デイホーム

介護事業部 デイホーム土屋

小川スミ子

土屋錦海

この世を愛せばこの世は君を愛す。ゴッド・セイブ・スミ子。

 《interview 2025.05.08》

デイホーム土屋錦海で働く小川スミ子(おがわすみこ)。
こどもの頃から「体は小さいですけれど、物怖じしない子だった」と言います。
「新しい仕事はいつも興味津々」と話す小川は、偶然隣に居合わせた人、かつて出会った人との再会、声をかけてくれた人――小川の持つ元気さに呼び寄せられるような出会いとともにさまざまな仕事を経験してきました。
その経験は、今のデイホーム土屋での「手しごと」にもつながっています。
料理、裁縫、そして人と生活に寄り添い続けてきた小川の手。彼女がここまでつみかさねてきた時を訪ねます。

CHAPTER1

何かにつけて前向きで、物怖じしない元気な子でした

着物の端切れが出るのをもらってお人形さんに着物をつくったり、お手玉つくったり。母に教えてもらってました

私の生まれは山口県の萩市です。
父が4歳の時に亡くなり、父の実家に母と兄、私と弟の4人で帰りました。

また、母は私の中学入学式を済ませると、44歳の若さで亡くなり、兄弟3人の生活が始まりました。

―小川さんはどんなお子さんだったのでしょうか。

何かにつけて前向きでしたね。あんまり怖いものがないというか。
今日のインタビューもそうですけれど(笑)。

弟が泣いて帰ると、代わりに私が仕返しに行くぐらい(笑)。
体は小さいですけれど、物怖じしない元気な子でした。

―こどもの頃に憧れていたお仕事はありましたか?

母が和裁をしてたんです。
昔はその地域ごとに青年団がありましたので、そこで若い女の方に和裁を教えたり。

私の兄は農業高校の定時制に行っていて、母はそこの家庭科の先生をしてました。
それで、着物の端切れが出るのをもらって。

昔は今みたいなリカちゃんとかあんなのはないから、お人形さんに着物をつくったり、お手玉つくったり。
母に教えてもらってました。

―今も縫い物されたりとかもされるんですか。

これ、つくったんですよ(写真下のブローチ)。

―やっぱりそうでしたか!すごく素敵です。お母様の影響もあって、小さい頃から縫い物をされてきたんですね。

そうですね。ずっと好きですね。

小川さんが着ている服やブローチ、うしろのパッチワークのタペストリーは小川さんご自身でつくられたもの。

CHAPTER2

紳士物を縫う仕事

中学校の教頭先生のお世話で、紳士物を縫うところで住み込みで勉強しながら働きました

―その後、10代になってから、関心が出てきたことや学ばれたことについて教えてください。

私たちの時は、高校っていってもお金持ちか、頭のいい人でないと。
それに、下宿しないといけなかったので、なかなか行けなかった時代です。

それで女性の方なんかは岡山の倉敷紡績(現在のクラボウ)で働く方も多くて、定時制高校に通いながら頑張っておられました。

でも私は、兄が「あんまり遠くに行かせたくない」っていうので、それで「私も何かしないといけない」と思って。
だけど「百姓だけは嫁に行ってくれるな」って兄が言いまして。

それで、島根県にあった紡績会社に先生と一緒に見学に行きましたら、背が足らなくてダメで。
織機に手が届かなくて、残念!!

当時、兄が弟と私2人を高校に入れることは、兄としては「むずかしい」と。

それで私は、中学を卒業して、そこから紳士物を縫う会社に住み込みで入って、そしたらそこの先生がとてもいい方で定時制高校に二学期から通わせていただきました。

また、文化服装学院が近くにありましてね。
今度は婦人物の学校にも週1回ほど行かせてもらって。

それで紳士物と婦人物と縫えるようにしてもらいました。
婦人物はもう今は人の服は縫えませんけれど、自分の服だけはつくってます。

紳士物は先生が裁断して、仮縫いまでされますのであとは私が本縫いをするだけ。
婦人物は自分の体とおんなじ寸法のボディーをつくって。自分の洋服をそれに合わせて、つくるんです。

