定期巡回

定期巡回サービス土屋

大岩謙介

小金井 管理者

夢が終わったとき、開いたドア。

 《interview 2025.08.08》

定期巡回サービス土屋小金井で管理者として働く大岩謙介(おおいわけんすけ)。
こどもの頃から体が弱かったという大岩は、支えられてきた経験を経て、人の命を支える仕事をめざすようになります。
消防士としての経験、その後のグループホームのがわとの出会い。
「その人たちが幸せに生きてることに近づいていくひとつの要因になれたらいいな」――そんな思いを抱きながら、介護を仕事にして16年。今、定期巡回サービスという新たな事業をつくりながら、認知症対応型生活介護 グループホーム土屋北九州にGM補佐として関わる大岩。
<仕事>と<ひとりの人>としての思い、そして<冷静>と<情熱>のあいだを行き来しながら動く、大岩の日常を訪ねます。

CHAPTER1

人の話を聞くのが好きで、話を全部覚えてる子でした

「運動は好きじゃなかったですね。こどもの頃は勉強ばっかりしてた気がします」

―生まれ育ったのはどちらなんでしょうか。

実は生まれたのがニューヨークなんですよね。

―ニューヨークですか?!

……といっても3歳までなので記憶はないんですが。
父親が銀行員で、その頃バブルだったのもあり、海外に4、5年いたみたいです。

その時にたまたま僕が生まれただけで、親から嘘をつかれてるとずっと思っていました(笑)。
さすがに写真があったので「本当なんだ」と思ったぐらい、記憶がなさすぎてーー残念ながら英語は何も身についてないんです。

中学の時、赤点でしたから(笑)。

―こどもの頃のことで思い出すのは、日本に戻ってきてからのことでしょうか。

そうですね。戻ってきてからは千葉県の流山市で、25歳までそこで暮らしました。
流山市は、今は子育て支援が充実した町になってきたみたいですが、私がこどもの頃は田んぼがあって、畑でカエルが鳴いてるような場所でしたね。

小学校の頃はーー少年野球に入っていたので、毎週日曜日は地元の野球団の人たちと一緒に野球をしていたんですが、僕は運動が全然できなくてーーどんくさくはないんですけど、通信簿で体育は5段階の中の3しか取れないぐらい普通の子。

野球では1度もレギュラーを取ったことなくて、運動は好きじゃなかったですね。
その頃は勉強ばっかりしてた気がします。

「親がさせてた」って言う方が正しいかと思いますが、ひたすら勉強をしていました。

―じゃあ、勉強したり、本を読んだり……

これがですね、本当に申し訳ないですが、本を読むのは大嫌いだったんですよ。
本を読んでると頭痛がしてきて、心がどんどん暗い気持ちになるぐらい……(笑)。

ただ私は人の話を聞くのが好きだったんですね。学校の授業で、とにかく先生の話を45分間ずっと集中して聞いてられて、それを全部覚えてられる子だった。

友達が言った話も何年経っても覚えてたり。
あと、ちょっと変わっていたんですが、クラス全員の誕生日を覚えていたんですよ。

クラスのみんなに1年を通して「誕生日おめでとう」って言ってましたね。

それから、行動力はあったんです。「人見知りをしたことがない」っていうのが自慢で、赤ちゃんの頃から誰が抱いても泣かない子だったらしいです(笑)。

今でもそうなんですが、誰に会っても気遅れしない。
すぐ友達になっちゃうところがあるので、人に会いに行くのは全く苦じゃないんです。

人の話を聞くのも大好きなので、今も介護のセミナーがあると、すぐに行って話を聞いて、丸覚えして帰ってくる。

本は読めないんですが、多分、話を聞くところから、これまでのいろんなものが蓄積されたんだろうな、と思ってます。

CHAPTER2

消防士の仕事――人の命を助ける仕事へ

もともと怪我をよくする子で、そのリハビリに付き添ってくれた「理学療法士」に憧れて

―その後、10代や中高生の頃に熱中されてたことはありましたか?

