介護事業部

介護事業部 ホームケア土屋

武田勇輝

九州 エリアマネージャー

私達はどこまでも人間だ、欠けたり出っ張ったり、喪い、産み出す、人間なんだ。

 《interview 2025.10.10》

ホームケア土屋 九州ブロックでエリアマネージャーとして働く武田勇輝(たけだゆうき)。
こどもの頃は“引っ込み思案”だったと話す武田ですが、進学や仕事、引っ越しといった新しい出会いや挑戦の積み重ねがそんな武田をすこしずつ変えていきます。
おじいちゃんおばあちゃんへの思い、こどもたちの未来、障害を持つ人と向き合ってきた時間——多種多様な立場の人との対話の経験が今の武田の内なる多様性を形成しているようです。
社会の中で耳をすませれば聞こえてくる、さまざまな“声”。
その声に応えていく、という仕事——これからを見つめて動く武田のまなざしを追いかけます。

CHAPTER1

引っ込み思案だったこどもの頃。社会と出会うことでゆっくり変わっていった

ボクシングジムに通ったり、アルバイトを始めたり、さまざまな土地で働いたり——社会と繋がる経験を通して

―武田さんが生まれ育ったのはどんなところだったんでしょうか。

出身は宮崎県宮崎市です。

その後、あちこちに引っ越しをしてはいるんですが、その頃住んでいたのは市内でも山の方だったので田んぼがあったり畦道があったり、と自然豊かな場所でした。

祖父が林業をやっていたので目に触れるところに重機が置いてあったり。
農業にも関わっていたので、小さい頃はよく農作業をしながら遊んでましたね。

―友達とはどんなことをして遊んでいましたか?

今どきの子とも共通するんですが——自然がありながらも、家庭用ゲーム機ですよね。

今もこどもたちが公園に集まってnintendo switchをやってる姿を見ますが、それは当時も変わらず、誰かの家に集まってみんなでゲームをしたり。

それから、野球といった運動遊びもしていましたね。

―ご自身はどんなお子さんでしたか。

今もその部分はちょっと残ってますが、結構恥ずかしがり屋さんのところがあって。

引っ込み思案でした。

―その後、中学や高校、10代はどんなふうに過ごされていましたか。

中学の頃から本を読むのが好きでした。当時は、漫画を読むことが多かったですね。

王道の“冒険もの”から、格闘技の漫画もよく読んでいました。

当時はK-1(キックボクシングを中心とした格闘技イベント)が流行っていた時期で、中学校を卒業してから地元のボクシングジムに通い始めました。

本当はキックボクシングが良かったんですが、近くになくて。

通っていたのはボクシングジムで、プロボクサーの方から「君、パンチ早いね」と言われたのをいまだに覚えてます(笑)。

当時は、単純に「自分の体を鍛える」っていう目的でジムには通っていました。

でも振り返ってみると、ボクシングがその後の自身の性格にもいい影響を与えてくれたのかな、と思います。

もともと引っ込み思案で、仲のよい人にも「初めて会います」ぐらい緊張してしまったり、「人の目を見るのが苦手」なところもあったんです。

でもボクシングジムに通ったり、高校からアルバイトを始めたり、卒業してからは東京の大学に進んだり、その後、愛知、大阪……といろんな地域を経験して、福岡にいちばん長く住みました。