でも先生が「女の子だから背広まで縫わなくてもいい」「覚えなくていい」、だけど、ズボンとベストと背広、紳士物というと昔は3つ揃いでしたので、「ズボンとベストが縫えたら、結婚しても家で内職ができる」っていうことで、紳士物をしました。

―服飾のお仕事はその後もずっとされたんでしょうか。

いえ、そんなに長くなかったですね。
紳士物はアイロンが重たいんですよね。

9ポンド(4kgほど)ぐらいあるんですよ。ボーリングの玉ぐらいの重さが。
だから、肩にひびが入っちゃってできなくなって。

そこで先生から「ここまで縫いものができたら、家庭に入っても内職ぐらいはできる」って言われて、先生のところをやめて。
今で言うN T T――昔は電報電話局って言ったんですが――の電話交換手の資格を取って。

3ヶ月ぐらい、試験まで一生懸命勉強して、電話の交換手で下関に行きました、私。それまで萩しか知らなかったものですから、下関の方まで出てみました。

小川さんの制作風景

CHAPTER3

電話交換手になって

仕事が終わると関門トンネルを走って、下関から門司へ

今はどうかわからないけど、昔は有名だった赤間神宮っていう神社が下関にはあるんですね。
その隣に春帆楼(しゅんぱんろう)って言ってね。フグの専門店があるんです。

その時は、私も電話の交換をただ勉強していただけで、現場で働いた経験があったわけではないから。
でも下関の職業安定所(ハローワーク)に行ったら、「春帆楼を辞める」っていう女性の方がちょうど来ておられて。

たまたま、安定所の方とその方との話で「この方が電話の交換の資格を持っとられるけど、お宅は電話の交換手は使っとられますか」って話されて。「じゃあ、来てください」となって。

私も「春帆楼ってなんですか?」っていう感じだったけれど、そのまま就職しました。

―隣り合わせでいらした方からお仕事に繋がられたんですね。

そうなんです。当時の電話交換手は、早朝、日勤、宿直と3交代で24時間態勢で電話の交換をしてました。

やっぱりお客さんが多いものですから。そこでお世話になって。楽しかったです。

―下関や門司の辺りは、当時は貿易や産業が盛んで文化的にも華やかな場所だったのでは、と思います。

3交代ですので、16時、17時ぐらいに仕事を上がると、関門トンネルを走って。

門司の方まで遊びに行ってました(笑)。

―関門トンネルって走れるんですね(笑)。

もうバスなんか待ってられない(笑)。

―ご自分でつくったお洋服を着られて?

いいえ、その頃はほとんど制服がありましたのでね。寮もあったものですから。
だから私服を着るっていうのはね、休みの日くらいでしたね。

その後、電話の交換手をしてる時に主人と出会って、下関で結婚式を挙げて。
それから今住んでいる鳥取に来ました。

小川さんが制作された作品の一部

CHAPTER4

施設で食事をつくって

「食事をつくるんだよ」と言われて、「楽しそうだな」と。それで、施設で働き始めました

―お住まいの鳥取に移られてからは――今も関わられているような福祉のお仕事には長く関わられてこられたのでしょうか。

何年だったかな。
33歳ぐらいの時に障害者の利用者さんが男性50名、女性50名いらっしゃる施設で働き始めました。

私は土日と祭日。職員さんが急にお休みされるような時に私が入って。
その頃はこどもがいましたので、家で内職もしてました。

こどもが生まれると保険に入ったりするのでね。
保険を紹介してくれた郵便局員さんがうちにいつも来ておられて、「小川さん、ちょっと仕事してみん?」って。

「だって私、内職してるよ」って言ったけど、「毎日じゃないから」「ちょっと手伝ってあげん?」って言われて、「どんな仕事?」って。

「食事をつくるんだよ」って言われて、「楽しそうだな」と(笑)。それで、入りました。

その施設で昼食と夕食をつくって。
ご飯を食べた後は利用者さんがお茶碗を洗って、ご自身で乾燥機に入れますので、私はつくって盛り付けして帰るだけでした。

その時に昼ご飯を利用者さんと一緒に食べるんです。並んでね。
私は普通どおりに自分のお盆に入ったご飯をみなさんと食べて。

そしたら園長先生があとから「小川さん。あんた大丈夫?」って言われて、「何が?」「うちに来てる職員さんで、利用者さんと一緒にご飯食べてくださいとは言ってるけど、最初の日から利用者さんと一緒に何の気なしにご飯食べるの、あんただけだ」って言われて。

