先回りして兄たちにバレないよう私が動いていました。

無事に「兄たちに伝えられるよ」という時期に来た時には、自分の中で母の病気については折り合いがついていて――当時、兄と一緒に泣くことはできなかったんですが、そこからですね。

母ができなくなってくることが増えるにつれて、高校生になった兄たちの昼や部活のお弁当を私がつくらないといけなくなって。

母に教えてもらいながら、率先して家事をしたり、「じゃあ、洗濯物は私が取り込んでおくね。お母さんは畳んでね」、そんなやり取りをしていました。

そういった日常の中で、福祉というものにも目が向いて――実は私の母は社会福祉士でもあったんです。

そのこともあって、福祉はもともと身近なものではあったんですが、自分が当事者になることによって「あたりまえだけれど、福祉という仕組みを必要としてる人がいるんだな」ということを改めて実感しました。

「自分も将来、介護の道に進むのかな」と思っていたんですが、中学生になってより広く物事を捉えられるようになった時、

「母にとっては看護の方が必要なんじゃないか」「収入のことを考えると看護師の方がいいのかもしれない」と思い――当時はまだA L Sの治療ができることも信じていたので――看護師になることを決めて。看護の5年制高校に通い始めました。

でも、高校3年生になった時、厚生労働省から出された平成24年度の通知――介護保険法の改正により、これまで禁止されていた介護福祉士の喀痰吸引等の医療行為が可能になったーー

によって、「あなたたち看護師は、介護職の人に医療的ケアを指導していかなきゃいけない立場になるんだよ」という話を先生から聞いて、授業中にずっこけたのを今でも覚えてます。

先生方も私がどういう気持ちで入学したかはご存知だったので、授業が終わった後にその通知について細かく教えてくださって。

「私はもう看護の道に進むのはやめた」「介護で十分だ」という気持ちになったのと、もうひとつの理由として、高校3年生になった時にはすでに母が余命宣告を受けている年数からプラス3年生きられていたこともあって、

「いつ最期を迎えてもおかしくない」というリミットも私自身が感じていたので、このまま看護師になるためにさらに何年か学校に通うよりかは、そのまま資格を取って介護職として働き始めた方がいいんだろうな、と。

そこから大きく軌道修正をして、介護の資格取得に至りました。

CHAPTER3

看護から進路を変更し、介護の仕事へ

“医療行為ができる介護職”へ――「かっこいい!」「これは今後、絶対母に必要になるな」

―当時、進路を決めたり、お仕事に就かれる時に、印象に残っている人との出会いや言葉があったら教えてください。

そうですね……当時は、あまり人と関わってなかったような気がします。

というのも、母のことに関しては誰に話してもやっぱり、“悲劇の少女”みたいな形で見られてしまっていたので、誰かに相談するということがなかなかできなくて。

当時は自分ひとりで決めて突き進んでたところが大きかったかな、と思いますね。

それもあって、母にも嘘をついて進路の変更をしたんです。「母のために進路を変えることは、母は許してくれないだろう」「そのまま看護師になってほしい、って思うだろうな」って――

進路変更を伝えることはその時の母にとって重荷になると思ったので、「学校生活がうまくいっていない」みたいな嘘をついて、看護の高校を辞めるところまでなんとか説得をしてこぎつけました。

その後、高校を卒業をして、デイサービスや小規模多機能居宅介護など、介護職として1年ほど働かせていただきました。その後、自分が好きだった車の業界でお仕事することになったんです。

当時、私は車に乗るのが好きでサーキットを走っていました。その頃は特に古い車が好きで、日産のスカイライン、ホンダのシビック……といった車を趣味で乗っていたんですが、「どうせだったら車を販売したり、車検に行ったり、整備をしたりする仕事も見てみたいな」という思いから仕事を始めたんです。

その後、土屋の前会社で重度訪問介護(重訪)に携わるようになったのは――20代前半の頃、周りの子たちは浮いた話がたくさんある中で、私だけ彼氏がいなくてですね(笑)。

周りは「今度、合コンするんだ」「彼氏と同棲するんだ」なんて話ばかり。休みの日に友達と会えなくなったり、遊べなくなったタイミングで「これはなんとか自分の時間を潰さないと」、と。