10代の頃はーープロレスを見るのが好きでした。今考えると、筋肉の話が好きになったのはその頃ですね。
実はもともと体が弱くて、運動嫌いだったんです。

よく怪我をする子で、筋肉や骨が弱くて骨折も何回もしたし、脱臼も何回もして救急車で3、4回運ばれていました。

医療職の方に接する機会が他の人より多かったのもあったり、リハビリに2ヶ月、3ヶ月ずっと付き添ってくれる人たちを近くで見て、リハビリのP T(理学療法士)さんになりたくなったんです。

高校卒業後は、理学療法学科がある学校を受験しようとしたんですが、あまり勉強が好きじゃなかったのもあって受からなくてーー。
でもその中に「救急救命士の学科を来年からつくります」っていう学校があったんですね。

P Tの学科で受験して、もし合格しなくても、その学科に入れるぐらいの点数を取っていれば、救急救命士の学科に入れた。

実は正直、「医療職だからいいかな」くらいの気持ちで、そんなに興味はなかったんですが、救急救命士の学科に入ることができました。

でもその時は救急救命士が消防の資格だっていうことも知らなくてーー入ってみたら、「消防官になりたい」「救急隊になりたい」っていう同級生しかいなくて驚きました。

採用試験には体力テストもあったので、そこから本格的に体を鍛えだして、救急救命士の資格を取って消防士になりました。

―実際に消防士になられて、いかがでしたか?

そうですね。
救急救命士の仕事は勉強すればするほど楽しそうだったので、「頑張りたいな」っていう思いはありました。

学生時代は医学部のある学校に友達がいたので、医学部の人たちと一緒に心肺蘇生や救急医療の勉強会に行って学んだり、友達になったりしていてーーそれが実は後ののがわの入社にもつながるんですが。

ただ私は体があまり強くなかったのもあって、結局は消防の世界に入ってもすごく大変だったんです。

消防士って「学年でいちばん足が早い」「いちばん力持ち」っていう人たちがゴロゴロ集まってるような世界なので、訓練についていくのも大変でした。

もちろんそれなりに頑張ったとは思うんですが、ある時、訓練中に怪我をして、骨が折れちゃった。
それで骨が折れて訓練ができないまま、半年間寮生活をしなきゃいけなくなりーー。

「寮生活をして、一人前の消防士になる」というのが、新米消防士の通る道なんですが、最初の2ヶ月ぐらいずっと訓練に参加できなかったんです。

訓練ってすごく大変なんです。

県内の新米消防士が集まっていて、そんな中で「ひとりだけ訓練に参加してない」「辛いことをやってないやつがいる」――そんなふうに仲間外れにされることが多くなって、同じ柏市の同期はみんな庇ってくれていたんですが、それでも私自身も何も役に立ってない自分がだんだん信じられなくなってきてしまいました。

そのうち、「俺は何のために生きてるんだろう」なんて思うようになって、うつ病になってしまったんです。

でもその時に僕を見てくれていた教官が、うつ病で現場を退職して教官になった人だったんですよね。

その時に「大岩がおかしい」ってすぐに気づいてくれた。
それですぐに病院に行って、うつ病の診断を受けて、悩みましたが……消防士を辞めることにしました。

ちょうどその頃、学生時代に友達だった医学部の人が研修医をしていたのが、グループホームのがわの主治医の先生のところだったんです。

「認知症や介護のことはわからないけれど、救命士で医療の知識はあるし、心は今ちょっと元気がないけど、体は元気な人がいるよ」って伝えてくれて。それがきっかけでのがわに入社したんです。

―そういうつながりからのがわと出会われてるんですね。

その友達は今、産婦人科医になっていて、娘が生まれる時に診てくれたんですよ。本当に頭が上がらない友達ですね。

CHAPTER3

のがわの介護は、僕がこれまで知っていた介護ではなかった

認知症の症状のある人たちがあたりまえに、活き活きと生きてる姿を見て、「この人たちを支える仕事なんだ」って思えて誇らしかった

―のがわに入られて、介護の仕事はいかがでしたか?