「なんで?」って。

どうやら当時は、その施設にいらした障害を持つ方は食べ方がすこし違っているので、一緒に食べると「喉通らん、ごめん」っていう職員さんがほとんどだったんですって。

「でもあんた、ケロっとして食べたね」って。
私は「へぇ、そうなんですか」ってあんまり感じませんでしたね。

どんな場所にもすぐ溶け込むから(笑)。
だけど、その施設の園長先生が2、3年ほどで退官されたんです。

その園長先生に私は雇われたものだから、園長先生と一緒に辞めて。
それで、家でまた内職してました。

CHAPTER5

「小川さん、ちょっと遊びにこんか?」から始まる仕事

いつか出会った人から声をかけられて――建築メーカーの仕事へ

当時は、こどもたちも小さかったので、学校でバレーボールをするとかね。
よくあったんです。私はあんまり運動は好きじゃなかったけど、家が小学校の正門前だったんですよ。

だから何かにつけて、「小川さん、小川さん、ちょっと来て」「今日は○○持ってきて」なんていつも先生から声かけられて。
そんな感じで、日曜日にバレーボールの大会があると、ポットにお茶入れて抱えていって、休憩にお茶入れたりしてたんですね。

そしたら42歳の時だったかな。声かけてくださった方がいて。私はあまり覚えてなかったですけど、なんか視線を感じるんです(笑)。

その方が、建築メーカーの部長さんでした。「覚えてない?」って言われて、「全然」って(笑)。

そしたら「ちょっとうちに遊びにこんか」って言われて、「何しに」って言ったら、「ちょっと仕事見てみんか」って言われて。
私が行ったところはガラスのサッシをつくっている会社だったんですよ。

それで「なんで私がこんなとこに来ないけんの?」と話をしたら、2日後ぐらいに社長秘書の方から電話があって、「小川さんですか。今日13時半ぐらいまでに来ていただけますか」って言われて、

「会社がどこにあるかわからなく、よう来ません」って言ったら、「迎えに行きます」って。

行ったら、秘書の方が「小川さん、ちょっとうちでお仕事してみませんか」。「私、家で仕事してますけど」「それもいいかもしれんけど、うちも人が欲しいから、

部長がどうしても、『小川さんに声かけて』って」。「いやいや、ガラスなんか怖くて触れませんよ、怖くて怪我しますわ」って言って。

それが木曜日ぐらいだったかしら。自分としてはそこで働くのはダメでしたので、「もしそちらも『このおばさんダメだな』と思ったら、『(採用は)やめます』って言ってくださいね」って言って。

で、何にもなかったから、私もそのまま日曜日を過ごして、家で知らん顔してたら、電話がかかってきて、「小川さん来てください」って言われて。

「何の話だろう」と思って行ったら、「今日から入社されました小川さんです」ってみんなの前で紹介されました(笑)。

だから私、自分から仕事を探したことがないんですよ。
「来てみん?」「よってかん?」って声かけられて。いつもそういう感じなんです。

CHAPTER6

ずっと続けているデイサービスでの“小物づくり”

「デイホーム土屋錦海のご飯をつくる人は小川さんしかいないから」と言われて

―その会社では、どんなお仕事をされてたんですか。

サッシを組んでました。楽しかったです。
初めてする仕事でワクワクしました。

私はパートっていう形で行ってたんですけど、家に帰って夕飯つくってても、18時ぐらいになったら電話がかかってきて、「忙しくて、お客さんに納めることができん」「手伝いに来て」って言われて、ご飯食べてからまた手伝いに行って(笑)。