そういった中で社会との繋がりが新しくでき、引っ込み思案だったところが15歳頃から徐々に克服されていったように思います。

林業を営んでいる武田さんのおじいさん

CHAPTER2

進学で東京へ——自立支援センター、重度訪問介護との出会い

「慎重に対応すること」、「軽はずみな言動はしないこと」。頭を張り巡らせながら対応するという行動が染み付いたのが自立支援センターでの経験でした

―その後、どんなことを学んだり、どんなお仕事をされてきたんでしょうか。

大学で東京に出て、法律を学んでいました。
もともと、私はおばあちゃん子だったんですよね。

小学生の頃は父も母も働いていたので、よく祖母の家に行って面倒を見てもらっていました。

その時によく祖母と「将来何になろうかな」なんて話をして——いつも冗談で「医者」「弁護士」なんて言っていたんですよ(笑)。

当時は「祖母が喜ぶ仕事に就きたいな」と思っていたところがあったんです。

今思えば、「(自分以外の)◯◯が喜ぶから」っていうのがその頃の自分の考え方だったんですね。

でも、祖母はその後、白血病になり、自分が16歳の時に亡くなってしまって——「喜ぶ人がいなくなるな」っていう思いがありました。

そんなこともあって、「おばあちゃんが喜ぶかな」「じゃあ、弁護士を目指そうかな」なんて最初は冗談で言ってはいたんですがーー法学部に進むことになりました。

でも心理学の授業を受けた時に「自分は法学ではなく、こっち(心理学)だな」と思ったこともあって。

その頃から児童福祉に興味が出てきて、たくさん本を読んだり——その後、最初に就職したのは特別養護老人ホームだったんですが、もともとは児童福祉や保育に興味を持っていて、若輩者ながら「お母さんたちが働きやすい環境を整えたい」「そのためにどうしたらいいのかな」をずっと考えていました。

それもあって、東京にいる時はさまざまな研修に参加していましたね。

自分自身も20歳前後でこどもなのに、“子育てアドバイザー”とか“チャイルドマインダー”の研修に参加したり。

参加者の中では最年少でしたし、“男性は私だけ”。
そんな状況でした。

―学校では学べないいろいろな分野の勉強をしていたというか——

当時は勉強だとも思っていなかったんです。

とにかく本を読むのが好きで、当時は電車に乗ってる時に、岩波新書や中公新書といった「新書」を読むことが習慣づいていたんです。

新書の中の知識って、実は最新の知識だったりするんです。
専門書は1万円ぐらいしますが、新書は700円ぐらいで気軽に手に入れられる。

そういった最新の情報を得ながら、自分にいちばん合致したものを見つけていく——そんなことをしていたんだと思います。

運よく保育士の資格も取得できました。
基本独学で、筆記試験はなんとかなったんですが、実技試験は大変でしたね。

楽器を弾く実技試験があって……私は音楽が苦手なので、絵を描く造形の試験と読み聞かせをする言語の試験でなんとか及第点ギリギリで合格できました。

試験官が3人ぐらいいたんですが、試験中、首をひねっていたので——「もうダメかもしれない」と思ったんですが(笑)。

―福祉の仕事ともその頃出会われたそうですね。

大学で東京に出たんですが、その時に自立支援センターで、重度訪問介護(重訪)のヘルパーとして関わり、そこで初めて障害福祉に携わりました。

当時はたくさん支援に入ってましたね。脳性麻痺や頚椎損傷の方だったり、ALSの方にも携わらせていただいて。

すごくいい出会いだったなと思ってます。

例えば——当時、関わっていたある脳性麻痺の方は政治活動をされていました。

その方は中央線沿いに住んでらしたので、そこから都心部までなど、よく介助しながら電車で行きましたね。

住まわれている地域の市長さんとも直接、よく話もしてましたし、講演会に参加されて国会議員さんと話す場にも携わらせていただきました。

「すごく精力的だな」と思いながら。
都心部で、車椅子で電車に乗って出かけるのはなかなか大変なんですが、その方とはいろんなところに行きました。

脳性麻痺の方の中には言語麻痺がある方もいらして、最初はこちらが聞き取れないこともあるんですが、ずっとやりとりをしていると聞き取れるようになるんですよね。

そういう関わりや関係を深めていった時間は、自分のその後の礎を築いていただいたな、と思います。

それから、頚椎損傷の方との関わりも印象に残っています。

当時、自分がものすごく若かったこともあるんですが、後天的に障害を持った方は、ヘルパーにも厳しいところがあったんです。

「シャツにシワをつけずに服を着させてほしい」と言われて、「どうやってすればいいんだろう」「もしかして嫌がらせでそんなふうに仰ってるのかな」——なんて悩みながらも、一生懸命取り組みました。