そうですね。僕はもともと、介護にあまりいいイメージは持ってなかったんです。
ただ、昔から僕は自分が生きてる意味があまりわからない人間でした。

「自分ってなんのために生きてるのかな」って自問自答しちゃうこどもだった。

だから、「“直接、人の命を助けるっていう自分”は生きててもいいのかな」って思えるようなところがあったので、それで消防士をやっていたーーというのもあるんです。

介護の仕事を始めて3年経ってからですね。

その頃はまだ消防士の採用試験を受けられる年齢で、「いつか消防士に戻りたい」「うつ病を治したら消防士に戻りたい」と思っていたんです。

でも「このまま採用試験を受け続けて、落ちて、介護の仕事を続けてーー」というよりは、「この道で生きていくって自分で決めた方がいいだろうな」と思った時があって。

それがちょうど介護職3年目の頃でした。

それで「消防士に戻るのはやめて、僕は介護の道で頑張っていきたいと思うので、これから改めてお願いします」っていう話を当時のグループホームのがわホーム長の高浜将之(たかはままさゆき/常務取締役 兼 COO副最高執行責任者)さんにしたんです。

そう思ったのは、「のがわの介護が、僕がこれまで思っていた介護ではなかった」というところが大きくて。

認知症の症状のある人たちが、普通に、当たり前に、活き活きと生きてる姿をのがわで見て、「この人たちを支える仕事なんだ」って思えてすごく誇らしかった。

なんかこうーー「誰かの役に立てているのなら、僕は生きててもいいかな」って思えたところがあったんです。
その思いは今でもありますね。

―大岩さん自身はのがわに入られてから、ユニットリーダー、介護主任、ホーム長と立場が変わられていきます。その中で、ご自身にとっての大きな変化はありましたか。

もともと、僕は正論が多かったんです。
それは親の教育だったと思うんですが、「こうでなければならない」っていうすごく狭い価値観で生きてたところがあった。

だから、「それができてない自分は生きてる意味がない」と思っちゃうぐらい、親からの言葉の呪いだなと思ってるんですけどね(笑)。

たとえば、小学校や中学校の頃、授業中に先生の話を聞いてないで遊んで喋ってる子にイライラしてしょうがなかったんですね。
それが介護の世界に入った時もやっぱりまだあってーー当時は一生懸命、介護をやろうと思い始めた頃だったので。

正直な話、介護に限らず、どこの世界にもそこまで熱心に仕事をしてない人ってやっぱりいるんです。
そういう方に対して、どうしても正論で訴えてしまうところがありました。

柔軟さがないというか、その人に合った話し方をすることが全くできてなくて、その頃はよく将之さんに怒られましたね(笑)。

グループホームには第三者評価というものが年に1回あって、毎年、自分のしてる仕事を評価してくれるんですが、初めての評価の時――たしか、「大岩くんはのがわをどうしていきたいのか」って聞かれて。

ユニットリーダーになって1年目(介護歴4年目)ぐらいだったと思うんですが、「介護のことも何もわからないし、まだ期間が短いから、今は高浜(将之)さんの言うことを真似してるので精一杯です」と返したら、ケチョンケチョンに言われたのを覚えています(笑)。

結局は「この先、どういうことをしたいか」「ビジョンをちゃんと持ちなさい」ってことを言われて、「今いる利用者さんと、スタッフで、どういう介護をのがわで展開するかを君が考えなかったら誰がやるの」っていうことを毎年のように言われてきました。

そこですごく成長させてもらえたというかー―もちろん苦しかったですが、あの時間がなければそういったビジョンを考えられる人間にはならなかったとは思うので、第三者評価の方と、上司が将之さんだったことは自分にとっては非常に大きかったと思いますね。

CHAPTER4

「ホント変わんないよね、うちの母さん」っていう感じのまま、その人が天寿を全うできるなら

「なんだかめんどくさいなぁ」なんて思ったり、笑ったりしながら、その人らしさを認める

―そういった第三者評価や現場でのやり取りの中で見えてきた、大岩さんのビジョンはどんなものだったんですか。

「その人が活き活きとしてるかどうかがはっきり見えるのがいいな」と思っていて。もちろん人によっては、本人なりに楽しく生きてるんだけど、周りから見ると活き活きしてそうに見えない人もいるんですけどね(笑)。