そのメーカーさんは10年ほどで辞めたんです。孫の面倒を見ようと思って。
そこから11年ほど家にいました。

それで公民館の方で、独居の方への配食ボランティアを月1回やっていました。

60歳ぐらいの時に、以前働いていた障害がある方が通う施設から連絡がありまして、「グループホームの世話人をしてほしい」と言われ、行ったらたまたまその時受け持った方4名が、以前、私がご飯をつくりに行ってた時の利用者さんだったんです。

それで、グループホームを9年ぐらい続けました。
その時に癌が見つかったので、その施設を辞めたんですよね。

それで手術をして。だけど、抗がん剤もなし、お薬もなし。10年経過観察が、5年の経過観察で終わりました。

その頃、家で何もしてなくて、そしたら私、53歳の頃からボランティアでずっとここ(デイホーム土屋 錦海)みたいな――通所のデイサービスで小物づくりを教えていたんです。

いろんな公民館とか小学校で、リースを作ったり、季節の小物を作ったりして、こどもさんたちと遊んでました。

それで、そのうち、近所のデイサービスセンターに行くようになって、13年間、毎月行ったかな。
小物やらいろんなものをつくってました。

今は外出支援もしながら、年間ボランティアをまだ続けてます。
ここで仕事しながら。

その関係で、デイホーム土屋のある錦海町の民生委員さんから、「デイホーム土屋錦海のご飯をつくる人、もう小川さんしかいないから」って言われて。

「えー!また仕事するの」「この年だよ」って。
コロナもありましたし、お断りしようと思って来たら、「小川さんは即戦力です」って言われて(笑)。

この4月が終わると、ここで働いて丸々5年になります。

デイホーム土屋 錦海での仕事風景。「今日はうどんでーす。かき揚げ作ってます」。

CHAPTER7

新しい仕事はいつも興味津々

「自分が食べてみて美味しいかな」と考えてみて、「あんまり美味しくなさそうだな」と思ったら味を変えてみたり。メニュー変更、大好きです

―今は、デイホーム土屋錦海でどんなお仕事をされているんでしょうか。

食材は業者さんから入ってきますので、それを調理するだけです。

利用者さんは――なかなかね、名前と顔が覚えられませんでね、最初は。働くのが、週3日ほどでしょ。
苦労しましたけど、今は慣れて、利用者の方ともお話しして楽しいです。

―今されているお仕事でも人と関わるところでも、小川さんが普段、大事にしてらっしゃることってありますか。

いつも声掛けしてますね。「今日は、ごくろうさま」って。
「仕事以外、私に出来る事があれば、利用して下さい」という思いですね。

新しい仕事はいつも興味津々。
「私にもできるかな」っていう気持ちはありますけど、「やってみよう」っていう気持ちの方が強いですね。

―今のお仕事の中では、どんなところにワクワクされるんですか。

今日来て、メニューを見て、「メニュー変えてもいい?」って。
「これをこっちにやって、あれをあっちにやって……」とかって。

メニュー変更、大好きです(笑)。
その日のメニューはもともと決めてあって、どういう味付けって書いてあるんですけど。

「これ食べて美味しいかな。自分が食べてみて美味しいかな」と考えてみて、「あんまり美味しくなさそうだな」と思ったら味を変えてみたり。

今、日曜出勤になってますでしょ。
日曜出勤の利用者さんが少ない時は、「冷蔵庫の中のあるものを使って料理してください」って言われて。

冷蔵庫見て、その場であるものを組み合わせてつくるんです。それは楽しいです。

―デイホームで働かれてから出会った人の中で、印象に残ってる方はいらっしゃいますか?