でも一生懸命やってるとなぜかできちゃうんですよね。
ものすごく勉強になりましたが、すごく難しかった。

そこで学んだ厳しさは、今の仕事にも繋がってます。
今もその方の顔が思い浮かぶことがあるので。

先天的に障害を持つ方と比べると、後天的に障害を持った方が持つ厳しさは障害受容の面の影響もあるのでは、と思います。

そこも含めて「慎重に対応すること」。
それから「軽はずみな言動はしないこと」。

いろいろ頭を張り巡らせながら対応していく、という行動が染み付いたのが自立支援センターでの経験でした。

CHAPTER3

挑戦が“チャンス”をつくってきた

いつか、自分でも起業を——そんな目線で福祉やI Tのさまざまな“仕事”を体験していた時期

―その後はどんなお仕事に関わられてきたのでしょうか。

卒業してからは、特別養護老人ホーム(特養)や有料老人ホームに携わらせていただいていました。

当時、私は経営者の本を読むのが好きで、旧日本型経営の方たち——松下幸之助さんや本田宗一郎さん——の話を知るのが大好きでした。

その当時はまだまだ若くて——もちろん、今でも若輩者ですが——「お母さんたちが働きやすい環境をつくりたいな」と起業を考えていて、いろんな業種を経験していたところだったんです。

―支援現場はいかがでしたか?

そうですね。
基本的に引っ込み思案なので、話を聞く方が得意なところが活きました(笑)。

おばあちゃん、おじいちゃんは同じことを何回も話されるので——母方の祖母から、「何回話されても、初めて聞いたように聞け」と教えられていたんですよ。

そういう経験が染みついていたので、何回同じ話を聞いても、それに対する返しのバリエーションも何パターンも用意できるようになっていて。

「この話、さっきもしたよね」なんてご本人から言われても「何回聞いても面白い」、と(笑)。

特養では——夜間になると、100人ぐらいの利用者をほぼ3人で見るといった現状や、スタッフのひとりが休憩に行く時にはひとりで100人を見るような体制にもなるので、「なるほど」と。

施設介護の実際を知ったなと思いながら働いていましたね。

有料老人ホームでは、ターミナルケアである方の最期に立ち会う時があったんですね。

息を引き取る瞬間まで隣にいたんですが、「あんたがおってくれてよかった」と仰ってお亡くなりになられたことがありました。

「この仕事をやっていてよかったな」と感じた瞬間でした。

その後は、福岡に戻ったタイミングで、「仕事の幅も広がるんじゃないか」とIT系の会社で働き始めました。

その会社では管理者として対応させていただいていたので、これまでいた福祉業界とは違ったコミュニケーションの取り方やクレーム対応のスキル、福祉業界にはないマネジメントのやり方を学びましたね。

働いている年代も価値観も、福祉業界とは全然違う。
その違いを実感できたことはとてもいい経験でした。

―ご経歴の中でも、IT企業で働かれていたところがとてもユニークだなと思いました。I Tの仕事は、どんなマインドで働かれていたんでしょうか。

先ほどもお伝えしたんですが、経営者の方が書かれた本が好きでよく読んでいたんです。

その中でも京セラの創業者である稲森和夫さんが仰っていた「謙虚にして驕(おご)らず」「挑戦がチャンスをつくる」というふたつが私の座右の銘なんです。

「挑戦がチャンスをつくる」——それもあって、転職にもあまり物怖じせず、楽しみだったところが大きかったですね。

当時はがむしゃらに取り組んでいたので、社内で表彰されるようなこともありましたし、いろんなシステムに触れられるので、「これを福祉に取り入れられたらいいな」と——基本、そんなマインドで働いていました。