それでもその人らしく生きてるってことがーーもちろん制約はあるとは思うんですよ、介護施設なので。

どこまで行っても絶対的な自由ではないですが、介護保険の中でも「その人がその人らしくいられて、家族も安心できて、最期までそんなふうにいられてるなっていう姿が見える時ってすごくいい仕事ができてるんだろうな」とは思ってはいて。

のがわにも、“超”が付くほど独特な方がたくさんいらしたんですよ。

たとえば、まわりから見れば“暴言”に聞こえるようなことをよく口にする方がいらしたんですが、でも彼女にとってはそれが彼女らしさであって、みんなも「あの姿が彼女なんだよね」って認めていてーー。

もちろんそれまでにいろんな方がいろんな関わりをしましたし、度が過ぎた時はこちらも注意したりもしました。

そういう彼女にとっての自然な姿が理解できるまでは周りは傷つくんですが、「それぐらいで済んでるうちはいいかな」と思って。
ご本人が楽しそうにしてる時があるんですよね。

それから、ある方は人にお節介焼くのが好きで、でもかと言って、自分が他の人からお節介されるとすっごく怒るんです。
それを「なんだかめんどくさいなぁ」なんて僕たちも思いながらも“彼女らしさ”として認めてるところもあってーー。

娘さんも「すみません、母はあんな人なので」なんて言いながら、「お世話になってます」って言ってくださったり。

そういう、その人が生きてきた人生をそのまま、認知症になっても「その人らしいよね」って周りが笑えるようなーー「ホント変わんないよね、うちの母さん」「父さん、いつまでもそんなこと言ってるよね」っていう感じのまま、もし天寿を全うできるんだったらすごく素敵だろうなっていうのが僕の思う介護なのでーー。

その思いは、グループホームであっても、定期巡回になっても変わらないですね。
「認知症になってあの人は変わってしまった」って言われるのは非常に悲しいことかなって僕は思っているので。

なるべくそれをーー“その人らしさ”が変わってしまう部分はどこかであるんですが、「あ、でもここの部分はまだ昔のままの親だな」「兄だな」っていうところが見えるように、残していけるように関わるし、僕たちも「グループホームでもこういうところがありましたよ」っていうエピソードをちゃんと伝えて、ご家族がすこしでも苦しまないようにというかー―。

親御さんやご兄弟を人の手に任せたことで、「裏切ってしまった」みたいに自分を責めてしまうご家族は結構いらっしゃるんです。

でも「いやいや、私たちに任せてくれたからこそよかったって思えるような結末に持ってかないといけないな」と僕は思っているので、そこはすごく大事にしてますね。

CHAPTER5

定期巡回サービスへーー街全体をひとつの施設と考えて

15年の施設介護を経て、訪問介護へーー“相手のホーム”に入っていくことは、今までとはちょっと違う形で支援に入ることでした

―その後、グループホームのがわから2024年に土屋に転籍されます。定期巡回サービスに関わられるようになった経緯を教えてください。

もともとは土屋で別のプロジェクトが立ち上がっていて、その施設に異動と同時に、土屋へ転籍することになっていたんです。
でもそのプロジェクトが途中でなくなりーー「さて、どうしようか」と。

ちょうどその頃、土屋が「定期巡回を事業としてやっていこう」としていて、小金井市でもその話があがっていたんですね。
そこから、小金井の定期巡回の立ち上げに関わることになったんですがーー「あ、訪問をやるんだ」と。

人生初訪問介護でした。

―初めての訪問介護、そして立ち上げから関わられています。当初はどんなことを感じられていたんでしょうか。

15年施設介護をやってきたところだったので、最初は不安しかなかったです(笑)。
ただ、将之さんから事前に定期巡回事業については聞いていたんです。

「街全体をひとつの施設と考えて、その時、誰の支援にいちばんに行った方がよいかを判断する」とか、「形が変わっただけで、1対1でその人の自立支援をすることは変わらない」とかーーむしろ「定期巡回は、訪問介護出身の人ばかりでなく、施設で働いていた人がいた方がうまくいくんじゃないか」みたいな話もあったんです。そこだけを心の拠り所にしてスタートしました(笑)。