ありますね。
私、耳が悪いでしょう。

「まわりに迷惑かけるんじゃないかな。どうしようかな」っていう悩みがあった時があったんですね。

だから「耳が悪いから、私はもうそろそろ……」って何回も考えたんですけど、そしたら職員の方が「小川さん、ご飯はお耳で作るんじゃなくて、おててで作るんですよ」って言われて。

頑張ってます(笑)。

職員の方にはずいぶん助けてもらってますね。
機械なんかも、「ちょっとでも変なボタン押したら、壊しちゃうかも」っていう気持ちがあって。

朝来ても、出勤簿も「お願いします」。帰る時も「お願いします」。
私、機械がダメなんです。

携帯も「本当は持ちたくない」って言ったら、「あんたがいちばん持っとかないといけんだがね」って娘に言われました。
「いちばん遊び歩いてるから」って(笑)。

CHAPTER8

薬も何1つ飲まずに、元気でおれるのがいちばん幸せ

もうこれ以上、出すものはないです(笑)。現状維持です。

―今まで、お仕事のお話を中心に伺ってきたんですが、お休みの日は、小川さんはどんなふうに過ごされているんでしょうか。

休みの日っていうと、寝てることがあまり好きでないんですよね。

午前中は9時ぐらいまでに掃除洗濯を済ませて、今、年齢的に車に乗れない友達もいますので、その人を連れて「買い物行くよ」って11時ぐらいまで買い物して。

今の時期だったら「ふきのとう取りに行こうか」とか「今日はお蕎麦食べて帰ろうか」とかそんな感じ。
それで、午後はそうですね。ケーキ焼いたりしてます。

―お仕事に限らず、「こんな瞬間が幸せだな」っていう時ってありますか?

今、薬も何1つ飲まずに、元気でおれるっていうのがいちばん幸せです。

―それは素晴らしいですね。これから――お仕事で「こんなふうに働いていきたいな」「こんなこと挑戦したいな」、そんな思いがありましたら教えてください。

そうですね。もうもうこれ以上、出すものはないです(笑)。
現状維持ですね。

―小川さんご自身は、「これからこんなふうに生きていきたいな」というものはありますか。

そうですね。今は主人と娘と3人で住んでるんです。
と、犬が2匹。

私もだし、お父さんも耳が遠いし、いろんな書類が来ても、出す時には娘に「これでいい?」って見てもらってます。
今はまだ私が元気だからいいけど、「娘の枷になったら……」と思って頑張ってます(笑)。

小川さん手作りのチーズケーキ。24cm!

CHAPTER9

元気のもとは人と会うこと、手を動かすこと

デイホームにいらっしゃる利用者さんはお食事をきれいに食べてくださる。完食してお膳が下がってくるのを見ると「やったー!」っていう感じです

―小川さんのお話を伺って、何かをずっと続けるってなかなかできないことでもあるなぁ、と感じました。

実はね、今も働いていて恥ずかしいんですよ。
町内でも同じ年代の方がたくさんいらっしゃる。

みなさん、“おばあさん”してるでしょ。私は外に出てますでしょ。
それでみんなからね、「小川さん、まだ仕事してるの」って言われるんです(笑)。

私と同じ年代のみなさんは、今、お孫さんの面倒見てる人もたくさんいらっしゃるんですよね。
でもうちはこどもが結婚するのが早かったので、孫支援は卒業して、今はひ孫支援。

だからひ孫から力をもらってます。

それから今、デイホームにいらっしゃる利用者さんもとっても元気でね。
お食事をきれいに食べてくださるんですよね。

だから、そんな姿――完食してお膳が下がってくるのを見ると、「やったー!」っていう感じですね。
家にいるとストレスが結構溜まるんだけど、ここ(デイホーム土屋錦海)に来るとストレスがなくて。

―人と会うことや手を動かすことが、小川さんにとっての元気のもとなんですね。

家でも私がいちばん元気じゃないでしょうかね。
うちは主人が結婚した時から船に乗ってたんですよ。

船に乗ってて20日ぐらい帰ってこないんです。
だから、結婚したのも「いつもいないんだ」っていうのもあって(笑)。

「だったら休みの日は、実家の兄の農家の仕事を手伝える」なんて当時は思ってたから、主人が船で出てる時はいつも実家に帰って農家を手伝ってました。

それこそご飯作ったり、掃除したり、洗濯したり。

鳥取に来てからは、サッシのメーカーで働いていても、友達や弟が東京にいるので、お父さんが留守になると東京に行ってはいろんなところに連れて行って貰っていたんですよ。


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