それで「プラスアルファでお金ももらえたらいいな」ぐらいの感覚で求職活動を始めたら、前会社の求人を見つけて――“医療行為ができる介護職”みたいなキャッチコピーに「かっこいい!」と思って、「これは今後、絶対母に必要になるな」と思ったんです。

最初は非常勤として、当時していた仕事と掛け持ちで続けていたんですが、半年ほどした時に「常勤になって、介護業界にしっかり入って、母が今後どうなっていくのかを見てみたいな」という思いや、

「母は最期をどんなふうに迎えるんだろう」ということも気になって、常勤アテンダントや管理者としてA L Sの方の支援に入らせていただくことになりました。

CHAPTER4

クライアントひとりひとりに個別性があって、それぞれのニーズがある、という「あたりまえ」

「どうせ関わるなら、みんなハッピーな気持ちで取り組めた方がいいんじゃない?」という上司の言葉を受け止めて

―実際にクライアントと関わっていく中で、気づいたことはありましたか。

そうですね。

当時の私は、小さい頃から積み重ねてきた経験から「A L S=母の病状のこと」という思い込みがあって、なんとなく「A L Sの人というのは、母のような性格だろうし、母が私にお願いしてくるようなことをアテンダントの私に伝えてくださるんだろうな」なんて思ってしまっていたんです。

けれども実際に自分が介護の現場に入って、同じA L Sという病状でもバックグラウンドが違うさまざまな方たちに接する中で、「決してひと括りにできるものではないんだな」「疾病、障害名が同じであってもニーズは人それぞれ違うんだな」と――

「あたりまえだけれど、ひとりひとりに個別性があって、それぞれのニーズがあって、アテンダントはそこに応えていく仕事なんだな」ということに気づくことができたかなと思ってます。

―重訪のお仕事を続けられていく中でご自身が変わってきた部分があったら聞かせてください。

介護のお仕事はーー現場のアテンダントとしても、それから事業所の管理者としてもそうなんですがーーそれぞれに目の前のクライアントや従業員の思いを受け取りながらも、正しい事実を伝えたり、事実として間違っていたら訂正をしたり、会社としての方向性を示さないといけない時があるんです。

当時の私は、お仕事をする上で自分が正しいと思ったら、「これが正しいので、こうしてください」とはっきりと相手に伝えるようなスタイルをとっていました。

でも当時の上司に「それだけじゃ伝わりきらないし、どうせ関わるなら、みんなハッピーな気持ちで取り組めた方がいいんじゃない?」「人に何かを伝える時って、“枕詞”が大切なんだよ」っていうことを教えていただいたんですよね。

それまで私は、“枕詞”なんて意識したことがなかったので、本屋さんに行ってさっそく『デキる上司の枕詞』みたいな本をいくつか読んで、「こんな言い回しがあるんだ。確かにこんなふうに言われたら、やりたくないことでもやっちゃうかもしれない」、と。

その時に枕詞の大切さを実感して――今はそんな言い方もだいぶできるようになったんじゃないかなと思ってます。

CHAPTER5

会社の健全な運営を守る仕組みをつくる

1年を振り返る、1日を振り返る――立ち止まって、自分が成長していることを感じる喜び

2020年に土屋が創業してからは、土屋ケアカレッジの設立メンバーとして関わらせていただきました。

当時、ケアカレッジは研修部門として“スピード感のある事業展開”をしていたのですが、そこから会社の安定期に入ってきた2023年、本社の法務部に異動させていただきました。

法務部では、主にコンプライアンス違反を防ぐための仕組みづくりやチェック管理を実施しています。

法務には、「予防法務」と呼ばれるものと「臨床法務」と呼ばれるものがありまして、予防法務というのは、日頃、日常的に仕組みやマニュアルをつくり、使うことでコンプライアンス違反が起きないような仕組みをつくって予防をするものです。