定期巡回サービス土屋小金井を開設する前に、別の定期巡回サービスですこし研修をさせていただいたんですが、私が入った時にクレームが起きちゃったことがあったんです。

というのも、私はグループホームで働いていたので、やっぱりそこはアテンダント側の“ホーム”だったんですよね。
その方を知るために、結構突っ込んだ質問を割としていました。

でもある訪問先でーー同行訪問だったんですがーークライアントさんとお話をさせていただいている時に「好きな食べ物」とか、「今飲んでるものってどんな味で」とか、いろいろこれまでと同じように質問をしたんです。

でもそのあと、同行したアテンダントさんがひとりでその方のご自宅に訪問した時にーー「あれこれ聞いてきて、さっき来たアテンダントはなんなんだ」というようなことを言われたそうです。

そのことを聞いて、僕の中では「あぁ、そうなんだな」と驚きました。
ご自宅に伺うので、クライアントさんが大事にしてるもの、大事にしてきたもの、その家のルールがたくさんある。

それを知らない中で、気軽に触れてしまうことは非常にデリケートな問題だったんだな、とーー自分の中で反省をさせてもらいました。

「相手のホームに入っていくということは、今までとはちょっと違う形で支援に入らなきゃいけないんだな」っていうことを、そこで勉強できましたね。

CHAPTER6

クライアントの在宅生活をなるべく伸ばし、支えていくこと

訪問診療、訪問看護、定期巡回……さまざまな事業者とつながって小金井市に住む人の生活を支える

―現在は定期巡回サービス土屋 小金井では、どんな仕事に関わられているんでしょうか。

定期巡回は小金井市内の地域密着型サービスとして、小金井市内の在住の方に向けてサービスを提供しています。

実はクライアント(被保険者)からのご依頼があって、4月から行政間での取り決めがなされ、小金井市の隣の武蔵野市でもサービスができるようになりました。

武蔵野市在住のクライアントを担当されているケアマネさんから、「武蔵野市の定期巡回からサービスを断られてしまって、小金井市から来てもらえないか」という話があったんです。

その方のご自宅は武蔵野市の定期巡回からすごく遠いところにあって、小金井の事業所の方が圧倒的に近い場所にあったんですね。

在住地以外の他の市町村の事業所の指定は、あまりうまくいかないことが多いんですが、武蔵野市の方はとても柔軟に対応してくださいました。

それから、実はもともと小金井市には別の定期巡回の事業所があったんですが、6年前に一度撤退してしまったんだそうです。

採算が取れなかったり、訪問介護員が少なかったりーーさまざまな理由が重なってなくなってしまい、夜に訪問介護が誰も受けられないような状況が6年ほど続いていた、ということを小金井市の行政の方からお聞きしました。

でもそれをなんとか復活させたのが定期巡回サービス土屋小金井だったんですよね。

そういう状況もあったので、「他市のクライアントさんから依頼を受けて、ちゃんと報酬をもらって、定期巡回事業そのものが小金井市に今後も残っていってほしいので、全力でサポートしますよ」と小金井市の方も言ってくださったんです。

「定期巡回がなかったら施設に入らなければいけない」といった状況や、訪問診療や訪問看護の方が大きな負担を感じながら支えるようになってしまう状況を、正当なサービスとして提供しながら、なるべく在宅介護の限界を伸ばし、支えていくことが、今はできてるのかなーーそんな思いがありますね。

CHAPTER7

その人の生活リズムを崩さないように、支援を、人を「つないでいく」

街全体をながめるような視点で、「どうしたらこれだけの数のクライアントさんが今日1日をご自宅で無事に過ごせるか」をおもう

―小金井で働くみなさんや、事業所の特徴などあったら教えてください。

定期巡回サービス小金井の特徴なのか、定期巡回事業の特徴なのかはわからないんですが――僕たちの強みって2つあるなと思っているんです。

ひとつは、介護保険を使いたくなくて、介護保険サービスを拒んでいた方たちに受け入れてもらえることが多いんです。

まずはクライアントさんと顔見知りになって、仲良くなって、「あんたたちなら入っていいよ」と言ってもらえるようになってーーお節介をしても怒られない人間関係になりながら、ちょっとずつアテンダントに慣れていってもらって。