毎日、生産性を意識して働いていたので、そういったところは今の業務にも活きています。

どんな仕事もすべて繋がってるなと思ってるところです。

転職当初から「I T系での経験を福祉に活かしていこう」という思いで働いていたんですが、長く勤めているとやはり福祉の感覚が薄れていくんですよね。

その後、こどもが生まれるタイミングで宮崎に戻ることになりまして、“自分の基礎は福祉にある”ので、宮崎ではケアマネージャーとして働き始めました。

CHAPTER4

人こそ、宝。

「やっぱり重訪はいいな」「これが最後の転職だな」と思いながら、土屋に入社しました

当時、居宅介護支援事業所でケアマネージャーとして在宅ワークをしながら働いていたんですが、担当の中に難病の方もいらっしゃったんです。

ただ、介護支援専門員の方の中には、介護保険についてはよく知っていても、障害福祉サービスや重訪になると知らない方も多い、という現状を知って——東京で、いちばん最初に携らせていただいた重訪の仕事を思い出しました。

「やっぱり重訪はいいな」「これが最後の転職だな」と思いながら、土屋に入社させていただいて、今に至ります。

―久しぶりの重訪はいかがでしたか。

土屋では、入職時は必ず支援現場に入るんですが、私は3名のクライアントの方の支援に入らせていただきました。

それまでは事務方が長かったので、最初は現場の勘が鈍っているところもありましたが、技術よりコミュニケーションの方が大事だな、と改めて思うところがありましたね。

技術はいくらでも後からついてくるので。

2022年4月に入社して、10月には宮崎事業所の管理者となりました。

そこからはいただく声がものすごく多くて——クライアントさんの数はもちろん、事業所のスタッフの数も当時から倍以上に増え、あっという間に時間が過ぎ去っていきましたね。

本当に、一生懸命、支援に入ってくださってるアテンダントさんのおかげです。
やはり“人は宝”ですので。

宮崎事業所は、今も毎月、常勤スタッフが入ってきてくださるような状況なんです。

非常勤から常勤に転換していただく方もいますし、これからもどんどん入ってきていただきたいですね。

その後、前任のエリアマネージャーの方が別部署に異動されるということで、2024年の11月に、宮崎に大分と鹿児島を加えた3事業所を担当するエリアマネージャーとなりました。

今年の6月からは、下関、北九州、福岡のエリアも加わり、合計6エリアを担当させていただいています。

責任は重いですけれども、しっかり運営ができれば、と思っている次第です。

CHAPTER5

大事なことを思い出させてくれた、あるクライアントとのやり取り

やっぱり、「クライアントとしっかり向き合う姿勢が大事なんだな」と思います

―土屋に入社されて、久しぶりに重訪の支援現場に入られた時のご経験を伺えればと思います。

最初に支援に入らせていただいたクライアントさんは印象に残っていますね。

久しぶりの支援現場だったこともあって、コミュニケーションの部分でも、新たに学ばせていただいたなと思うことがいろいろありました。

正直これは今では笑い話なんですが——ALSのクライアントさんで、右手と左手はすこし動くので、指文字でコミュニケーションを取る方がいらしたんです。

指文字は、奥様でも読み取るのが難しかったんですが、アテンダントとして長く支援に入ってるとクライアントのご意向が不思議とわかるようになってくるんですよね。

喀痰吸引をする際に、「もっと深く挿入してほしい」というご要望があったことがあります。

喀痰吸引は医療隣接行為なので、どこまで挿入できるかを主治医の方と決めているんです。

でも、「自分が責任取るから」「いや、ダメです」といったやり取りをする中で、ついつい語気が荒くなられて——そうすると、宮崎の方言も出てきて。

そういうやり取りを指文字でされるんですよ。

私は宮崎出身だからよかったんですが、「宮崎出身じゃないとこのやり取りはわからないだろうなぁ」なんて思いながら、やり取りそのものに笑いそうになってしまったことがありました(笑)。