臨床法務の方は、起きてしまった違反に対して――例えば行政対応をする中で、企業体としての損害を最小限に抑えるものです。

今は日常の業務から予防をしていく予防法務に力を入れています。
仕組みやマニュアルをつくり、全国で働く誰もが同じ業務ができるような環境づくりを進めています。

マニュアルというのはつくる側にとって、「つくったところで誰が使ってくれるんだろう」なんて思いもあって、なかなか手のつけにくい業務のひとつでもあります。

それもあって、つくる側の方たちに「なぜ仕組み化が必要なのか」についての研修を行なって、スムーズに業務に取りかかれるようなフォローもさせていただいております。

―今、山本さんご自身にとっての生活やお仕事の中での喜びについて、聞かせてください。

そうですね。
2023年に母は亡くなったんですが、その1年前くらいからですかね。

自己啓発みたいなものに取り組むようになりまして、本を読んだり、資格を受けたりしてるんです。

そういったことを通して、毎年立ち止まって、その1年にあったことを振り返った時に「自分の考え方が変わったり、成長してるな」って感じることがあるんですよね。

私が喜びをみつけたきっかけからお話すると、その当時の母の生活は代わり映えせず、毎日をベッドの上で過ごして、孫の成長や私たち兄弟が社会で活躍・貢献するのを見守ることが唯一の楽しみだったんですよね。

“母が発病する前のこと”を思い返すとーー私は、小さい頃に父が他界していて、母と祖母、兄ふたりの5人家族で育ったんです。

母は父の死後、無資格で介護業界に飛び込んで、最短でヘルパー2級、介護福祉士、ケアマネジャー、社会福祉士を取得していたんです。

子育てをしながら大学に通い、こどもと机を並べて勉強するような努力家でした。
母の背中を見ていた私にとって「母親」が家事や育児をこなしながら勉強をすることは特別なことではありませんでした。

ここまで思い返して、気づいたんです。
「こどもは成長を見せられるけど、私は……成長できているのか?」と。

そこで通信制大学への入学と介護福祉士の受験をしました。
母が自分の最期を悟ったころ、私が在籍していた大学で、進級がかかった試験と介護福祉士の試験があったんです。

母は「2つの試験の合格を見届けるまで死ねない」と主治医や看護師さんに話していたそうです。

その後無事2つの試験に合格し、母は安心して喜んでくれました。
あの試験のおかげで、母の現世への名残惜しさのおかげで、数日は母の寿命が延びたんじゃないかと思います(笑)。

過去を振り返って、自分で高めたい部分を探しだして実行する。この流れが好きなんだと思います。

振り返りを始めた当初は、1年に1回ほどのスパンで行なっていたんですが、最近は毎日寝る前に、「今日1日、どんなだっただろう」って振り返るようになって。

そうやって自分が成長していることを立ち止まって考えてる瞬間――そういった時に「やってよかったな」「関わってみてよかったな」っていう喜びを感じることは多いかなと思います。

今は、その喜びを感じたくて通信制の大学に通っているんです。
ビジネスマネジメントの学科に在籍していて、福祉の経営やマネジメント、障害分野や高齢分野の研究を主に学んでいます。

CHAPTER6

こどもたちが教えてくれたこと――人を変える言葉

「自分って意外と影響力を持ってるのかもしれない」

―山本さんが、人と関わる中で大切にしてることはどんなことですか?

そうですね。こどもを産むまで、私は人に影響力がない人間だと思っていたんです。
「自分の発言で世の中が大きく変わったり、何かが変わったりはしないだろう」って。

でもこどもができて、こどもと関わっていく中で、例えば――小さい頃から、長男に「ママは赤と黒の車が好きだな」とか「この色が好きだな」といったお話をしていたんですね。

長男が5歳になった頃、保育所から帰ってきて「今日、〇〇くんがピンク色の袋を持ってきてたんだ。男の子なのに変だよね」っていう話を私にしてきたんです。

それを聞いた時に「?」と思って。そんな決めつけというか――「別に男の子がピンク持ってたって、ラベンダー色持ってたっていいじゃない」とその時は思ったんですが、実は小さい時から私がこどもにかけていた、

「やっぱり赤と黒がかっこいいよね」っていう言葉でこどもは「ママは赤と黒が好きなんだ」と思い込んで――「ママが好きな色を僕も好きになろう」と、こどもなりにいろいろ考えたんだと思うんです。