クライアントの中には、その後、デイサービスに行けるようになった方もいらっしゃるんですね。

「これは小金井のアテンダントさんたちの魅力なのかな」とも僕は思ってるんですが、みなさん、コミュニケーションの技術がしっかりしていて、人柄がいい方ばかりなんですよ。

定期巡回は毎回違うアテンダントがご自宅を訪問するんですが、最初は玄関でお話するだけだった関係が、徐々にお部屋にあげてもらえるようになって、そのうち誰が行っても「あ、土屋さんね」ってなるんです。

訪問介護ではできない部分――たとえば、土曜も日曜も毎日行くことができる。

それでいて、その方の生活リズムを崩さないように、不在だったらその後、時間が空いてればもう1回ちょっと行ってみて、その時に会えるようにしたり。

そう考えると、「つないでいく」ことに定期巡回サービスはすごく長けてるなとは思いますし、実際に介護サービスが入ることで在宅介護の限界も伸びているとも思います。

それから、小金井のアテンダントの方は、亡くなる方の多い大型施設で勤めてた方が何人もいて、看取りやターミナルケアを経験されてきた方が多いんです。

訪問診療と訪問看護、それから定期巡回のスタッフみんなで、ご自宅で最期を迎えたい方たちのターミナルケアを支えるーー「その力になれてるな」っていうことはすごく感じてますね。

だからこそ、ケアマネージャーさんも在宅で最期を迎えたいという方の依頼をくださるんです。

「こういう方は土屋さんに任せておけば大丈夫」――そんなふうに言ってくださるようになって。
そこで信頼を得られたのかなっていうのもありますね。このふたつは自信を持って「小金井の強みです」って言えるかな、と思います。

―先ほど、“街全体をひとつの施設みたいに捉える”と仰っていました。大岩さん自身が施設の介護から定期巡回に移られた時、そういう感覚や視点が変わってきたところはありますか。

本当に「“街全体を介護施設として捉える”っていう感覚は定期巡回事業にすごく合ってるな」と思いましたね。

定期巡回では、その日の朝のクライアントの状況を聞きながら、「じゃあ、昼の訪問はAさんよりBさんの訪問に先に行った方がいいな」なんて変更もしょっちゅう起きますし、ご家族からの連絡で「今日、◯◯の用事が入ったから、訪問の時間を変えてほしい」といったことも当日言われたりもします。

のがわにいた時も、「(入居している)お母さんとご飯食べに行ってきます」なんて当日に言われて家族で外出されることもよくありました。そこは、のがわも事前予約がない施設でしたから。

「◯時にAさんがお家にいなかったから、Bさんの家に先に行こう」なんて時は、他の人の支援に伺った後、帰りに寄れそうだったらAさんのところにも寄るし、それが難しかったら別のアテンダントにAさんのご自宅に行ってもらうとかーーアテンダントみんなで連絡を取り合いながら、

“アテンダントひとりでここまでやる”という人単位の仕事ではなく、「みんなで、今日1日のやるべきことが全部終わっていればよし」と思ってやっていますね。

街全体をながめるような視点で、「どうしたらこれだけの数のクライアントさんが今日1日をご自宅で無事に過ごせるか」ーー必要な支援を入れることを“誰から”、“どの順番でやっていくか”は毎日違うんです。

だから本当に「街全体が介護施設みたいな感じだな」って思いながらやっていますね。

CHAPTER8

毎朝、娘と一緒に家を出て、別れるまでのひとときに

月1回はサッカー観戦に行って、ゴール裏で叫んで帰ってくる。そうやってエネルギーを補給してます(笑)