その方とは今でもいい関係性が続いています。
そのクライアントの奥様は、ある場所まで犬の散歩に行くのが日課なんです。

今は、その場所までクライアントの方も車で行けるようになったことにすごくすごく喜ばれて、今年はすでに1回行かれているんですが、「年2回行く」と仰っているそうです。

もともとは厳しいところもあったクライアントさんで、「支援はこのアテンダントでないと」というところもあったんですが、

たくさんのアテンダントさんが関わるようになったり、信頼できる若いアテンダントさんとも過ごされるようになって、とても柔らかくなられて笑顔が出るようになりました。

左手でボタンを押して、アテンダントを呼ぶんですが——多分わざとだと思うんですが、時々、「間違えて手が当たった」なんて仰ってね(笑)。

やっぱり「クライアントとしっかり向き合う姿勢が大事なんだな」と思います。

この方とのやり取りは今もいちばんいい思い出ですね。

CHAPTER6

聞こえてくる声に応えられること——視野はもっと広く、もっと多角的に

どれだけいろんな人に出会うか、どれだけいろんな事例を経験できるか

―武田さんの価値観について伺えればと思います。人と関わる時、武田さんが大切にされているのはどんなことでしょうか。

やはり思いやりというところですね。

相手を思い、考える——土屋のバリューの中にもありますが、人と接する時には「聞く」というところを大事にしています。

ただ最近は、話しすぎるところも出てくるようになってしまってますが(笑)。

―介護や福祉の仕事は相手あっての仕事で、人との出会いで変わってくるところも多いと思います。これまで福祉や介護の仕事を続けてきた中で、武田さん自身が変わってきた部分を教えてください。

そうですね。
変わってきたのは——見えるものがだんだんと広くなってきたな、と思います。

年齢を重ねるにつれて視野が広くなって、別業界も知ることで、さらに多角的に見れるようにもなりました。

最初の頃はどうしても、利用者さんと向き合うところがいちばんになってしまってはいたんですが——やはり、どれだけいろんな人に出会うか、どれだけいろんな事例を経験できるかはとても大事だと思います。

―今、仕事や日々の中で、喜びを感じるのはどんなところですか。

毎日毎日、繰り返しではあるんですが——それでもやはり、クライアントの方に「ありがとう」と感じていただけることでしょうか。

聞こえてくる声は今も多いんです。宮崎事業所はこれだけ人員がいるにも関わらず、いただいた声にまだまだ応えられていない部分もあります。

そのジレンマを感じながらも、声に応えられること、それから採用のご応募もいただくので、新しい職員さんに入ってきていただけることはとても嬉しいです。

日々の中では——複数の事業所を担当させていただくようになって、月1回ほど福岡からモニタリングに行くようになりました。

特別な事情がない限りは、実際に足を運びたいと考えていて、スタッフの顔を見て話すこともできますし、実際に足を運ぶことで喜んでくださるクライアントさんもいらっしゃるので、それは大事にしています。

福岡から担当エリアの鹿児島には車で2時間ほどで着くのですが、大分は3時間半ほどかかるんです。

最初は遠いと思っていたものの——通っているうちに感覚がバグるのか、今はすごく近く感じるほどです(笑)。

朝、こどもを保育園に送って、そのまま高速に乗って、大分に着いて、いろんな方とお会いして、

また宮崎に帰ってきて——他県の事業所へは日帰りで行くことが多いんですが、家に帰るとこどもが喜んでくれるので、その姿を見られるのは嬉しいですね。

CHAPTER7

しっかりとひとりひとりと向き合って、その声に応えていきたい

九州はなんとなく落ち着くんですよね。それが私にとっての“住みやすさ”なのかもしれません

―これからのことを伺えれば、と思います。ホームケアで、これからどんなことを行なっていきたいですか?