そういうちょっとした発言が積み重なって、こどもが「男の子だからこの色じゃないとダメだ」といった考えになってしまったのかな、って。

それに気づいた時に「自分って意外と影響力を持ってるのかもしれない」と――。
周りの人を悪い方に変えてしまう力も、もちろん良い方に変えられる力も実は持ってるのかもしれない、と気が付いたんです。

こどもができてからは、そんなふうにこどもとのやり取りの中でハッとさせられることが多いです。
「仕事でこういうことやっちゃってるかも」「普段からこういうところは気を付けないといけないな」っていうことがありますね。

最近は自分が所属するチームメンバーの方たちとお話をする時も「自分の発言には影響力があるかもしれない」と意識しながらお話するようになってきてるかなと思ってます。

CHAPTER7

母とこどもの共通の趣味――自分が好きだった「車」は今、こどもにとっても好きなものになった

自分ができなかったことも、今はこどもにさせてあげられる環境が整って

―お休みの日はどんなことをされて過ごしていますか?

こどもたちとゆっくり遊ぶのはもちろんなんですが、男の子がふたりいる状態でフルタイムでお仕事をさせていただいてるので、翌週の平日をどう乗り切るか――お休みの日はその準備期間だと思っているんです(笑)。

特に日曜日は1日の半分をキッチンに立って、平日分のご飯のつくり置きに時間を使ってますね。

例えば、メニューを決めてしまって「焼くだけ」の状態まで準備しておいたり、副菜は10品くらいつくっておいてローテーションができるようにしたり、お弁当にすぐ詰められるようにしておいたり。

平日、業務が終わってから、メニューを考える労力を使わないように日曜日にまとめて準備することを今は習慣付けてます。

―お子さん、ふたりとも男の子なんですね。休みの日はきっと体を動かすような遊びをしたり……

そうですね。

私が車が好きなことは先ほどお伝えしたんですが――結婚してこどもが生まれると、「自分自身がレーシングカーに乗ります」「サーキットに行きます」というのはなかなかハードルも高くて諦めていたんです。

でも長男が「レーシングカートに乗りたい」と言い出してくれて。

レーシングカートを購入して、今、習い事としてライセンスを取って、サーキットを走る――っていうことをしてくれているので、家族総出で応援に行ったり、練習をしたり。

私が好きだったものが、こどもにとっても好きなものになったので、今、一緒に楽しませてもらってます。
趣味のひとつになるのかもしれないですね。

家族全員で、レーシングカートが走るサーキットで旗をふったり、ヘッドホンをつけて走行してるこどもと会話しながら、「がんばれ!」「そこ、もうちょっとインだよ」「アウトだよ」なんて言い合ってます(笑)。

―山本さんもお子さんの頃から車はずっとお好きだったんですか?

中学生くらいの時から、兄の影響もあって。
免許を取った兄が初めて乗った車が、RX7っていう車だったんですね。

なので、家でお兄ちゃんと一緒に、スパナやレンチを持って一緒に車をいじることを日常的にしていたので、中学生ぐらいから“好き”というより、“あるもの”として育ってきてたんですよね(笑)。

お金が自由に使い出せるようになった10代の後半から20代前半で車好きが加速して。

私の場合は「これはサーキットを走る車」「これは自分がプライベートで乗る車」「これは替えの車」みたいな形で、当時は同時に5台くらい保有してました。

これまで結構な数の車に乗ってきたんじゃないのかなと思います(笑)。

―お子さんはミニカーなどでも遊びますか?

そうですね。やっぱりトミカは好きですね。

小さい子ってトミカで遊ぶ時に、「ブ――ン」っていうエンジン音を声に出して遊ぶと思うんですけど、うちの子は「ブーン、ブ、ブーン」って言って遊ぶんです。

公園とか、お子さんが集まるようなところでみんなでトミカで遊ぶと、うちの子だけ異様にリアルなエンジン音を口ずさんでるのですぐにわかります(笑)。

周りのお父さんからも「やけにリアルですね」なんて指摘されたりして(笑)。
自分ができなかったことも、今はこどもにさせてあげられる環境も整って。

充実してるな、と思います。

CHAPTER8

ヤングケアラーとしての経験を今、活かして

自分が当事者であり、介護現場のリアルを知っているからこそ、「このサービスをこの先も守らなきゃいけない」

―これからのところ伺えればなと思います。

過去の自分の経験から思うのは――「自分自身がヤングケアラーだ」ということに気づいていない人たち、それから当時の私のように、過疎地ゆえに「S O S」を発することもできない環境にいる人たちがいらっしゃると思うんですよね。