―ここまで仕事のことを中心に伺ってきましたが、大岩さんのお休みの日の過ごし方について伺いたいです。

今はとにかく、娘と一緒にいる時間が幸せでたまらないですね。
朝、娘が小学校に行く時、私も同じ時間に出勤するので、手をつないで外まで一緒に行くんです。

それで、玄関先でそれぞれ別方向に「バイバイ」って言って別れるんですが、すごく幸せだなと思いながら。
平日は、帰ると大体娘は寝てる時間なのでなかなかゆっくりは過ごせていないので。

休みの日は「すこしでも一緒にいたいな」って思いますし、そこがないと多分心が壊れちゃうんじゃないかー―ぐらい、娘の存在は大事だなと思ってます。

あとは今、サッカーの応援に行ってるんですよ。

もともとサッカー観戦は好きだったんですが、のがわの仕事や定期巡回の立ち上げもあって忙しくて、ここ4、5年、自分の好きなチームの応援に行けてなかったんですね。

僕は千葉県の流山出身で、流山の隣に柏市があるので、柏レイソルが好きで応援に行っていました。

実は小金井のアテンダントに熱烈なサッカーファンの人がいて、最近、その人から“熱”をもらったみたいで、自分の中の“サッカー観に行く熱”がちょっと蘇ってきました。

なるべく月に1回ぐらいは、柏レイソルを追いかけて試合を観に行きたいな、と。
それでゴール裏に行って、叫んで帰ってくる。月1回、そうやってエネルギーを補給してますね(笑)。

CHAPTER9

「小金井市は安心して最後まで自宅に居られる街です」って言えるように

きちんとしたサービスを提供できることと、そして働き続けられる環境をつくること。そうやって、この定期巡回サービスを小金井にちゃんと残していかないと。

―最後に、これからのことを伺えれば、と思います。「定期巡回でこんなことを行っていきたいな」、と同時に「小金井っていう地域がこんなふうになってたらいいな」というところを聞かせてください。

地域包括ケアがここ何年も言われている中で、定期巡回はすごく大事な役割を担っています。
先ほどもお話ししましたが、小金井はかつてあった定期巡回がなくなってしまった時期がありました。

そういう中でも、自宅で暮らす方を訪問看護さんやケアマネさんが大変な思いで夜を支えていた。
その話を聞くと、この定期巡回サービスを小金井にちゃんと残さなきゃいけないな、と思いますね。

クライアントさんの生活はもちろん、他の介護サービスの人たちにとっても「僕ら定期巡回サービスがいなくなってしまうと、小金井市全体が大変になる」という状況を感じています。

小金井に1事業所しかない僕らはどうしても残らなきゃいけない。

そのためにはきちんとしたサービスを提供できることと、そしてそこに対して働く人たちが働き続けられる環境をつくることをやってかなきゃいけないなとは思っています。

僕はのがわにいた時に「のがわは最後まで安心して居られる事業所だ」ってずっと言ってきたんです。

でも今はーー「小金井市は安心して最後まで自宅にいられる街です」って言えるようになるための、ひとつの要因になれたらいいなと思っていて。

実は小金井の、訪問診療をやってくださってるお医者様たちの集まりの時に、宣言したことがあるんですよ。

「時間はかかるかもしれないんですが、小金井の夜のオンコールは全部うちに振ってもらえるぐらい、ちゃんとした事業所になりたいです」って。

「何かあったら、とりあえず定期巡回を呼んでくれれば介護員が駆けつけます。そこで看護や医療が必要だったら、訪看さんや訪問診療に僕たちから連絡することができるような体制が取れたら、誰もが安心して暮らせる街になるので、そこまでのサービスができるような事業所に成長していけるようになりたい」って話をしちゃったんです(笑)。

だから、やるしかないんです。
ありがたいことに、そこで訪看さんや訪問診療をやってくださってる先生たちがいい印象を持ってくださったようです。

「それぐらいの気持ちを持った事業所さんができてよかった」っていうふうに言ってくださったので。

今、看護師さんやお医者さんの方から定期巡回を使うことをご家族に勧めてくださるようになってきたんですよね。
そういう、いい関係性を構築しながら、小金井がいい街になったらいいな、って思いますね。