そうですね。

入職してからは幅広く、いろいろな経験をさせていただいて、今は担当エリアも6エリアと増えました。

宮崎事業所ではこれまで、たくさんの声に応えてきましたが、これからは、新たに担当させていただく広範囲のエリアでの声に応えていきたいですね。

私は九州が大好きなので、九州に貢献できるようにこれからも頑張っていきたいなと思っています。

宮崎事業所では——下は21歳の方から、40代から50代がいちばん多く、上は70歳ぐらいまで——常勤・非常勤の方合わせて50名くらいのアテンダントさんが働いてくださっています。

今はエリアマネージャーをしながら、宮崎事業所の管理者も兼任してますので、今後はどこかで新しい管理者に引き継ぎをしていければいいなとも思っています。

あとは「働きやすい環境をつくりたい」ですね。

介護職は3:7の割合で女性の数が多いこともあって、くしくも10代の時に考えていた「お母さん(女性)が働きやすい環境を」といったことを再び考えるようになりました。

ただ、“働きやすい環境”といっても、それぞれ違うとは思うので、難しいことではあるんですが。

ただ、宮崎事業所は今のところ離職率が0なんですよ。

―それは素晴らしいですね。

事業所が原因で離職に繋がるようなことがないよう、これからも動いていきたいですね。

担当エリアも含めて、しっかりとひとりひとりと向き合って、声に応えていきたい。

それが今の思いです。

―「九州が大好き」とも仰っていました。

そうですね。

私自身は東京、愛知、大阪……あちこちに住んで、それぞれの良さがありましたが、やはり九州は「なんとなく落ち着く」といった感覚があるんですよね。

それが九州のパワーなのかわからないんですが(笑)。
私にとっての“住みやすさ”なのかもしれません。

自分が生まれ育った宮崎と、大分は新幹線が通っておらず、交通インフラが整っていないところもあります。

でもそこも含め、“憎めない”のがいいんでしょうね(笑)。

「お人好しが多いのかな」とも勝手に思ったり——そういったところが九州のいいところなのかな、と思いますね。

CHAPTER8

「今、ないんだったらつくればいい」——さまざまな声に応えていく“社会的企業”に

今後増えていくであろう社会的課題を解決できるような力を、今のうちからつけておきたい

―やはりマネージャー層の方からお話を伺っていると、常に10年後、20年後のことを考えながら、働かれていることを痛感します。武田さんが「10年後、20年後、こんな社会になってたらいいな」という思いはありますか。

そうですね。

10年、20年っていうところで言うと、これからは数年単位で、2025年問題、2030年問題、2040年問題……と言われて問題にされていくんだろうな、と思います。

ただ福祉に関しては、やはり“人対人”の仕事であって——今、AIが台頭してきてますが、

この仕事はどうしてもAIではできないものになってくるので、いかにこの介護業界に興味を持ってもらい、入ってきていただくか、というところは大きいですね。

やはり、これだけ人が来てくださっていても、人手は不足しているので。
それから、未来であるこどもたちへの事業も大事だなと思っています。

例えば、医療的ケア児法が施行され、「医療的ケア児の声にも応えられるように」と昨年、社内でもプロジェクトが立ち上がりました。

そういった今後、増えていくであろう様々なニーズに応えていけるよう、体制を整えておかないといけないなと思ってます。

それから、土屋の理念に基づいて、へき地と呼ばれるような過疎地域に事業所を新設していく話も伺いました。

土屋は、もちろん営利法人ではあるんですが、いろいろな声に応えていく“社会的企業”だとも思ってるので、「今、ないんだったらつくればいい」——そんな会社になっていきたいなと思います。

そう考えると、社会的課題を解決できるような力を、今のうちから私もつけておきたいなと思いますね。

―武田さんは、介護や福祉の仕事を10年ほど続けられてきました。“この仕事を続けてきた理由”を最後に聞かせてください。

多分——福祉や介護の仕事に向いていたんだと思います、単純に。
続けられてきたのは、「向いてる」っていうことに尽きるかな。

原動力は内から出てくるものなので、なぜ動いてるのかはわからないんですが(笑)。

その中でも——エゴかもしれませんが——自分の業務が誰かの役に立ってるのであれば、すごく嬉しいですよね。

24時間365日、サポートをさせていただいているので、マネジメントがうまくいかなければ、クライアントの生活が成り立たない。

そういった責任感も自分にとっては原動力になってるのかもしれません。

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