そういった方を助けようとした時に、土屋のような規模の事業所や企業でないと救えない人たちがいるんじゃないのかなと思ってます。

過疎地で、地域に密着した運営をしている小さな事業所にとっては、必要な時にすぐにアテンダントを派遣できたり、研修を行える施設が近くにあってすぐに医療的ケアを学べたり――というのはなかなかハードルが高いと思うんです。

でも土屋であれば、全国各地に事業所があることで、都心部から僻地へもアプローチができます。

こういった環境を今以上に拡大させて――小さな声すら出せない方たちにも、何らかの形でアプローチができるようにしていっていただきたいです。

現状では、私自身は直接支援を届けることはできないので、事業部の方たちがそういった声を拾いやすい環境づくりを、バックオフィスとして努めていきたいなと思ってます。

それから――もっともっと先の話になるかもしれないんですが、おそらく10年、20年経つと医療の発展もあると思います。

今まで難病とされていたものが症状が緩和したり止まるような新薬の開発もあるかもしれません。そういった変化と同時に、土屋という会社が今以上に成長できたら、もしかするとほとんどの方にサービスが行き届くんじゃないのかな、なんて思うんです。

そうなった時には、介護分野だけでなく、他のさまざまな社会課題も拾っていけるような会社になってほしいな、と思ってます。

―今の質問と少し重なるかもしれないんですが――今、介護や福祉の仕事を続けている原動力になっているものは山本さんにとってはどんなものですか?

ひとことで言ってしまうと、自分が当事者として、介護現場のリアルを知っているからこそ「なんとかこのサービスをたくさんの方に届けたい」という気持ちが強くあります。

土屋で働かれている方はみなさん、“誰かのために”っていう気持ちを持ってお仕事されていると思うんです。
この仕事に就くまでは自分でも気づいていなかったんですが、自分もホスピタリティの精神が高いんじゃないかな、って――。

そして、私自身も障害や難病を抱える家族のリアルを知っているから、「なんとかしたいな」って。

困っている誰かを救い出すことは、自分ひとりじゃできないかもしれません。

でも福祉の仕事に携わることによって、間接的に誰かを笑顔にしたり、救い出したりができるんじゃないか――それを感じたり、信じてるから、この業界にい続けてるのかなと思ってます。

―最後に――山本さんにとっての“自分らしく働く”ってなんかどういうことかなっていうのをちょっと最後に伺えたらなと思います。

そうですね。“自分らしく”っていうのは、強みの部分を活かせること、活かせる環境が整っていることなのかなと思ってはいるんです。

でも、“自分らしく”ってその時々で変化すると思うんですよね。

なので、その“自分らしく”が変わった時に、周りに正しく伝えたり、気づいてもらえたりできる環境をつくっていくことも含めて、自分の強みを活かして働くことが、“自分らしく”に繋がるのかなと思っています。

―山本さん自身の強み――それは土屋で働くことに限らず、ご自身として生きていくことの強みも含めて――は、どんなところにありますか。

バックグラウンドに関係するかもしれませんが、介護に関しては他人事じゃない人生を送ってきたので、土屋で何か起こると自分ごとのように捉えられると言いますか――。

コンプライアンス違反が発覚した時、「もしかするとどこかでサービスが提供できなくなるかもしれない」と――もちろん企業なので賠償金といったダメージも考えたりはするんですが、

やはり支援を受けている方にサービスが提供できなくなるのがいちばん――クライアントにとっても会社にとっても働く人にとっても、全体の未来にとっても本当に大きな損害なんです。

「このサービスを守らなきゃいけない」っていう意味での意識は誰にも負けないな、っていうところが自身の強みなのかな。
今は自分の経験を強みにできてるかな、と思いますね。


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