―いいですね。もうすでにいい循環が巡っているように感じました。最後に、大岩さんはなぜここまで介護の仕事を続けてこられたのか、この仕事の魅力を伺えれば、と思います。

本音の話をしてしまうとーーあまりこの仕事の魅力の話にはならないんです(笑)。

うつ病になった経緯もそうですし、これまでの話にも出てきたんですが、「自分はなんのために生きてるんだろうな」って思っちゃうところがこどもの頃からあって、今でもそうなんですよね。

誰かに必要とされてないと無価値な人間に自分が思えてしまう人間なので。

本音のところはきっと、消防士をやっていたのもそうだし、介護をやってるのも、直接誰かの手助けになることをしていないと自分自身が壊れちゃうからだと思ってはいます。

それって介護の仕事の魅力でもなんでもなくて、僕自身のパーソナルな部分なんですが、「こういう仕事を選んでいる理由はきっとそこだろうな」とは自分では思っているんです。

人と関わりながら、その人に「あなたがいてくれてよかった」って思ってもらえるーー言葉にしてくれなくてもいいんですが、その人が活き活きと過ごしてる姿を僕は見ていたいというかーー。

自立支援って僕、すごく素敵だと思うんです。
その人が社会的にも、経済的にも、精神的にも自立している姿ってすごく美しいな、って思うので。

そうやって、僕と関わったことでその人が自立に近づいていくことができるのであれば、すごく嬉しい。
それは、そのことで僕自身も「生きていてよかったな」って思えるからだと思うんです。

クライアントさんもそうだし、今一緒に働いているアテンダントに対してですが、「その人たちが幸せに生きてることに近づいていくひとつの要因になれたらいいな」ってずーーっと思って仕事をしてるというかーーだから、“介護の仕事の魅力”については僕は話せないんですよね(笑)。

僕が勝手にやってることなので。

―そうなんですね。パーソナルなところで介護の仕事に関わることになった方は多いのではないかとも思います。もちろんバランスは大事ですが、その部分と、仕事への熱意ややりがいというのはどこかでつながっていると思いますし。

ホームケア土屋関東ブロックマネージャーの小川力信(おがわりきのぶ/有限会社のがわ 副代表)さんから、「大岩くんってパッションの人だよね」ってよく言われるんですよね(笑)。

パッションが漏れてるから、それを感じる人は仲良くなれるね、って。
ケアマネさんでもそのパッションにほだされて「そこがたまらなく好き」っていう人が絶対できるよね、とよく言われます(笑)。

【編集後記】

記事を作成する過程で、インタビュアーはその人の「声」を何度も読み、体験します。
その上で、どんな表現にしたらよいかをその人と相談することがしばしばあります。

今回もそうでした。

記事の作成後に思い出されたのは、この仕事を続ける理由を尋ねた時のこと。
「本音のところはきっと、(略)直接誰かの手助けになることをしていないと自分自身が壊れちゃうからだと思ってはいます。それって介護の仕事の魅力でもなんでもなくて、僕自身のパーソナルな部分なんですがー―」という言葉です。

大岩とその後のやり取りをする中でも、ひとつひとつの言葉のまっすぐさに「きっと、この仕事と向き合う中で、自分に嘘をつくのをやめた方なんだな」と感じ、そんなことを伝えました。

大岩から返ってきたのは……

「嘘をつかない、というのは認知症ケアの中で私が教わった大切なコミュニケーションなんです。いつでも実践できているわけじゃないですが(笑)。
実は、僕がうつ病だったことを公表していくきっかけは小川力信(前述)さんなんです。

小川さんは、僕が土屋へ転籍する前から、同じ小金井という地域で一緒に介護の仕事を頑張ってきた仲間です。

出会ったばかりの頃、『今の元気な大岩君しか俺は知らないから、うつ病だったと聞いて、正直なところ、嘘だろうって思ったけど、本当にそこからここまで回復したなら、絶対誰かの希望になれるからもっと公にした方がいい』って言われたんですよね。

そのあと小川さんが土屋に転職、私はのがわから土屋へ異動。一緒に土屋の仲間として働くことになるとはその時には思いもしませんでした」

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